仮説
教室へと戻るわずかな距離の廊下が、陸沈にとっては恐ろしいほど長く感じられた。
昼休みの終わりを告げる予鈴の余韻が消えゆき、生徒たちは足早にそれぞれの教室へと戻っていく。友人を呼ぶ誰かの声、制服の袖が触れ合う摩擦音、床を滑る清掃ロボットの低く響く駆動音。それらが交じり合い、いつもと何の変哲もない午後の始まりを形作っていた。
階段の差し掛かりで、二人の男子生徒が互いを突き飛ばし合いながら走ってきた。前にいた生徒がちょうど陸沈の目の前で急停車し、一言謝罪を口にしながらすれ違っていった。
陸沈は無意識に足を緩めた。もし自分がほんの数歩早く廊下に出ていたら、彼らと衝突していたかもしれない。そうなれば、午後の授業に遅刻し、教師の反応も周囲の会話も変化していたはずだ。それだけの微細な差異が、時間を再び5月8日へとリセットさせる原因になり得るのだろうか?
以前の彼なら、そんな考えを荒唐無稽な妄想だと切り捨てていただろう。
だが今の陸沈にとって、どれほど奇妙な仮説であれ検証する価値があった。
常理を超えた現象をすでに二度も経験した以上、常識に囚われて思考すること自体が極めて危険なのだ。
彼はドアを押し開け、極めて平然とした表情を無理やり作ると、自分の席に着いた。
「お前、さっきどこ行ってたんだよ?」
彼が腰を下ろすか下ろさないかのうちに、陳虎が声をひそめて身を乗り出してきた。
「トイレだ」
「顔洗うだけで、あんな全速力で走る必要あるかよ?」
「急に気分が悪くなったんだ」
陸沈は机の上に教科書を広げながら答えた。
午後の第一課は『基礎構文』だった。
教師が黒板に例文を書き走り、構文の分析方法を解説し始める。陸沈は手にペンを握りしめていたが、心は授業にまったく向いていなかった。
記憶の軌道通りに進行していく授業とともに、薄寒い感覚が陸沈の体内で幾重にも積み重なっていく。彼はノートの端に今日の日付を書きつけた。5月8日。続いてその下に5月12日と書き、二つの日付の間に太く重い線を一本引き直した。
6月23日から5月8日へと巻き戻った一回目、陸沈の記憶は極めて曖昧だった。夢のような残像と感情だけが残り、確定した現実として扱うことなど到底不可能だった。
対して、5月12日から巻き戻った二回目、彼の記憶は何一つ失われていなかった。この差には、必ず裏にあるロジックが存在するはずだ。
陸沈は真面目に授業を聞いているフリをしながら、ノートに小さな文字で手早く書き留め始めた。
『一回目:6月23日から5月8日へ』
『二回目:5月12日から5月8日へ』
陸沈は書いた文字の横にクエスチョンマークを添えた。
それから、彼は5月12日に自分が行ったすべての行動を、思いつく限り羅列し始めた。
登校(すべて正常)。
陳虎を放課後の補習に誘う。
授業中、未来の授業内容を知っている状態で問題を解く。
放課後、陳虎に『数理論理』を教える。
記憶にある登階考の出題形式に極めて近い問題を選抜。
陳虎が問題を解き明かす。
明日も続ける約束を交わす。
陳虎が教室を去る。
唐突に襲ってきた強烈な眠気。
巻き戻り。
リストを書き終えると、陸沈はそれを何度も何度も読み返した。
巻き戻りを引き起こした原因が5月12日の行動に含まれていると仮定しても、容疑となる要素はあまりにも多すぎた。
陳虎に勉強を教えた行為、登階考の未来を変えようとした意図、記憶にある出題内容の利用、あるいは単に特定ノードの時間に達したことによる自動巻き戻り——それらの可能性はどれ一つとして排除できなかった。
もし5月12日が強制的な終点なのだとしたら、どう過ごそうと、同じ時間に巻き戻るはずだ。
もし陳虎への干渉こそが引き金なのだとしたら、他人に同じことをしても異常は起きないかもしれない。
もし未来の知識を持った状態での行動自体がタブーに触れているのなら、自分が何をしようと、5月8日に送り返される運命からは逃れられない。
一体どの仮説が正しいのだろうか?
陸沈は新しいページを開き、中央に「可能性」という三文字を書きつけた。
そしてその下に番号を振り、脳裏に浮かぶ仮説を一つずつ整理していった。
一、記憶と一致しない未来を創造したことで、巻き戻りが発生。
二、陳虎の運命に干渉したことで、巻き戻りが発生。
三、登階考に関連する未来の知識を利用したことで、巻き戻りが発生。
四、未来の情報を他人に漏洩したことで、巻き戻りが発生。
五、5月12日の特定時刻において、必然的に巻き戻りが発生。
六、精神的または身体的異常により、主観的に時間の逆行という錯覚が生じた。
六番目を書き終えた後、陸沈はその一行を凝視した。
端末上の日付、記録、そして物品の状態までもが確かに変化している以上、単なる幻覚として片付けるには明らかに無理があった。
だがそれでも、彼にはそれを完全に排除する勇気がなかった。「自身の認知に異常が存在する可能性」を棚上げしてしまえば、以降すべての判断を誤った方向へ導いてしまう危険性があるからだ。
「陸沈」
隣から低く名を呼ぶ声が聞こえ、陸沈は慌ててノートを閉じた。
蘇晴は前を見つめたまま、視線だけを彼に向けた。「先生が見てるわよ」
陸沈が黒板の方へ目をやると、解説の手を止めた教師が上から彼をじっと睨みつけていた。
「陸沈くん。さっきから熱心にペンを走らせているようだが、今の構文について皆に解説してもらおうか」
全クラスの視線が一瞬にして彼に集まった。
陸沈は立ち上がり、黒板の文章に目をやった。
その瞬間、前回のこの授業で教師が行った全解説が、彼の脳裏に完璧に蘇った。主文、従属節、修飾関係、結論部分の接続形式……答えるべき内容が順番通りに整然と並んでいく。
陸沈は記憶をなぞり、何一つ滞ることなく、流れるように解説を完遂した。
教師は最初驚愕の表情を浮かべたが、最後には満足げに頷いた。
「完璧だ。それほど理解しているなら授業中に別のことをしていても文句は言わんと言いたいところだが、他の生徒の手前、今後は控えるように」
教室内にさざ波のような笑い声が広がった。陸沈は簡潔に謝罪し、席に戻った。
「今日のお前、やっぱり変だよ」
蘇晴は教科書に視線を戻し、低く呟いた。
「突然飛び出していったこともそうだし、授業を聞いてなかったくせに完璧に答えられることもそう。さっきだって隠すようにコソコソ書いてたじゃない。どう見てもただの体調不良には見えないわ」
「……ちょっと考え事をしていただけだ」
「何を?」
追及され、陸沈は一瞬言葉に詰まった。
「登階考の復習方法について考えてたんだ」
陸沈は無難な回答を選んだ。
蘇晴は納得していない様子だったが、教師の視線が再び向けられたのを察したのか、それ以上追求してくることはなかった。
「復習方法を考えてるだけなら、あんな恐ろしい顔にならないわよ」
◇
放課後、授業が終わるやいなや、陳虎が一番に陸沈の席へとやってきた。
「おい、さっき何書いてたんだよ?」
「復習の計画だ」
「見せろよ。どうせ登階考でサボるための秘密計画だろ」
陳虎がノートを奪おうと手を伸ばしたが、陸沈は半ば本能的に、ノートを抱え込むようにして奪い返した。
その防御姿勢があまりにも苛烈だったため、陳虎の顔から一瞬で笑顔が消えた。
「……俺に見せられないようなことでも書いてんのか?」
「まだ整理できていないだけだ」
「整理できてなくても、そんな死に物狂いで隠さなくたっていいだろ」
陳虎の声に、微かな不満の色が混じった。
陸沈は口を開いて何か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
「すまん、後で教えるよ」
そう言う陸沈を、陳虎はしばらくじっと見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「お前、最近秘密が多いな」
苦笑いで誤魔化すより他に術がなかった。
◇
放課後、陸沈は誰よりも早く学校を後にした。
陳虎からタコスに誘われたが、今日は用事があると言って断った。
前回、5月8日に自分がどうやって帰宅したのか、細かい記憶は残っていない。下校ルートを変えることで、未来にどれほどの変化が生じるか、そしてその変化が巻き戻りを引き起こすかをテストすることはできるが、何の準備もないまま無謀に実験を始めることには、なおも強い抵抗感があった。
まずは状況を正しく整理し、安全性の最も高い行動から試さなければならない。
陸沈はいつもと違う道を歩き、いつもと違う交差点で信号を待った。何事も起きないようだった。
玄関のドアを押し開けると、台所から母親の声が聞こえてきた。
「おかえり。今日は早かったのね」
「ただいま」
夕食の準備をしながら、母親は最近の復習の進捗や体調について尋ねてきた。その雑談を聞きながら、陸沈の胸の奥深くに奇妙な安心感が込み上げてきた。
6月23日の記憶においても、5月12日までの記憶においても、両親との会話は断片的な欠片しか残っていなかった。彼の意識は友人の未来に奪われ、家で何を話したかなどほとんど覚えていなかったのだ。
目の前にいる母親は、時間が巻き戻ったことなど知る由もない。自分の息子が数日前まで別の未来を生きていたことも知らず、今まさに「夕飯は何がいい?」という至極ありふれた問いを投げかけている。
陸沈は一瞬、すべてを打ち明けてしまいたいという衝動に駆られた。
6月23日に陳虎が不合格になること。
自分が5月8日に戻ってきたこと。
たった一人でも自分を信じてくれる人がいれば、この息が詰まるような恐怖を一人で背負わずに済む。
しかし、ノートに書いた四番目の仮説が脳裏をよぎった。
——未来の情報を他人に漏洩したことで、巻き戻りが発生。
現状、何の根拠もない。5月12日に陳虎へ教えた内容が元凶だと決まったわけでもない。
けれど万が一、両親を巻き込んだ状態で巻き戻りが発生した場合、どんな結果が待ち受けているか、想像することすらできなかった。
「今日は何が食べたい?」
没頭していた彼に、母親が再度尋ねた。陸沈は少し沈黙した後、「なんでもいいよ」と低く答え、自分の部屋へと向かった。
デスクの上には、登階考の対策問題集や学校から配布された資料が積み上げられていた。
壁には5月のスケジュール表が貼られ、5月11日の欄には決起集会、6月8日には登階考最終日、6月23日には出窓(結果発表)と書かれている。陸沈は鞄からノートを取り出し、机の上に置いた。
午後の授業中に書き殴った仮説を読み返し、それぞれの仮説を検証するために必要な実験の構想を始めた。
「記憶と一致しない行動をとった時」の検証として最も安全なのは、日常の些細な選択を変えることだ。昼食の場所を変える。普段と違う道で帰る。誰かとの会話で違う返答をする。この程度の変化であれば、陳虎の登階考や6月23日の結果に直接影響を与える可能性は限りなく低い。それに、これは先ほどすでに実験済みだ。
次に確認すべきは、「未来の情報」そのものだ。
登階考とは無関係な未来の出来事を事前に他人に伝えることで、時間が巻き戻るか観察する。
時間と内容が明確であり、かつ誰一人として危険にさらすことのない出来事を選ばなければならない。
陸沈は記憶をたどり、5月9日から12日にかけて起きた出来事を精査した。
張磊がハマっているオンラインゲーム『突撃小隊』が、5月9日の夜に事前の告知なしで緊急メンテナンスを行ったはずだ。
翌朝、張磊が教室で運営への愚痴を大声でこぼしていたため、具体的な時間も内容も陸沈はかなり正確に記憶していた。これが使える。
陸沈はノートに次々と追記していった。
『実験一:明日の昼食の場所を変更する』
『実験二:廊下で起きるはずの小さな事故を回避する』
『実験三:ゲームの緊急メンテナンスの件を事前に張磊へ伝える』
『実験四:陳虎には公表済みの基礎問題のみ指導する』
最後の実験を書き込もうとした瞬間、陸沈の手が止まった。
『実験五:5月12日に解かせた問題を、再び陳虎に指導する』
この文字を書き下した瞬間、放課後の教室と、あの異様な眠気が鮮烈に蘇り、彼の指先を冷たく凍りつかせた。
まったく同じ行動をとれば、再び時間の巻き戻りを引き起こす可能性は極めて高い。5月8日からのこの四日間を、陸沈は再び一人で繰り返さなければならなくなるのだ。周囲の誰も何も覚えておらず、すべてが陸沈一人の記憶だけに留まる。
それでも、確かめなければならない。危険の境界線を把握しないまま陳虎の復習を手助けすれば、同じ失敗を何度でも繰り返すことになる。巻き戻りの条件を突き止められなければ、6月23日へ向かう計画を立てることすら叶わない。
陸沈は「実験五」の文字を丸で囲み、その横に「最後」と書き添えた。
時間が再び5月8日にリセットされれば、このノートも元の状態に戻ってしまう。
陸沈は指先で紙の上の筆跡をなぞった。
巻き戻りを越えて残せるものは、現時点では彼自身の記憶だけなのだ。
何度も頭の中で暗唱し、言葉を脳の奥深くに深く根付かせた。
それでも、不安が消え去ることはなかった。人間の記憶は揺らぐものだ。もしこれから先、同じ日を何度も繰り返すことになれば、どの出来事がどの時間軸のものだったのか、いずれ判別がつかなくなるだろう。
陸沈はノートを見つめ、文字を書きつけた数ページをすべて破り取った。紙を細かく引き裂き、ゴミ箱へ捨てようとして、思いとどまった。
このまま部屋に残しておけば、母親が何気なく目にしてしまうかもしれない。
彼は破片をさらに細かくちぎり、水を満たした容器へと沈めると、指先で徹底的に揉みほぐした。紙上の文字が完全に溶け出し、判別できなくなるまで。
濁った水の中で紙くずが元の形を失っていく様を見つめながら、陸沈の胸に奇妙な感覚が湧き上がってきた。
自分が生きてきたあの時間も、世界の目から見れば、こうして処理されてしまったのだろうか。
夕飯だと母親に呼ばれるまで、陸沈はただ静かに机に向かい続けていた。
夜、風呂から上がり部屋に戻ると、端末に陳虎からのメッセージが届いていた。
『お前、今日ホントに大丈夫だったか?』
少し間を置いて、もう一行届く。『なんか変な悩みでもあんなら、いつでも言えよな』
陸沈は入力欄を開いた。伝えたい言葉は山ほどあった。
しかし長い時間の末、陸沈が打ち込んだのは簡潔な返信だった。『ただの寝不足だ、心配するな』
陳虎からはすぐに返ってきた。『ならいいや。明日はシャキッとして来いよ』
続いて、タコスのイラストを描いた大げさなスタンプが送られてきた。
陸沈は思わずくすりと笑った。
だがほぼ同時に、6月23日の『じゃあな』という言葉が脳裏をよぎり、笑みは一瞬で霧散した。
明日は5月9日だ。
明日を、前回とは決定的に違う5月9日にしなければならない。
まずは昼食の場所を変え、廊下で起きるはずの小さな衝突を回避する。
もし時間が何事もなく進むのなら、日常の細部を修正することはルール上許されていると判断できる。
その上で、登階考とは無関係な未来の情報を張磊に伝える。
最も安全な事項から一つずつ確かめ、最終的に陳虎の復習へと還元していくのだ。
決して焦ってはならない。一度の判断ミスが何をもたらすか、今の自分にはまだ何も分からないのだから。
陸沈は端末を伏せ、ベッドに横たわった。
漆黒の天井を見つめながら、心の中でその事実を何度も何度も反芻した。
やがて疲労が恐怖を打ち負かし、意識がゆるやかに沈み込み始めた。
完全に眠りへと落ちる直前、彼は心の中で深く祈った——明朝、目を覚ました時も、どうか5月9日でありますように、と。




