巻き戻り
机の上に置かれた端末は、何度見つめても同じ日付を表示していた。5月8日。
画面を閉じ、もう一度点ける。5月8日。
設定画面を開き、端末の時間設定が自動同期になっていることを確認する。都市中央時間との誤差はゼロ。通信状態にも何の異常もない。しかし、画面に表示される日付だけは、何一つ変わっていなかった。
「おい、陸沈」
背後から陳虎の声がした。
その瞬間、陸沈の肩が激しく跳ね上がった。
「さっきから何をぶつぶつ言ってんだよ? 寝ぼけてんのか?」
陸沈は振り返らなかった。振り返らなくても分かっていた。今の陳虎がどんな顔をしているか。片方の眉を少しだけ跳ね上げ、口元に半端な笑みを浮かべているはずだ。左手は参考書の端を押さえ、右手の人差し指で机の表面をトントンと叩いている。
一回。二回。
背後から、硬い机を叩く音が響いた。氷のような戦慄が、一瞬にして陸沈の脊髄を駆け抜けた。
「陸沈?」
続いて陳虎が首を傾げた。そして、あの言葉を口にした。
「……試験が近いからって、緊張して眠れねえのか?」
「……試験が近いからって、緊張して眠れねえのか?」
陸沈は、陳虎よりほんのわずかに早く、その言葉を遮るように吐き出した。
二人の声が完全に重なり合う。陳虎は口をぽかんと開けたまま、その場に固まった。
「……は?」
そこに立っていた陳虎は、記憶の中と寸分違わぬ表情を浮かべていた。
乱れた襟元。緩んだネクタイ。眠たげな目。参考書に添えられた左手。
すべてが、何から何まで一緒だった。ただその瞳にだけ、記憶には存在しない困惑の色が浮かんでいる。
「お前、今……」
「ただの偶然だ」
陸沈はきっぱりと言い放った。
「何の偶然だよ! 俺が言おうとしたこと、お前そっくりそのまま先に言ったじゃねえか!」
「顔を見れば分かる」
「顔見て分かるわけねえだろ!」
陳虎は気味悪そうに自分の頬を触った。
「俺の顔にセリフでも書いてあんのかよ?……まあいいや、タコス食いに行こうぜ!」
サクッ、と紙を捲る小さな音が響いた。
蘇晴の手指が止まった。彼女は微かに眉をひそめ、捲り過ぎてしまったページを一枚元に戻した。
陸沈は喉の乾きを感じた。
次は——
廊下の奥から、張磊の豪快な大くしゃみが聞こえてきた。
「ハッ……クショイ!」
教室内の数人が吹き出した。
「誰だよ今の!」「どうせまた張磊だろ」
笑い声が広がっていく。その和やかな笑い声の最中、一機の巡回用ドローンが窓の外を通り過ぎて行った。
低く響く駆動音。灰色の機体。側面に刻まれた、新アトランティス区治安管理局の紋章。過去の記憶には残っていなかった——あるいは、残っていたとしても気にも留めていなかった光景。
陸沈はガタッと勢いよく立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、耳障りな甲高い音を立てる。
陸沈はそのまま教室を飛び出した。
廊下を疾走する。
すれ違う生徒たちが驚いたように振り返る。
階段の踊り場には、一台の清掃ロボットが止まっていた。右側の車輪に紙くずが絡まり、赤色の警告灯を点滅させている。それすらも、記憶とまったく同じだった。
男子トイレに滑り込み、個室のドアを強く閉めきった。鍵をかけた瞬間、全身の力が失われた。
陸沈はドアに背を預けたまま、ずるずると床にへたり込んだ。
「……5月8日」
声に出してみた。声が震えていた。
「今日は……5月8日だ」
だが彼自身の記憶の中では、ついさっきまで確かに5月12日だったのだ。
放課後の教室。
並べられた机と、隣に座る陳虎。
頂点の公式。平方完成。
裏紙の上を飛ぶように走っていた鉛筆の芯。問題を解き明かした時の、子供のように晴れやかな陳虎の笑顔。
——解けた!——これで合ってるか?——正解だ。完璧。
あの声も、あの感覚も、陸沈の脳裏には今なお鮮明に残っている。夢のように霞むことなどなく、匂いすら覚えていた。
夕暮れの教室に漂っていたチョークの匂い、窓から吹き込んでいた、少し湿り気を含んだ風。
——明日も続けるか?——明日もやるのか。
あれは絶対に夢なんかじゃない。ただの夢であるはずがなかった。
陸沈は端末を起動した。まず、チャットの送信履歴を確認する。
5月9日に張磊と交わした会話の記録はない。5月10日の勉強会の連絡もない。5月11日の決起集会に関する学校からの通知は、「予定」のステータスのまま止まっていた。
すべてが巻き戻されていた。
陸沈はアルバムフォルダを開いた。5月9日の夜、陳虎がタコスを豪快に頬張っていた写真。消えている。
5月11日の決起集会で、遠くから撮影した壇上の蘇晴の写真。それもない。
5月8日以降に起きた出来事のすべてが、「まだ起きていない事実」へと塗り替えられていた。
「どうして……」
呟いた瞬間、洗面所の鏡に映る自分と視線がぶつかった。
顔色は恐ろしいほど蒼白だった。額からは冷たい汗が滲み出ている。
これは5月8日の自分の身体だ。だが、この身体の中には、5月12日までの記憶がぎっしりと詰め込まれている。
それだけではない。6月23日の記憶すらも。
判定塔。
493点。
陳虎の492.5点。
『じゃあな』。
一面の、灰色。
最初に5月8日に戻ってきた時、それらは単なる夢の断片に過ぎなかった。思い出そうとするたび、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えてしまっていた。だが、今は違う。
すべてを、残酷なほど鮮明に思い出せる。
陸沈は目を閉じた。刹那、二人の陳虎の顔が重なり合った。
6月23日、端末の向こう側で沈黙に呑み込まれた陳虎。5月12日、問題を解き明かして満面の笑みを浮かべていた陳虎。
一人は落選した。もう一人は、変わり始めていた。
自分は……確かに未来を変えたはずだったのに。
それなのに——時間は巻き戻ってしまった。
「僕が……何かをしたからなのか……?」
陸沈は小さく呟いた。
5月12日に起きた出来事を、一つひとつ脳内で反芻する。
朝、いつものように登校した。
放課後の勉強に陳虎を誘った。
授業を受けた。放課後、二人で問題を解いた。
そして、突如として襲ってきた眠気。
何一つ、特別なことなどしていない。
ならば原因は、陳虎に勉強をさせたことだろうか? 未来を変えてしまったからだろうか? あるいは、あの問題そのものが原因だったのか?
「……分からない」
声が狭い個室の中に消えていく。分からない。
だが、否定できない事実が一つだけあった。時間は巻き戻ったのだ。
しかも、この現象は一度目ではない。6月23日から5月8日へ。そして5月12日から、再び5月8日へ。
二度の到達点は、完全に一致している。
同じ教室。同じ授業。同じ時刻。
まるで目に見えない何かが、このポイントに強烈な刻印を打ったかのように。
廊下から生徒たちの足音が聞こえ始めた。昼休みが終わるのだ。
陸沈はその体勢のまま、長い間動くことができなかった。
教室に戻れば、そこに陳虎がいる。
何も知らない陳虎。5月12日に問題を解いたことも、明日も勉強を続けようと約束したことも覚えていない陳虎。彼にとって、あの時間は最初から存在しなかったのだ。
存在しているのは、陸沈の脳内の中にだけ。
その事実が、時間の巻き戻りそのものよりも恐怖を煽った。
自分自身が覚えている限り、あの出来事は消えていない。
けれど、誰とも共有できない記憶は、本当に「存在した」と言えるのだろうか?
今すぐ陳虎に伝えたら、どうなる?
『5月12日、俺はお前に勉強を教えた』『お前は問題を解いて、明日もやるって約束したんだ』
間違いなく、彼は信じないだろう。冗談だと笑い飛ばされるか、頭がおかしくなったと思われるのが落ちだ。
それでも、言うべきなのだろうか?
胸の奥深くが、締め付けられるように激しく痛んだ。
まだ何も解明できていない。タイムリープの条件も、自分だけが記憶を保持している理由も、次にいつ巻き戻るかも。
軽率に動けば、また何かを失ってしまうかもしれない。
陸沈は冷たい水で顔を洗った。鏡の中の自分は、相変わらずどこにでもいる十八歳の少年だった。
ただその瞳だけは、もう彼の知っている少年のものではなくなっていた。
「落ち着け」
彼は心の中で自分に言い聞かせた。
「まずは、確認するんだ」
これが夢でないことは確定した。次に確認すべきは、何が原因で時間が巻き戻るのか。何を変えることなら安全で、何を絶対にしてはいけないのか。
そして——
自分は、本当に陳虎の未来を変えることができるのか。
陸沈は深く息を吸い込んだ。鏡の中の自分をじっと見つめ、一文字一文字を胸の奥底に刻み込むように、低く、力強く呟いた。
「俺は、本当にやり直しているんだ」




