揺り戻し
5月12日、午前8時。
陸沈は教室の自分の席に座っていた。机の上には教科書が開かれ、カレンダーには5月12日の日付が記されている。
今日は至って普通の一日だ。決起集会もなければ、特別なイベントもない。ただのどこにでもある、5月12日の朝。
しかし、彼の胸の奥には、昨夜ベッドの中で静かに固めた誓いがあった。今日こそは、何が何でも陳虎に勉強を教えるのだ。ただそれだけのこと。大層な事件でもなんでもない、友人に勉強を教えるなど、本来ならごく当たり前の日常に過ぎない。
「おはよう、陸沈! 今日は遅刻しなかったな!」
背後から陳虎の声が響いた。陸沈は振り返り、微かに微笑んだ。
「お前こそ、今日は珍しく時間通りだな」
「当たり前だろ! 俺だってたまには本気出すっつの!」
陳虎が大げさに胸を張る。その姿を見て、陸沈の口元が自然と緩んだ。
「……陳虎、今日の放課後って暇か?」
「放課後? ……なんだよ、急に」
「ちょっと付き合ってほしいんだ」
「なんだなんだ?」
「勉強だ」
その二文字を聞いた瞬間、陳虎の表情が一気に陰った。全身で拒絶を示し、ブンブンと首を振る。
「……勘弁してくれよ。勉強はナシだ」
「お前な、そろそろ本気出さないと間に合わなくなるぞ」
「勉強したって成績が伸びる保証なんてねえだろ。俺はもう諦めてんだよ」
陳虎のその言葉を聞いた瞬間、陸沈の胸の奥がキリキリと痛んだ。
——諦めた。
その一言が、彼の中の何かのスイッチを押した。彼は陳虎の目をまっすぐに見つめ、強い口調で告げた。
「お前は、絶対に合格できる」
「……お前、急に何言ってんだよ」
「俺が保証してやる。お前がその気になれば、絶対大幅に伸びる」
陸沈の声は、自分でも驚くほど毅然としていた。陳虎はその強い眼差しに圧されるように、一瞬絶句した。そして、はぁと小さく溜息をついた。
「……分かったよ。でも、一時間だけだぞ」
「ああ、交わしたぞ」
陸沈は頷いた。胸の中に、小さな安堵が広がる。
◇
午後の授業が終わり、放課後を迎えた。
教室には二人だけが残っていた。陸沈が自分の机の上に問題集を広げ、その隣に陳虎が心底嫌そうな顔をして腰掛けている。
「で、何をすりゃいいんだよ」
「まずは『数理論理』からだ。お前の一番の苦手科目だろ」
「……よく分かってんな」
「当たり前だろ、友達なんだから」
陸沈はそう言いながら問題集を捲った。彼はある非常に特定の問題を選び出した。なぜかは自分でも分からない。だが、この問題が必ず「登階考」に出題されるという絶対の確信が彼の中にあった。
理由は説明できない。ただ、脳裏に自然と問題が浮かび上がってきたのだ。
「……これを解いてみてくれ」
陸沈が問題を指し示す。陳虎は面倒くさそうにペンを取り、問題文を読み始めた。
「えーっと、『関数の最小値を求めよ』……なんだこれ、意味分かんねえ」
「まずは頂点の公式を覚えろ。この問題を解くには、頂点の座標を求めるのが第一歩だ」
陸沈は根気強く解説を始めた。頂点の公式、平完成、代入のコツ。
陳虎が理解しやすい言葉を選び、一つひとつ丁寧に解きほぐしていく。
「……なるほど。そういうことか」
陳虎が頷いた。彼のペンが裏紙の上を滑らかに走り始める。最初はぎこちなかったが、すぐにテンポが上がっていった。
「……解けた!」
陳虎が顔を上げた。その表情には、小さな達成感が浮かんでいた。
「これで合ってるか?」
「見せてみろ」
陸沈は陳虎の答案を受け取った。計算過程、導出の手順、最終的な答え。すべて正解だった。
「……正解だ。完璧」
「マジかよ! 俺、もしかして天才なんじゃね!?」
陳虎が興奮気味にガッツポーズを作った。その天真爛漫な喜びようを見て、陸沈も思わず破顔した。
「もう一問やってみるか?」
「望むところだ!」
陸沈は次の問題を指差した。これもまた、彼の脳裏に「絶対に出る」という強い予感が宿っている問題だった。なぜだか分からないが、知っているのだ。
解いた覚えも復習した記憶もないはずなのに、問題の構造も、解法も、答えも、すべてが鮮明に浮かんでくる。
「今度はこれだ。さっきのより少し難しいぞ」
「乗ってきたぜ!」
陳虎が再びペンを握り直す。陸沈は彼の様子を伺いながら、丁寧に指導を続けた。
三問目、四問目、五問目。
時間はあっという間に過ぎていった。陳虎は次々と難問を攻略していった。
最初は頭を抱えていたものの、進むにつれて解答のスピードは上がり、手つきもスムーズになっていく。
「……すげえな。俺、こんなにスラスラ数学解けたの初めてだわ」
陳虎が感嘆の声を漏らす。その横顔を見つめながら、陸沈の胸は達成感で満たされていた。
——これなら、あいつの点数は少しは底上げされるはずだ。
「今日はここまでにしよう。よく頑張ったな」
「おう! サンキュ、陸沈!」
陳虎が笑顔で立ち上がった。その笑顔を見て、陸沈の心に「正しいことをした」という確かな手応えが宿る。
「明日も続けるか?」
「……明日もやるのか?」
「ああ。毎日続ければ、絶対に成果は出る」
陳虎は一瞬躊躇したが、すぐに小さく頷いた。
「……分かった。明日もやろう。でも今日はもう帰るわ、目茶苦茶疲れた」
「ああ、気をつけて帰れよ」
陳虎は鞄を担いで教室を出て行った。その背中を見送りながら、陸沈は机の上の問題集を閉じた。
——良かった、これが第一歩だ。
彼は心の中でそう呟いた。自分は正しい選択をしたのだ。これなら陳虎を救える。
その確信が、彼の胸を温かく満たしていた。
◇
陳虎が去った後、陸沈は自分のデスクの片付けを始めた。教科書を鞄に押し込み、シャープペンシルを筆箱に戻す。明日使うものを揃え、いざ教室を出ようとしたその時——
「……あれ?」
強烈な眠気が、唐突に彼を襲った。まるで何者かが体内のエネルギーを力任せに吸い上げているかのような、異様な虚脱感。
「……なんだ、これ……」
両手で固く机を支え、必死に目を開けようとする。しかし、瞼は鉛のように重い。
まるで深淵へと引きずり込まれるかのように——意識が急速に遠のいていく。
「……嘘だろ。なんでこんなに急に眠気が——」
朦朧とする意識の中でそう呟き、彼はそのまま机の上に倒れ込んだ。その瞬間、彼の意識は完全な闇へと呑み込まれた。
◇
——どれほどの時間が流れただろうか。
陸沈はゆっくりと目を開けた。視界に映ったのは、見慣れた教室の天井だった。
どうやら自分は、さっき机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。
「……寝落ちしたのか」
体を起こす。首筋に痛みが走る。机に突っ伏して寝ていたせいの後遺症だろう。
「……今、何時だ?」
窓の外に目をやる。五月の陽光が差し込んでいた。外はまだ明るい。放課後からそれほど時間は経っていないようだ。
しかし、どこか妙だった。
彼は自分のデスクに視線を落とした。さっきまで広げられていたはずの問題集が見当たらない。
「おい、陸沈! また居眠りしてんのかよ!」
背後から聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、陳虎がいつものようにだらしなく席に座り、参考書をパラパラと捲りながら欠伸をしていた。制服の襟は相変わらず曲がっている。どこからどう見ても、何も変わらないいつもの陳虎だ。
「……今、何時だ?」
「は? 昼休みに決まってんだろ。『社会倫理』の授業中に寝てたからって、先生に怒られなかったか?」
「……そんな、バカな」




