心から安心できる未来
あの光景がただの夢などではあり得ないほど、記憶は鮮明だった——母親の手の温もり、父親の掠れた声、狭い食卓に並んだ少しばかり上等な肉料理の匂いまで、今この瞬間もはっきりとありありと思い出すことができた。
しかし、目の前にいる母親は、夜勤用の作業着をしっかりと着込んだままだった。過労のせいで頬は青白く、目の下には濃いクマが張り付き、手には職場から持ち帰った簡易的なパック詰めの弁当を固く握りしめている。あの6月23日に喜びの涙を流していた母親とは、まるで別人のようだった。
「小雨? 一体どうしたの。熱でもあるの?」
母親は困惑しながらも、優しく彼女の背中を撫でた。
林小雨は、自分が母親の胸にしがみついたままだったことにようやく気づいた。それでも、すぐに腕をほどくことはできなかった。今ここで手を離してしまえば、あの6月23日すらも完全に灰燼に帰してしまうのではないかという、強い直感が働いたからだ。作業着を掴む指先に、無意識のうちに再び力がこもる。
「……ううん、なんでもない。ただ、ちょっと変な夢を見ただけ」
「登階考の夢でも見た?」
林小雨はほんの一瞬だけ躊躇し、小さく頷いた。嘘をついているつもりはなかった。自分自身、肌で経験したあの6月23日が現実なのか、それとも目の前にあるこの5月1日こそが悪夢なのか、まだ判別がついていなかったのだから。
母親はそれ以上詮索せず、疲れ切った顔に笑みを浮かべた。「最近ずっと根を詰めて勉強してたものね。無理もないわ」そう言いながら玄関の脇に鞄を置き、台所へと向かった。
「すぐ朝ご飯作るわね。早く制服に着替えといで」
その言葉を聞いた瞬間、林小雨の脳裏に、かつて経験した別の朝の光景が鮮烈に蘇った。
冷蔵庫の中には卵が二個しか残っていない。
前回の記憶では、母親はそのうちの一つだけを目玉焼きにして林小雨に出し、自分は「職場で食べてきたから」と言って白湯を一杯飲んだだけだった。
その時、林小雨は母親が嘘をついていると分かっていた。だが当時は何も言えず、黙って朝食を平らげて家を出たのだ。
登階考を乗り越えさえすれば、すべての苦境はいつか解決できると信じて疑わなかったから。
「今日は学校で食べるから、作らなくて大丈夫だよ」
冷蔵庫のドアに伸ばされた母親の手が、ピタリと止まった。
「学校で食べるの?」
「うん。朝の自習時間に補習があって、軽食が出るらしいから」
実際にはそんな予定など毛頭ない。母親は少し意外そうな表情を浮かべたものの、すぐに「そう」と頷き、どこか胸を撫で下ろしたように冷蔵庫のドアを閉めた。
その安堵した表情を目の当たりにして、林小雨の胸の奥がキリキリと締めつけられた。
「……やっぱり、家で少し食べていく」
「もう、どっちなのよ」
「今日は二つ焼いて」
母親は少し驚いたような顔をした。
「二つとも食べるの?」
「一つずつ食べるの」
「私はいいわよ、夜勤の休憩の時に食べたから」
その台詞すら、記憶と完全に一致していた。
前回の林小雨は何も言わなかった。母親が何も食べていないと察してはいたが、家の困窮を突きつけるような真似はしたくなかったし、娘の前で気丈に振る舞おうとする母親のプライドも分かっていたからだ。
だが今回、彼女はどうしてもその嘘を見過ごすことができなかった。
「本当は食べてないんでしょ」
母親の動きが凍りつく。「……え?」
「夜勤の休憩時間が何時かなんて知ってるよ。昨日は人手が足りなくて、ほとんど休めなかったって……自分で言ってたじゃない」
それは前回の5月1日に聞いた言葉だった。
あの時は朝食の後に母親が何気なく口にしただけで、林小雨もすぐに聞き流していた。
しかし、6月23日までの記憶を完全に通り抜けた今、そうした些細な記憶の破片が次から次へと鮮明に蘇っていた。
母親は困ったような顔で娘を見つめた。
「今日はどうしてそんなに勘が鋭いの」
「一緒に食べよう。お願いだから」
朝食を食べ終えた時、玄関脇の家庭用端末から短い警告音が響いた。
普段流れてくる広告の通知音ではない。行政の公的通知専用の、冷え切った電子音だった。
母親が立ち上がる。「こんな時間に、何かしら」
林小雨の心臓が、唐突に激しく跳ね上がった。
この音にも聞き覚えがある。元いた世界の5月1日にも、まったく同じ通知を受け取っていた。
ああ、思い出した。この日だったんだ——
母親が個人認証を済ませると、リビングの壁面端末に青灰色の公文書が浮かび上がった。
『新アトランタ区家庭居住資格継続審査・事前通知』
タイトルの下には、林家の登録番号と現在の資格ランクが冷徹に並んでいた。母親の表情が一瞬で凍りつく。林小雨も立ち上がり、横からその内容を読み進めた。
林家の家庭居住総合評価は、前年度からさらに低下していた。公文書には主な理由として、世帯主の継続雇用指数の低下、世帯総収入の停滞、医療保障負担率の上昇、そして——過去5年以内に同一戸籍内で居住資格剥奪者が発生したこと、と列挙されていた。
姉のことだ。三年前、登階考に落ちて境界エリアへ強制移送された姉。
新アトランタ区にとって、姉の存在は今なお家族全体の評価点を引き下げる、白黒はっきりとしたマイナス記録でしかなかった。
この通知は今すぐ林家を追放するというものではない。しかし、次年度の家庭居住資格再審査において、林家が「重点観察家庭」に指定されるリスクがあると明確に記されていた。
通知の下部には、評価改善項目のリストが添付されている。
世帯総収入の向上。公共貢献指数の改善。安定雇用の維持。扶養負担率の低下。そして——
『本年度の登階考において当該世帯に属する受験者が合格し、新アトランタ区認定の高等教育機関または職業訓練体系へ進学した場合、家庭継続評価における加点要素として計上される。』
林小雨の目は、その一文から離れなくなった。
前回の5月1日にも、林小雨はこの文章を読んだ。
忘れるはずがなかった。
この通知を引き金に父親と激しい口論になり、深夜に壁越しに両親の押し殺した囁き声を聞いたことを、彼女は鮮明に覚えていた。
だからこそ、この後何が起きるかも完全に分かっていた。
寝室のドアが開き、持病の腰痛を再発させた父親が、壁に手をついて足を引きずりながらリビングに入ってきた。今日は腰の痛みが殊更ひどいらしく、左足を引きずるように歩いている。
「朝っぱらから何の騒ぎだ」
母親は慌てて端末画面を閉じようとしたが、林小雨が一足早く口を開いた。
「お父さん、このこと前から知ってたんでしょ」
父親の足がピタリと止まった。彼は娘を数秒間見つめた後、通知画面へと視線を移した。
「可能性としては聞いていた」
「どうしてずっと黙ってたの?」
「お前に話したところで何になる」
「私の登階考に関係あるって書いてあるじゃない!」
「だからこそ、お前は試験のことだけ考えていろと言っているんだ」
父親はいつものように断定的な口調で言い捨てると、棚の上に置かれた薬箱へ欠損した左手を伸ばした。
彼の左手には薬指と小指がない。林小雨が中学生の頃、父親は廃棄物処理施設の設備事故に巻き込まれ、二本の指とそれまでの仕事を同時に失った。市直属企業の正規雇用ではなく、重層下請け構造の最底辺にある孫請け会社に所属していたため、補償金はほぼ最低水準に抑えられ、治療期間が終わる前に雇用契約を一方的に打ち切られたのだ。今では旧工業居住帯で、壊れた端末や精密機器の修理を請け負って小銭を稼ぐしかなかった。腰の後遺症は完全に慢性化しており、修理の依頼が入らなければ、家には一切の収入が入らない。
父親が取り出した薬瓶の中には、多めに見積もっても数日分の錠剤しか残っていなかった。
「薬、もうすぐなくなるんじゃないの?」
父親は横目で娘を一瞥した。「まだある」
「それも嘘でしょ」
「小雨」母親が制止しようとしたが、林小雨は引かなかった。
「お母さんは夜勤明けでもご飯を食べないし、お父さんは薬すら買うのを我慢してる。家の居住資格まで危なくなってるのに、どうして私だけ何も知らなくていいの?」
父親は手のひらに一錠の薬を落とした。
「知ったところで、お前に何ができる?」
「バイトでもしてこの家を支えられるのか? 俺の腰を治せるのか? 母親の代わりに夜勤へ行けるのか? お前には何一つできやしない」
林小雨は言葉に詰まり、唇を強く噛み締めた。
聞き覚えのある言葉だった。そして、次に続く言葉も彼女は知っていた。
父親は冷たい水で薬を流し込み、眉をかすかに顰めた。
「なら、お前にできることをやれ」
父親の視線が、まっすぐに林小雨を捉えた。
「登階考に受かってこい」
リビングに重苦しい沈黙が落ちた。
前回のループでこの言葉を聞いた時、林小雨は息が詰まるほどの苦痛しか覚えなかった。
父親は言葉を続けた。「姉貴はすでにあっちへ行っちまった。俺のこの体じゃ、まともな仕事が見つかるかも分からない。母親だっていつまで夜勤に耐えられるか分からんのだ」
「もういい……」
父親は目を閉じ、声を少し低くした。「この家が底なしに転落するのを防ぐには、お前の試験結果が必要なんだ」
そして、あの日と寸分違わぬ言葉を口にした。
「小雨、お前は必ず……」
「……私、残るよ」
林小雨は静かに答えた。
父親の顔に、わずかな驚きが走った。
元の5月1日では、林小雨はこの瞬間に「分かってるわよ!」と泣き叫び、ドアを激しく閉めて自室へ逃げ帰っていた。
だが、今回は違う。
お前は必ず残らなければならない。
5月1日。その言葉を聞いた夜、彼女は一人部屋で膝を抱え、何時間も眠れずに過ごした。
父親への反発。未知への恐怖。なぜ自分一人だけが家族全員の運命を背負わされなければならないのかという、強烈な理不尽さと不公平感に呑まれそうになっていた。
だが夜が深まるにつれ、机の隅に置かれた姉の古い水筒に視線を留めた時、彼女の胸には揺るぎない一つの結論が結実したのだ。絶対に落ちるわけにはいかない、と。
自分まで境界エリアへ追放されてしまえば、両親には本当に何も残らなくなってしまう。だからどんな犠牲を払ってでも、私はここに残る。
「私、受かるから」
その声には、一片の揺らぎもなかった。
父親は沈黙した。
「絶対に、ここに残る」
その言葉を口にした瞬間、彼女自身、奇妙な感覚に包まれていた。
父親は娘の顔をしばらくじっと見つめた後、ふっと視線を逸らした。
「……ならいい」
短い返答だった。
だが林小雨には、父親の強張っていた肩が、前回よりもほんの少しだけ緩んだように見えた。
◇
旧工業居住帯の朝は格別に早い。早朝の6時過ぎであっても、公共交通機関は都心部へ向かう労働者たちで鮨詰めになっていた。林小雨はドアの脇に立ち、窓の外を飛び去っていく灰色の建物群を眺めていた。
やがて、ビルの隙間から巨大な境界壁が姿を現した。
あの壁の向こうに、姉がいる。
三年前、姉が送ってきた最後のメッセージは、今も端末のプライベートフォルダに大切に保存されていた。
『小雨、あなたは何があっても残るのよ』
それは父親の声と重なり合っていた。『お前は必ず残らなければならない』
学校に到着した林小雨は、真っ直ぐ教室へは入らず、廊下の窓辺で足を止めた。まだ確かめなければならないことが一つあった。家の中の出来事だけでは、完全に断定するには足りない。学校での展開もまた、記憶通り寸分違わず進むのかを確かめたかった。
午前7時58分。
あと数分もすれば、張磊が猛ダッシュで教室に飛び込んでくるはずだ。前回の5月1日、彼は夜更かしのせいで寝坊して遅刻し、担任からこっぴどく叱られたのだ。
8時01分。
廊下の突き当たりから、切羽詰まったドタバタという足音が響いてきた。「やべいやべい遅刻するぅ!」張磊が片手でカバンを抱え、全力疾走してくる。
林小雨は壁に背を預け、目の前を走り去っていく彼を見送った。前と完全に同じだった。
教室に入ると、蘇晴はすでに参考書を開いていた。陳虎は眠たそうにあくびを噛み殺している。陸沈は窓辺に寄りかかって端末を眺め、王輝は朝自習の連絡事項を黒板に書き写していた。
彼女は自分の席に戻り、教科書を開いた。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
教師が教える内容も、聞き飽きるほど同じだった。
最初の十分で出された例題。
蘇晴が指名された順番。
張磊が答えられずにクラス中から笑いが起きた問題。
あらゆるピースが、記憶と寸分違わず噛み合っていく。
林小雨はノートを取るふりをしながら、頭の中で目まぐるしく別の計算を巡らせていた。
6月8日の登階考の試験問題は、すべて克明に覚えている。今度こそ、もっと高い点数を取ることができる。かつての自分と比べても、今の彼女は圧倒的に有利な最高地点に立ち、5月1日からこのゲームをリスタートしているのだ。
理由は分からない。
一体誰がこんな真似を仕組んだのかも分からない。
だが本当に時間が巻き戻ったのだとすれば、彼女はもう一度、あの6月23日へと辿り着くことができる。
今度はもっと確実に、もっと圧倒的な高得点を叩き出して。
家族が心から安心できる、あの未来へ帰るのだ。
一度未来で成功できたのだから。もう一度、成功を掴み取るだけだ。




