未知なる影の中で
入口の脇には「生徒立ち入り禁止」の標識が貼られていた。陸沈は一瞬躊躇したが、意を決してドアの横にある呼出ボタンを押した。
数秒後、ドアが開いた。中から出てきたのは40代半ばほどの男性教師だった。痩せ型の体型で、胸元には設備管理責任者を示す認証タグが下がっている。名札には「黄維」の二文字があった。
「なんだ? 生徒がこんな場所に何の用だ」
「中央棟の搬送設備について、少しお聞きしたいことがありまして」
「搬送設備?」
黄維は眉をひそめた。
「君は何年生だ?」
「高校3年です」
「高3がそんなものに何の用がある? 午後の授業はどうした」
「もう終わりました。今日の昼頃、こちらの設備で何か異常はありませんでしたか?」
黄維の表情がかすかに変化した。
「誰から聞いた?」
「誰からというわけではありません。昼休みにちょうどあの近くにいまして。管理室の方から警報のような音が聞こえた気がしたんです」
きわめて苦しい言い訳だった。
黄維はいぶかしげに陸沈を見つめていたが、やがて面倒になったのか、はぁとため息をついた。
「大したことじゃない。3号搬送機の駆動輪センサーが一時的に異常値を検出しただけだ。温度と回転数が規定値を超えてな。念のため稼働を一時停止して点検したら、固定パーツが緩んでいただけだった。締め直して再起動したら解決したよ」
「もし……先生がその時ここにいらっしゃらなかったら、どうなっていたんですか?」
黄維の眉間に深いシワが刻まれた。
「君、それはどういう質問だ?」
「ただの仮定です。もし警告が出たのに誰も確認しなかったら、どうなるのかなと」
「自動制御プログラムが強制停止させる」
黄維はそう答えると、ふ言言葉を区切った。
「今日異常が出たのは駆動系だ。安全制御モジュールさえ正常なら問題はない」
「通用通路まで突っ込んでくることは……あるんでしょうか?」
黄維の表情が完全に険しくなった。
「おい君、一体何が聞きたいんだ?」
陸沈は答えなかった。黄維は彼をじっと見つめた後、管理室の奥へと視線を向けた。
「安全門を突破するなんてことは基本的にはあり得ん。だが機械に絶対はない。だからこそ警告が出れば人間が確認しに行く必要がある。それだけのことだ」
◇
前回の時間軸では、黄維はその場にいなかった。
おそらく程宇の書類を処理するために管理室を離れており、その間に駆動輪の異常が発生して、誰も確認する者がいなかったのだ。
搬送機は暴走を続け、何らかの経緯で安全門の付近まで達した。
様々な条件が重なった結果、安全門を突破して通用通路へ飛び出してしまった。
そして、そこにちょうど劉雨桐が居合わせていた——。
これで全ての辻褄が合った。
「劉雨桐が制服を汚した」という、ただそれだけの小さな出来事が、その後の複数人の行動を変え、巡り巡って彼女自身の命を救う結果となったのだ。
前回の陸沈は、その最初の目に見える部分だけを捉え、「回避すべき事故」だと勝手に思い込んでいた。
「そんなこと……」
陸沈の口から、乾いた声が漏れ出た。
「そんなの……予測できるわけがないじゃないか……」
黄維が奇妙そうな顔で彼を見た。
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもありません」陸沈は深く頭を下げた。「ありがとうございました」
「おい、待ちたまえ!」
後ろから黄維の声が追いかけてきたが、陸沈は振り返らなかった。今の彼の脳裏を占めているのは、劉雨桐のことだけだった。
◇
黄維は去っていく陸沈の背中を見つめながら端末を取り出し、ある番号へ電話をかけた。
「元凶が見つかりました……高3の生徒です。まったく、どうしてこんな真似をしたのやら」
陸沈の足音が完全に消え去った後も、黄維はしばらく管理室の入口に立ち尽くしていた。先ほどまで顔に浮かんでいた苛立ちは綺麗に消え去っている。しばらくして彼はドアを閉め、内側から電子ロックを施した。
管理室の中には誰もいない。黄維は自分の席に戻ると端末を操作し、3号搬送機の詳細ログを呼び出した。一般生徒に公開されている校内設備情報とは異なり、管理責任者専用の画面には、センサーの数値から各パーツの稼働履歴に至るまで完全なデータが残されていた。
```
12:46:11 右駆動輪、温度異常。
12:46:13 回転数偏差。
12:46:17 制御システム、第一警告。
12:46:24 手動停止。
```
黄維はそのログを見つめながら、先ほどの会話を思い出していた。
『もし……先生がその時ここにいらっしゃらなかったら、どうなっていたんですか?』
『通用通路まで突っ込んでくることはあるんでしょうか?』
ただ近くで警報らしき音を聞いただけの生徒が、なぜそんな質問をしてくるのか。第一、今日の異常警告は設備管理室の内部端末と責任者の個人端末にしか送信されていない。通用通路側の警告灯は終始点灯していなかったし、当然、校内放送なども流れていない。
陸沈の弁明は、最初から破綻だらけだったのだ。
黄維はログをさらに過去へと遡らせた。
昨夜:異常なし。
06:00:異常なし。
07:00:——
そこで彼の指が止まった。そこに、きわめて異例な履歴が混ざっていた。
```
07:17 3号搬送機、点検用外装パネル開閉。
```
黄維は画面を拡大し、操作者認証の欄を確認した。——完全な空白。
「……またか」
彼は低く呟いた。
規定では、点検パネルは教職員の認証端末を通さなければ絶対に開かない仕組みになっている。仮に緊急手動開放を使ったとしても、システムには使用された管理キーの識別コードが記録されるはずだった。しかしそこには何もない。少なくとも、正規の手続きによって開けられたものではないということだ。
黄維は昼休みに確認した3号機の発煙状態を思い返した。
固定パーツの緩み。それ自体は「経年劣化による摩耗」で説明がつかないわけではない。だが、今朝のこの無認証による開閉記録と組み合わせると、単なる偶然として片付けるにはあまりにも不気味だった。
そして、この事実を知るはずのない高3の生徒が、わざわざ事故の発生確率を探りにやってきたのだ。
黄維はモバイル端末を取り出した。連絡先リストから、名前の表示されていない番号を選択する。
呼出音が二度鳴った後、相手が応答した。
「俺だ」黄維は椅子に深く身体を沈め、声を潜めた。「昼間に話した3号機の件だが、少し妙な生徒がやってきた」
通信の向こうから短い問いかけが返ってくる。
「高3の陸沈という生徒だ」黄維は画面上の履歴を見つめながら続けた。「彼が今日の警告について尋ねてきた。それだけならまだしも……もし俺が管理室にいなかったらどうなっていたか、果ては安全門を破って通用通路へ突っ込む可能性まで口にした」
相手がさらに何か問い返したようだ。
黄維は首を振った。
「いや。本人は『近くで警報を聞いた』と主張している。だが一般エリアには警告など出していない。あの時点で異常を知り得たのは管理者側だけだ」
通話の向こう側が長い沈黙に包まれた。
黄維は指先で机をトントンと二度叩いた。
「それと、今朝7時17分、3号機の点検パネルが開けられている。認証記録はない。パーツの緩みとの因果関係は、まだ断定できないがね」
相手が再び何かを尋ねた。
「監視カメラの映像か? 今確認する」
黄維は管理端末から今朝の監視カメラログを呼び出した。
『中央棟搬送エリア。07:10』画面には誰もいない通路が映っている。『07:15』異常なし。
黄維は再生速度を上げた。
『07:16:50』画面が一瞬、大きく乱れた。細かいノイズが発生する。
『07:17:00』画面が完全に真っ暗になった。
『07:18:02』映像が復旧。通路には相変わらず誰もいない。
黄維の表情が完全に固まった。
「……ちょうど1分ほど、映像が飛んでいる」
通話の向こうから、今度は少し長めの指示が送られてきた。
「分かった。こちらから直接接触することは避ける」黄維は頷いた。
「だが、このガキは実に怪しい」
「元凶が見つかったのかもしれません」
黄維は低い声で言った。
「高3の生徒です。……まったく、こんなことをしでかして一体何が狙いなんだ」
◇
その頃、陸沈は学校から自宅へと向かう路線バスの中にいた。
窓の外では、新アトランタ区の灰色のビル群が規則正しく後ろへと流れていく。黄昏時の街角には、受験生向けの広告が溢れていた。
『未来は準備のある者にのみ微笑む』
『たった1点の差が、人生の優劣を決める』
巨大な電子看板に躍るその文言を目にした瞬間、陸沈の脳裏に「492.5」という数字が唐突に浮かび上がった。1点どころか、わずか0.5点の差で、陳虎は6月23日に居住資格を失うのだ。
昼間の出来事を思い返す。一つひとつの要素をバラバラに分解すれば、どれも取るに足らない小さな出来事に過ぎない。しかしそれらが一連のチェーンとして繋がった時、最終的には一人の人間の生死すら変えてしまった。
ならば、陳虎のあの「0.5点」の裏にも、俺がまだ気づいていない何かが潜んでいるのではないだろうか?
陸沈は額を静かに車の窓に押し当てた。いくら考えを巡らせても、答えは出ない。
俺が把握している6月23日は、ただ「結果」でしかないのだから。
陳虎自身すら覚えていないような些細な日常の出来事ですら、巡り巡って最終的な0.5点に影響を与えている可能性がある。
その全てを最後まで追跡し切るなど、到底不可能な話だ。
陸沈は目を閉じた。
明日からは、もっと注意深く陳虎の生活を観察しなければならない。
授業中の様子、睡眠、家庭環境、勉強に集中できない原因。
単に成績を見るだけでなく、その成績へと至るプロセス全体を解き明かすのだ。
それが、今の自分にできる最も手堅い方法に思えた。
頭の中で思考を整理しているうちに、バスは自宅最寄りの停留所に到着した。
帰宅し、夕飯を終え、夜が更けていっても、陸沈は机に向かったまま今日起きた出来事を何度も反芻していた。就寝直前、彼のモバイル端末に学校からの通知が届いた。
『高3七組 陸沈』
自分の名前を見た瞬間、不吉な予感が胸を突いた。通知を開く。
『明日朝7時30分、登校後直ちに校内安全管理室(学生事務棟3階)へ出頭すること』
理由は書かれていなかった。続いて、担任の鄭文海からも個人のメッセージが届いた。
『明日はいつもより少し早めに来い。設備の方でちょっと確認したいことがあるらしい。大したことじゃないはずだから、聞かれたことに正直に答えればいい』
だが、単なる教師との面談にしては、「校内安全管理室」という指定場所はあまりにも物々しすぎた。
陸沈は返信を書きかけたが、途中で消した。現時点では何を聞かれるのかすら分からない。下手に喋れば墓穴を掘る。何も言わないのが一番だ。
◇
5月10日、午前7時23分。
陸沈は普段より早く校門をくぐった。学生事務棟は通常の教室棟から少し離れた場所にあり、出入りするのは行政スタッフや資格管理の責任者、そして学校の警備員が大半だった。
3階に上がると、『校内安全管理室』と書かれたプレートの貼られた灰色のドアがあった。
予定時刻より5分ほど早かったが、陸沈はドアの横の呼出ボタンを押した。電子ロックが解除される音が響く。
部屋の中には小さな応接テーブルが置かれており、その向こう側に3人の大人が座っていた。
黄維。高3七組の担任、鄭文海。そして、陸沈が見たこともない女性が一人。
30代半ばほどの風貌で、ダークカラーの制服を身に纏い、胸元には学校の教職員とは異なる認証バッジが光っていた。
『新アトランタ区教育施設安全監察室』
その文字を目にした瞬間、陸沈の足がぴたりと止まった。事態は想像以上に深刻らしい。
「座りなさい」
黄維が簡潔に一言発した。鄭文海の表情も、普段教室で見せるものより遥かに硬い。
「陸沈、怖がらなくていいぞ。ちょっと確認したいことがあるだけだ」
その宥めるような言葉が、かえって陸沈の不安を増幅させた。
彼は指定された椅子に腰掛けた。女性職員が端末をテーブルの上に平置きする。
「高3七組、陸沈。本人確認を行います」
陸沈が個人認証を済ませると、彼女は淡々とした口調で続けた。
「昨日5月9日の午後、あなたは中央棟の設備管理室を訪れ、3号無人搬送機に関して複数の質問をしましたね。間違いありませんか?」
「はい」
「具体的には、管理責任者が不在の際に設備が異常を起こした場合、搬送機が通用通路へ突っ込む可能性があるか、と尋ねましたね?」
「はい」
「なぜそのような質問をしたのですか?」
正直に答えるべきか?「時間を巻き戻した」などという荒唐無稽な話を信じる者などいるはずがない。
「昼休みに中央棟の近くで、設備から変な音が聞こえた気がしたんです」
陸沈は昨日、黄維に使った言い訳を繰り返した。
女性の表情には何の波紋も立たない。
「奇妙な音が聞こえたというだけで、設備が安全門を突破する可能性まで連想したのですか?」
「以前、設備の事故に関するニュース記事を読んだことがあったので」
「どの記事ですか?」
陸沈は言葉に詰まった。そこまでの詳細を用意していなかった。
「……覚えていません」
女性は端末に何かを入力した。黄維が口を開く。
「昨日も言ったが、通用通路側には警告など一切出ていなかった。君が当時の異常を知り得るはずがないんだ」
「本当に、ただ音が聞こえた気がしただけなんです」
「では、なぜ『もしその時先生がいなかったらどうなるか』なんてピンポイントな質問をしたんだ?」
陸沈は黄維を見た。
「君、それじゃ説明になっていないよ」
女性職員は静かに別の画面を呼び出した。
「では、質問を変えましょう」
画面が陸沈の方へと向けられた。そこに表示されていたのは、紛れもなく3号搬送機の管理ログだった。
```
07:17 点検用外装面板開閉
操作者認証:記録なし
```
陸沈はかすかに眉をひそめた。この情報を目にするのは初めてだった。
「これは……?」
彼の反応を、黄維は傍らからじっと観察していた。
「昨日の早朝、3号搬送機の点検パネルが正規の認証なしで開閉されたんだ」
女性職員が補足する。
「現在、これが昼に発生した駆動輪の異常と関連しているかどうかを調査しています」
陸沈の背中に、瞬時に冷や汗が吹き出した。昨日、俺は搬送設備の故障原因について考えていた。黄維が不在だったことで異常の発見が遅れた、そこまでは理解していた。
だが、そもそもなぜその異常自体が発生したのか、そこまでは考えが及んでいなかったのだ。
「この記録を知っていましたか?」
「知りません」
陸沈はきっぱりと答えた。これに関しては100%事実だった。
「昨日、黄先生から聞きましたか?」
「聞いていません」
「では、あなた自身が設備に触れましたか?」
「一度も触れていません」
黄維が身を乗り出してきた。
「本当にか?」
「本当です」
「昨日だけじゃない。5月8日より前のことも含めてだ」
「ありません」
黄維と女性職員が視線を交わした。ここで鄭文海がようやく割り込んできた。
「ちょっと待ってください。あなた方は陸沈が設備に悪さをしたと疑っているんですか?」
女性職員はすぐには否定しなかった。
「現段階では状況の確認を行っているに過ぎません」
「この子がそんなことをする理由なんてないでしょう!」
「理由については追って確認します」
相変わらずの冷淡な回答だった。
陸沈は三人のやり取りを聞きながら、ようやく自分の置かれた状況を把握した。俺は疑われているのだ。搬送設備に細工をした容疑者として。
冗談じゃない。俺は昨日初めて3号搬送機の存在を知ったばかりで、それまでは構造すら知らなかったのだ。
「朝7時17分なら、俺は学校にすらいませんでした」
陸沈が口を開いた。女性職員の指が端末の上で止まる。
「その時、どこにいましたか?」
「自宅から学校へ向かう途中です。俺は普段、7時30分前後に家を出ます。昨日も同じでした」
「証明できますか?」
「都市の交通利用記録を調べてもらえれば分かるはずです」
陸沈は自分の端末を取り出し、5月9日の移動履歴を呼び出した。
```
07:32 自宅エリアの認証ゲート通過
07:41 学校近くの交差点を通過
07:46 校門の身元認証
```
午前7時17分の時点では、陸沈はまだ自宅の居住エリア内にすら留まっていたのだ。
女性職員は記録を照合し、黄維へ視線を向けた。黄維の顔に、初めて明確な困惑が浮かんだ。
「……7時46分?」
「学校側の登校記録にも残っているはずです」
すぐに検証が行われ、数分後、学校側の認証ログにもまったく同じ時刻が表示された。陸沈が校門をくぐったのは7時46分12秒だった。
室内が静まり返った。
黄維は背もたれに身体を預けた。
「ということは……このガキじゃないのか?」
女性職員はすぐには同意しなかった。
「少なくとも、7時17分に本人が設備エリアに存在した可能性は極めて低いです」
鄭文海があからさまに安堵の息をついた。
「なら、これで解決じゃないですか」
「いいえ」女性職員の声には微塵の揺らぎもなかった。「直接設備に触れていないことと、内情を知っていたかどうかは別問題です」
陸沈は彼女を見つめた。
「どういう意味ですか?」
「あなたが犯人だと言っているわけではありません」彼女は端末の画面を閉じた。「ですが、あなたには依然として合理的に説明のつかない不審点が残っています」
確かに、第三者の視点から見れば異様きわまりないだろう。
「もし何か知っているなら、今のうちに話しなさい」女性職員は言った。「人から聞いたこと、偶然目撃したこと、匿名の手紙を受け取ったこと……どんな些細な情報でも構いません」
沈黙が広がっていく。
鄭文海は心配そうに陸沈を見つめている。
黄維は先ほどのような露骨な敵意こそ引いたものの、警戒を完全に解いたわけではない。
女性職員は最後に小さく息を吐いた。
「分かりました。今日はここまでにしましょう」
陸沈は顔を上げた。
「帰ってもいいですか?」
「教室に戻って授業を受けなさい。ただし、この件に関して何か思い出したことがあれば、すぐに私へ連絡すること」
端末に連絡先が転送されてきた。
陸沈が立ち上がって去ろうとした時、女性職員が付け加えた。
「それと、当面の間は中央棟の設備エリアに近づかないように」
「分かりました」
「陸沈」
黄維が彼を引き止めた。声からは昨日ほどの鋭さが消えていた。
「一つだけ聞かせてくれ」
陸沈は振り返った。
「お前……本当にあの時、3号機が通路に飛び出してくると本気で思っていたのか?」
長い沈黙の後、陸沈はようやく口を開いた。
「……その可能性があると思っていました」
「なぜだ?」
またしても同じ質問。
すべてを打ち明けてしまいたい。もう限界だった。
陸沈は深くうつむいた。
「ただ……嫌な予感がしただけです」
黄維は彼をじっと凝視し続け、女性監察官も無言のまま。鄭文海はその顔に心配の色を募らせていた。
三人の視線が重く重くのしかかり、息が詰まりそうだった。
何を言っても疑われる。
かといって真実を話さなければ、黄維たちの目には「設備の事故に異常なほど詳しく、怪しすぎる生徒」として映り続ける。だがその反面、「真実」とやらをどうやって説明すればいいというのだ?
昨日から胸の奥に押し込めていた感情が、限界まで膨れ上がっていた。
劉雨桐が死んだ時、誰にも打ち明けることができなかった。
5月8日に戻り、彼女が欠席しているのを見た瞬間は、自分が彼女の存在を消し去ってしまったのではないかと本気で恐れた。
そして今、俺は設備を破壊した犯人として疑われている。7時17分に学校にいなかったことが証明されても、残るのは「なぜ事故を予知できたのか」という巨大な謎だけだ。
もう逃げ場なんてどこにもなかった。
「陸沈?」
鄭文海が優しい声で彼の名前を呼んだ。
その呼びかけが、ラクダの背を折る最後の藁となった。
目の前にいるのは自分の担任であり、普段から「学校で困ったことがあればいつでも相談しなさい」と言ってくれていた年長者だ。
ここには自分より遥かに物知りで、遥かに大きな権限を持った三人の大人がいる。
たった一人でいい。
たった一人でもいいから……誰か俺を救ってくれ。
信じてくれなくてもいい。
狂人扱いされたって構わない。
精神病院に送られたっていい。
もうこれ以上……一人で抱え込みたくないんだ。
陸沈は膝の上で両手を強く握りしめた。爪が手のひらに深々と食い込む。
「もし……」
彼の声が激しく震え始めた。三人の視線が一瞬で彼に集中する。
「もし……あの事故が本当に起きた時の光景を、俺が……一度目撃したことがあると言ったら……」
ここで止められればよかった。
脳裏の深部で、何かが危険だとヒステリックに叫んでいた。
だが、もう止まらなかった。
「もし……あの事故が起きた時間を、俺が一度……体験したことがあると言ったら……先生方は信じてくれますか?」
——その言葉が落ちた瞬間。
女性監察官の瞬きが、途中でぴたりと止まった。
黄維が机の上に置いた指先も、瞬時に凍りついた。
鄭文海は陸沈を見つめた姿勢のまま、額縁の中の静止画のように固まった。
壁の掛け時計の秒針が、午前7時58分36秒で止まる。
エアコンの作動音が空虚に消え去った。
窓の外を走っていた車両の音も、途絶えた。
世界のあらゆる音が、この一瞬で綺麗に削ぎ落とされた。
陸沈は呆然と目の前の三人を見回した。
「……先生?」
返事はない。
「鄭先生……?」
自身の声だけが、不自然なほどクリアな響きで部屋の中に鼓膜を揺らした。
直後、女性監察官の頬から色が抜け落ちていった。
肌の血色が蒸発するように失われ、制服のダークブルーが灰白色へと変わっていく。木目のテーブルの質感すら、少しずつモノクロームの闇へと沈んでいく。
陸沈の呼吸が完全に止まった。
知っている。俺はこの光景を見たことがあった。
「待って……」
彼はガタリと椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「待ってください! お願いです、待ってください!」
自分の両手を見る。指先からも色彩が剥がれ落ち始めていた。
「違うんです!」声が激しく裏返る。
「今のなしです! 俺……俺、いま変なことを言いました! 忘れてください!」
誰も動かない。
「ただの夢なんです!」
何の反応もない。
「夢で事故を見ただけなんです! さっき言ったのは全部嘘です! 俺が勝手にでっち上げたことで……だから……だから!」
灰白色が毒蛇のように床を這い、広がっていく。
陸沈は女性監察官のデスクにすがりつき、両手を叩きつけた。
「聞こえてるんでしょう!? お願いだから……!」
監察官の瞳は陸沈の方を向いたまま、微塵も動かない。
「頼みますから……」陸沈の声が掠れ切っていた。「さっきの言葉、撤回させてください……!」
喉が激しく収縮する。
「もう二度と言いませんから……!」
色彩がさらに速いスピードで奪われていく。
「誰にも言わないって約束しますから!!」
静寂の室内に、ヒステリックな悲鳴が空しく響き渡る。
「だから……俺を連れ戻さないでくれ!!」
陸沈は狂ったようにデスクを叩いた。手のひらが痛むほど叩きつけても、世界は何の答えも返してくれない。
「冗談じゃない……」
目元があっという間に溢れ出す涙で視界を奪われた。
「なんなんだよ……これ……」
5月12日から強制的に引き戻され、
劉雨桐を死なせたことで引き戻され、
そして今回は、ほんの数行の言葉を口にしただけで、またしても引き戻される。
一体何を基準に? 一体誰が決めている? 問い詰めるべき相手の顔すら、俺には分からないのだ。
「俺は……本当に誰にも話してはいけないのか!?」
声が激しく震える。
「こんなものを背負わされて……誰にも言わずに耐え続けろって言うのかよ!?」
陸沈は覆うようにして鄭文海の目の前まで移動した。
担任の肩を死に物狂いで掴む。
「先生……!」
強く揺さぶっても、その身体は微動だにせず、まるで命の通っていない木偶のように硬かった。
「先生……俺、もうどうすればいいのか分からないんだ……!」
大粒の涙が床にぽたぽたと落ちる。
「どうするのが正解なのか……全然分からないんだよ……!」
彼は再び狂おしく鄭文海を揺さぶった。
「友だちが落第しそうなんだ……! 助けようとしたのに、結果的に他の人を死なせちゃったんだ……!」
「劉雨桐が死んだんだよ!!」
彼は声を張り上げて叫んだ。
「俺のせいだ!! 俺がお節介を焼いて、未来を知った気になって、彼女の行動を変えちゃったからなんだ!!」
鄭文海が答えをくれることはない。
「でも……でも戻ってきたら生き返ってて……! 昨日、彼女の家まで走っていったんだ……!」
呼吸が乱れ、話が途切れ途切れになる。胸が激しく上下するが、酸素がうまく吸い込めない。
「生きてた……本当に生きてたんだ……! よかったって……心からそう思ったのに……彼女が死んだことを覚えてるのは、世界で俺一人だけなんだ!!」
陸沈は鄭文海の制服を握りしめたまま、両膝を床に叩きつけた。
「怖いよ……」
初めて、その言葉が彼の口から溢れ出た。
「怖いんだ……」
落ち葉のように身を震わせる。
「いつ……また誰かが死ぬか分からない……」
涙が止まらない。
「俺はただ、陳虎を救いたかっただけなのに……」
額を鄭文海の膝に強く押し当てた。
18歳の少年が、ただひたすらに教師の前で声を上げて泣きじゃくっていた。
普段なら絶対に見せたくない無様な姿。だが今や、羞恥心すらとっくに消え去っていた。
「俺一人じゃ……もう支えきれないよ……」
声が完全に子供の泣き声へと砕けていく。
「お願いだから……誰か助けてくれよ……」
彼は同じ言葉を何度も何度も呟き続けた。
「助けて……」
「頼むから……」
「もう分からないんだ……」
灰白色が鄭文海の身体を完全に飲み込んだ。陸沈の手の中にあった制服の感触すら、少しずつ曖昧になっていく。
「行かないでくれ……」
自分でも誰に向かって言っているのか分からない。
鄭文海に?
この時間そのものに?
それとも、かつて自分の声を聞いてくれたかもしれない世界に向かって?
「俺を一人にしないでくれ……!」
最後まで、返答はなかった。
◇
陸沈は床にへたり込み、両手で顔を覆った。
もう泣き叫ぶ力すら残っていなかった。ただ途切れ途切れの嗚咽だけが、喉の奥から絞り出される。
他人に「助けて」と伝えるには、まず自分がどんな苦しみに苛まれているかを説明しなければならない。だが、それを説明した瞬間に時間は強制的にリセットされてしまう。
つまり——今後どんなに自分がボロボロに壊れようとも、仮面を貼り付け、一人で平気を装って生きていくしかないのだ。
「嫌だ……」
顔中が涙と唾液でぐしゃぐしゃになり、酷い有様だった。
「そんなの嫌だ……」
彼は両手で髪をきつく掻きむしった。
「もう戻りたくない……」
必死に首を振る。
「もう二度と……あの5月8日なんて見たくないんだ……!」
聞き慣れたあの教室。
聞き慣れたあの声。
全く同じ会話。
全く同じ曇り空。
全てが、また一から始まるのだ。
「頼むから……」
陸沈は誰もいない虚無の世界へ向かって哀願した。
「今回だけでいいから……」
嗚咽が言葉を切り刻む。
「このまま……進ませてくれ……」
視界の大半が、すでに闇へと沈んでいた。
「ちゃんとやるから……」
何について「ちゃんと」するのか、自分でも分かっていなかった。
彼はただ交渉したかったのだ。この世界と、あるいは未知の存在と。顔も名前もない相手に向かって、持てる全ての札を投げ出していた。
「未来のことなんて、もう二度と言わないから……」
「テストの解き方もし教えない……」
「誰も死なせたりしない……」
「だから……」
声が弱々しく消えかかっていく。
「もう一度だけ……チャンスをくれ……」
最後まで、言葉を言い切ることはできなかった。
世界は完全に、無辺の漆黒の中へと沈んでいった。
「おい、陸沈! お前また居眠りしてんのか?」




