切り傷の深さ
人は過去を美化する
過去は人を作る
未来を作るのは今なのに
車に乗ると彼はご機嫌だった
自分が行ってみたい場所に行く
それが昔から嬉しい事なのだ
「この通り懐かしいな」
窓の外を見ながら言う
この通りは季節によって色が変わる
春は桜の木が花を咲かせ
夏には虫籠を持った親子が歩き
秋には紅葉が奥に見え
冬には雪が積もり子供達が雪だるまを作る
「四季がある日本にいて良かったと思うよね」
私はあまり気にした事はないが
彼は時間が過ぎるのを感じられる事が
人間に生まれたいちばんの贅沢だと思っている
「あのご飯屋さんにしよう」
彼が指を指す場所には
綺麗な外観の
新しい建物が見えた
「そこにいきましょうか」
車を駐車場に入れ
店内へと入っていく
店内は家族連れが大半だが
カウンターの席には1人で来たであろう人達が
店員と会話をしながら昼食を食べていた
「こちらへどうぞ」
店員に案内された場所に座り
メニューを見ながら彼が言う
「なんかこれ聞いた事ある気がする」
メニュー表に
写真などなく文字だけで
見た事あるとはどういう事なのだろう
「メニューを聞いた事あるって事?」
私が聞くと彼は首を横に振る
そしてこう言うのだ
「ここの料理名だけ聞いた事あるんだよ」
彼が指を指す料理は
不思議な料理名達だった
料理名だけ見てもどんな物が出てくるのか
私には分からなかった
「これにしてみる」
彼は不思議な料理を頼んだ
聞き覚えがあるという
変な理由で選ぶのだ
「なんか不思議なお店だね」
私は彼に言う
彼も他のメニューを見ながら
不思議だという顔をしていた
「頼んだメニュー以外にも
何個か聞いた事のあるメニューがある」
そんな事あるのだろうか
料理名を見たが創作料理なのだろう
私は聞いた事もなかった
「どうぞ」
料理が運ばれてきた
彼は目を丸くしていた
「これ絶対に昔食べた事ある」
そんな事あるのだろうか
初めて入ったご飯屋さんの
創作料理を食べた事があるなんて
「どこで食べたの?」
私は彼に聞く
彼はうーんと言いながら
思い出せない様子だった
「うちの家だよ」
エプロンをかけた女性が
彼に話しかける
彼はびっくりした顔をした
「ここは君の店だったのか」
私はこの子を知っている
彼が傷ついている時に
告白をし彼に断られた子だ
「久しぶりだね元気にしてたの?」
この子は昔から優しい
私や彼よりも誰よりも
「おめでとう自分でお店を出せたんだね」
彼は言う
この子は料理の道に進み
自分でお店を持つのが夢だと
そんな事を言っていた事を
「昔うちの家で君に作ってから
料理名も君に言ったままだからね」
この子は本当に
彼の事が好きだったのだろう
真っ直ぐに
「だから聞いた事も見た事もあるんだね」
私が彼に言う
彼は半笑い気味に言う
「忘れるはずないよ世界で1番美味しかったから」
彼が言う事は本当なのだろう
彼の好物しか乗っていないその皿は
まるで彼のためだけのランチプレートだ
「また暇な時にお茶でも飲みましょう?」
この子はまだ彼の事を好きなのだろう
彼はその言葉に驚いていた
「自分から誘ってくるなんて意外だ」
それはそうだろう
彼の事を何年も思いながら
彼に作った料理を
そのままメニューに加えるような子が
彼を見て次の約束を取り付けない方がおかしい
「あの子は過去が全てなんだよ」
私は彼に言う
どんな人よりも最愛が彼なのだ
あの子は過去の恋愛を消化しきれていない
「いい女なのになんで俺なのかな」
彼はタバコを吸うと
なんとも言えないような顔をしている
「ちょっと変わり者だよね」
私は彼に笑いながら言う
彼の優しさを独占できない事を
私もあの子も知っている
「嫉妬したか?」
彼は私に笑いながら言う
私は彼からの思いがけない言葉に
少し驚いた
「そんな感情私には無いよ」
彼は冗談だという顔をして
私を見ながら料理の最後を楽しんだ
「また来るよ」
会計をしたのもあの子だった
彼と会えた事が嬉しかったのだろう
他の店員に任せず
最後まで彼を見ていたかったのだ
「行ってらっしゃい」
ご飯屋さんの退店にこの言葉を使える
この子は本当に綺麗だ
彼はタイミングが違えば
この子と幸せになれただろう
「行ってきます」
今から1歩踏み出そうとする彼と
過去から彼を見つけに来たこの子
偶然だとしても私は応援したいと思う
こうして不思議な昼食を終えたのだった




