第15話「高天原への帰還」
葦原中国の海岸を離れ、アメノウズメたちは天の浮橋へと向かった。
高天原へと昇る道は、行きよりもさらに高く、そして遠く感じられた。黄泉で受けた代償――魂の重みが、足首に鎖のようにまとわりついているからだ。
「……重いな」
猿田彦が独りごちた。
「ああ。だが、悪くない重さだ」
須佐之男は、手にした八岐の剣を軽く振った。剣身に宿る青白い光が、かすかに高天原の雲を払う。
「オトヒメ、綿津見。お前たちは、ここから先は無理するな」
アメノウズメは二人に振り返った。
綿津見は、オトヒメを抱きかかえながら、静かにかぶりを振った。
「いや、私も行く。……私の娘を救ったのだ。最後まで見届けさせろ」
「父上……」
オトヒメは、父の腕の中で、しっかりとアメノウズメを見つめた。
「わたしも、行きます。あの光を、天照様の元へ届けるために」
アメノウズメは、少しだけ笑った。
「賑やかでいいな。高天原が驚くぞ」
一行は、天の浮橋を駆け上がった。
高天原に近づくにつれ、空の色が変わっていく。先ほどまでの灰色から、少しずつ紫がかった、あの「太陽なき空」へと。
だが、そこには以前とは違う気配があった。
「……静かすぎる」
猿田彦が矛を構える。
天岩戸の前に広がる広場。いつもなら八百万の神々が右往左往し、不安を撒き散らしているはずの場所が、今はしんと静まり返っている。
「オモイカネは? タケミカヅチは?」
須佐之男が剣を抜き、あたりを警戒する。
そこへ、一人の影が現れた。
静かに、音もなく、歩いてくる。
白い衣をまとった、冷徹な美貌を持つ男。その手には、銀色の扇があった。
「月読命……」
綿津見が声を漏らす。
夜を統べる神。天照の弟であり、高天原の番人。
月読命は、アメノウズメたちの前で立ち止まった。その瞳は、まるで冷え切った月の光のように、何の感情も映していない。
「よく戻った」
「……お前、ここで何を待ってた」
アメノウズメが鈴を構える。
月読命は、扇を軽く開いた。
「姉上の封印が解けるのを待っていた。……あるいは、それを阻止するために」
「阻止?」
須佐之男が目を細める。
「お前、どっちの味方だ」
「味方? 私は高天原の秩序を司る者だ。姉上の不在、それは世界の均衡を保つために必要な“夜”なのだ」
月読命の声は、氷のように冷たかった。
「光が戻れば、この世界はまた、あんな騒がしい朝を迎える。私は、それが気に入らぬ」
アメノウズメは、鈴を鳴らした。
チャリン。
「お前、天照のこと、どう思ってんだ」
「姉上は、強すぎる。強すぎる光は、夜を殺す」
月読命は扇を、アメノウズメに向けた。
「お前たちが持ち帰ったその“火種”。それをここで渡せ。そうすれば、お前たちの罪を問わぬ」
「渡せだと?」
アメノウズメは、胸元に手を当てた。
そこにあるのは、天照の残り火だ。彼らが命を削って持ち帰った、唯一の希望だ。
「断る」
「……そうか」
月読命の扇が、夜の帳を呼び寄せた。
「ならば、ここを墓標にする」
瞬間、高天原の広場が、漆黒の夜へと塗りつぶされた。月読の夜は、黄泉の霧よりも深く、意志を持つ闇だ。
「猿田! 須佐!」
「わかってる!」
猿田彦が矛を叩きつけるが、闇がそれを吸収する。須佐之男が剣を振るが、闇が光を隠す。
アメノウズメは、暗闇の中で足を踏み出した。
「月読、そんなんであたいを止められると思うな!」
「踊ってみろ、ウズメ。この夜の中で、どこまで光れるか」
月読命の声が、闇の全方位から響く。
アメノウズメは、鈴を鳴らした。
チャリン。
その音が、闇に溶ける。だが、アメノウズメは構わず、腰を沈め、旋回した。
「あたいらは、光を持ってきたんじゃない」
舞いながら、彼女は叫ぶ。
「天照と、一緒に行くんだ!」
その言葉とともに、彼女の胸元の光が、闇を切り裂くように白く輝いた。




