第14話「代償」
光が霧散した。
黄泉の鏡が、音もなくひび割れ、砕け散る。その破片が床に落ちるたび、鈴のような澄んだ音が響いた。
「……終わったのか」
須佐之男が剣を鞘に納め、荒い息をつく。
アメノウズメは、胸元をそっと押さえた。先ほどまでの焼けつくような熱は消えていたが、代わりに、心臓の奥に小さく、しかし確かな火種が灯っている。天照の残り火だ。
だが、代償は容赦なく訪れた。
アメノウズメの腕の黒い紋様が、今度は火傷のような痕を残して消えた。その代わり、彼女の指先から力が抜け、鈴を握る手が震えた。
「うっ……」
「ウズメ!」
猿田彦が即座に駆け寄り、彼女の背を支える。
「……なんか、体の中が空っぽになったみたいだ」
アメノウズメの顔色は、先ほどまでの血色が嘘のように青ざめていた。魂の一部を黄泉の秤にかけた代償だ。彼女だけではない。須佐之男も、膝を突き、綿津見も壁に手をついて肩で息をしている。オトヒメは気を失い、綿津見の腕の中で眠りについていた。
イザナミだけが、変わらぬ姿でその様子を見下ろしている。
「分け合ったか」
彼女の瞳には、ほんの少しの驚きと、それ以上の深い哀しみが混じっていた。
「全員で代償を負うとは。愚かだ」
「愚かで結構だよ」アメノウズメは猿田彦にもたれかかりながら、ニヤリと笑った。「一人で全部背負い込んで、結局自分を殺すより、よっぽど賢い」
イザナミは、アメノウズメの言葉を噛みしめるように、静かにうなずいた。
「……そうかもしれぬな」
そのとき、黄泉の宮の奥が、再び轟音を立てた。
「おい、まだ何かが動いてるぞ!」須佐之男が剣を抜き直す。
「ヨモツオオカミではない」イザナミが言った。「鏡が壊れたことで、黄泉の秩序が揺れているのだ。このままでは、宮全体が崩壊する」
「崩壊?」
「ここは、死者と生の記憶を繋ぐ場所。鏡という核を失った今、この宮は崩れ、黄泉の底へと沈む」
「なら、早く逃げないと!」
アメノウズメは力を振り絞って立ち上がった。だが、足元が千鳥足になる。
猿田彦が矛を床に突き立て、強引にアメノウズメを背負った。
「乗れ」
「猿田、お前だって代償で力が……」
「お前が動けなきゃ、天照の火種も運べないだろ」
「……わかったよ」
アメノウズメは素直に猿田彦の背に回った。須佐之男もまた、気絶しているオトヒメを抱え、綿津見と共に駆け出す。
「門へ向かうぞ!」
逃走は過酷だった。
黄泉の宮は、まるで意思を持っているかのように、道を変え、天井を落としてくる。壁からは黒い手が伸び、床からはぬかるんだ泥が足にまとわりつく。
「右だ!」
「そこは崩れてる!」
須佐之男の剣が、迫りくる瓦礫を叩き落とす。アメノウズメは背中で鈴を鳴らし、道を示す音を送り続ける。
「あっちだ、光が漏れてる!」
出口はすぐそこだった。門が、半開きになったまま待っている。
だが、その門の前に、数体の影が立ちはだかった。
「まだ止めんのかよ!」
「お前たちは、ここを出る資格がない」
番神の声が響く。だが、その声には、先ほどまでの威圧感はなかった。むしろ、どこか悲痛な響きがある。
「光を奪い、黄泉の均衡を壊した。ならば、その魂をここに置いていけ」
「置いていけるか!」
猿田彦が矛を突き出す。影を払い、突き進む。だが、影は減らない。
「ウズメ!」
須佐之男が叫ぶ。
「一発、頼めるか!」
「こんなところで、舞えるかよ!」
「舞わなくていい! 鈴を鳴らせ! お前の力で、門を突き破るんだ!」
アメノウズメは、猿田彦の背の上で、鈴を掲げた。
「あたいの力……?」
「その火種だ! お前の胸の中にあるやつだ!」
アメノウズメは目を閉じた。
胸の中で、小さく、しかし強く鼓動する白い火種。それは、天照の残り火であり、自分たちの願いの結晶だ。
それを、力に変える。
「……わかった」
アメノウズメは叫んだ。
「天鈴――開け!」
鈴を地面に向かって叩きつける。
チャリン――!
鈴の音が、今までにないほど澄み渡り、衝撃波となって広がる。それは音ではなく、光の波だった。
白銀の波紋が、黄泉の番神たちを飲み込む。番神たちは、光に焼かれるのではない。光に触れ、かつての、神としての姿を思い出させられ、ただただその場に立ち尽くす。
「……そうか。これは」
番神が、一瞬だけ神の顔に戻り、道を空けた。
「行け」
「悪いな!」
猿田彦が門を飛び抜ける。
後ろで、黄泉の宮が崩れる音がした。
黒い霧が、光に押しつぶされ、黄泉の底へと落ちていく。
「やったのか……?」
アメノウズメが振り返ったときには、もう門は跡形もなく消え去っていた。
眼前に広がっていたのは、葦原中国の静かな海岸だった。
「……戻った」
須佐之男が、ようやく剣を収めた。
綿津見が、深呼吸をする。
「空気の味がする……」
アメノウズメは、猿田彦の背から降りた。地面に足がつくと、震えはもうなかった。
胸の奥の火種が、先ほどより少しだけ大きく、力強く鼓動している。
「天照……」
アメノウズメは、空を見上げた。
太陽は見えない。だが、世界は、以前よりも少しだけ明るくなったような気がした。
「次は」
アメノウズメは、須佐之男と猿田彦を見た。
「高天原だ」
「ああ」
「あいつの、本当の本体を助けに行く」
「二つ目の神宝、潮満珠も手元にあるしな」
「そうだな。だが、次はさらにきつくなるぞ」
「望むところだ」
アメノウズメは鈴を腰に下げた。
その姿は、以前よりもどこか凛々しく、そして、踊り子らしくなっていた。
黄泉の影を背負ったまま、彼女たちは、最後の決戦へ向けて歩き出す。




