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天鈿女命は踊って天を裂く 神謡記  作者: はまゆう


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第7話「海底の裂け目」

海の底は、静かだった。


だが、その静けさは安らぎではない。息をひそめる獣のように、何かが奥で待っている気配があった。


綿津見の宮殿から続く潮の流れをたどり、アメノウズメたちは海底のさらに深い溝へ向かっていた。珊瑚の柱は途切れ、真珠の灯は少なくなり、周囲にはほとんど光がない。


「……暗いな」


アメノウズメは鈴を握りしめたまま、前を見た。


「海の底ってのは、こんなに重いもんか」


「瘴気が濃い」猿田彦が低く言った。「水が死んでいる」


須佐之男は無言で腕を組み、先を見つめている。彼の視線の先に、細い亀裂が見えた。海底の岩盤に走る、黒い筋。それはただの割れ目ではなく、深い底へと落ちていく闇の線だった。


「ここだ」


綿津見が、苦しげに言った。


「海底の裂け目……私が代々封じてきた場所だ」


オトヒメは綿津見の後ろに立ち、そっと父の袖をつかんだ。


「父上……本当に、ここから……」


「そうだ。昔から、ここには近づいてはならぬと言われてきた。だが今は……何かが内側から押している」


アメノウズメは裂け目を覗き込んだ。


見えたのは、ただの暗闇ではない。底の見えぬ深淵の中に、細かな光が浮かんでは消える。まるで無数の目が、こちらを見返しているようだった。


「……気持ち悪いな」


「見えるか」猿田彦が問う。


「うっすらな。目みたいな光がある」


須佐之男が短く息を吐いた。


「俺にも見える。あれは霊気じゃない。生き物の呼吸だ」


その言葉の直後、裂け目の奥で、ずるり、と音がした。


何かが動いた。


次の瞬間、黒い触手のようなものが、深淵から伸び上がってきた。


「来たぞ!」


猿田彦が矛を構える。


触手は魚の尾にも、蛇の舌にも似ていた。表面にはぬめった黒い膜があり、そこから細い霧が漏れ出している。


「退け!」


須佐之男が前に出て、触手を拳で殴りつけた。


鈍い音が響く。


だが、触手は砕けない。砕けたように見えて、すぐに霧となって再び集まり、別の形を作る。


「しぶてえな」


「瘴気が本体だ」アメノウズメが言った。「切っても殴っても、核を潰さなきゃ終わらない」


「なら、どこだ」猿田彦が鋭く問う。


アメノウズメは裂け目を見つめた。


「奥だ」


「……行くのか」


「行くに決まってるだろ」


「危険だぞ」


「今さら何言ってんだ」


そう言ってアメノウズメは、鈴を高く掲げた。


「ここで止まってたら、天照まで届かない。あたいらは進む」


オトヒメが小さく息を呑む。


「……私も」


「お前は無理しなくていい」綿津見が制した。


「でも」


「だが、裂け目の中はもっと危険だ。お前はまだ完全には回復していない」


オトヒメは黙り込んだ。だが、アメノウズメが振り返り、にやりと笑った。


「行きたいなら、来い。怖いなら、怖いままでいい」


「……」


「でも、足は止めるな」


オトヒメはわずかにうなずいた。


その様子を見て、須佐之男が口の端を上げる。


「度胸はあるらしい」


「娘は強いんだ」綿津見が言った。「私よりも、な」


「親としては複雑そうだな」


「当然だ」


そのやり取りのあいだにも、裂け目からは黒い霧が次々と湧き出していた。


アメノウズメは一歩前へ出る。


「じゃあ、道を開く」


鈴を鳴らし、身体を低く沈める。


そして――踊った。


海底にあってなお、アメノウズメの舞は軽い。足元に水流が渦を巻き、衣の裾が翻り、鈴の音が潮を震わせる。


チャリン、ドン。チャリン、ドン。


最初は静かに、次第に鋭く。


瘴気が揺れる。触手が伸びる。だが、アメノウズメはそれらを誘うように舞い、わざと一歩踏み込んで見せた。


「ほら、来いよ。そんなもんか?」


「煽るな」猿田彦が言うが、その声にもわずかに緊張がある。


案の定、裂け目が脈打ち、さらに太い黒い腕が飛び出した。


三本。五本。八本。


それらは海底の岩を掴み、アメノウズメたちを包囲する。


「増えやがった!」


須佐之男が叫び、二本をまとめて殴り飛ばす。猿田彦は矛で突き、海底に固定されたような腕を引き剥がす。


だが、腕はきりなく増える。


「きりがないぞ!」


「なら、きりをつける!」


アメノウズメは振り向かずに答えた。


「オトヒメ、見てろ!」


「え……」


「笑え。少しでいい」


「こんな時に?」


「こんな時だからだ!」


アメノウズメはその場で回転し、両腕を広げた。鈴の音が鋭く響き、海底の暗がりを一瞬だけ照らす。


その光に、オトヒメは目を細めた。


アメノウズメはさらに踏み込む。腰を落とし、肩を揺らし、あえて滑稽なほど大きく動く。


「これでどうだ!」


その舞は、戦いの最中だというのに、どこか愛嬌があった。


須佐之男が思わず吹き出しそうになり、綿津見もわずかに口元を緩める。


オトヒメはこらえきれず、小さく笑った。


「……ふふっ」


その笑いは、海底の闇には似合わないほど柔らかかった。


同時に、裂け目から伸びる腕がひるむ。


「今だ!」猿田彦が叫ぶ。


須佐之男がそのひるんだ一本を殴りつけ、アメノウズメは鈴を振り下ろした。


チャリン――!


音が刃のように走る。


黒い腕のひとつが裂け、深淵へと消える。そこにできた空隙から、奥の奥にうごめくものが見えた。


「……いた」


アメノウズメが目を細める。


裂け目のさらに奥、黒い霧の中心で、何か丸い輪郭が脈打っている。心臓だ。瘴気そのものが、どこかでひとつになっている。


「核はあそこか!」


「遠いな」須佐之男が言う。


「だから、道を作る」


アメノウズメは振り返り、綿津見に向かって叫んだ。


「綿津見! ここ、潮を動かせるか!」


「なに?」


「裂け目の奥まで、流れを通したい!」


綿津見は一瞬だけ目を見開き、すぐに理解した。


「……できる。だが、宮殿の潮路を変える。負担は大きい」


「やれ!」


アメノウズメの声に、綿津見はうなずいた。


彼は深く息を吸い、両手を広げる。すると、海底の流れが変わり始めた。静止していた水がうねり、裂け目へと向けて細い渦が生まれる。


「潮を流す……!」オトヒメが息を呑む。


「今だ!」猿田彦が叫ぶ。


海水の流れが、黒い腕の隙間を縫って裂け目の奥へ流れ込んだ。


黒い霧が揺らぐ。


須佐之男が続けて拳を叩き込む。


「よし、押し切るぞ!」


「アメノウズメ!」猿田彦が叫んだ。


「分かってる!」


アメノウズメは裂け目の縁に片足をかけ、鈴を胸元に押し当てた。


「天鈴、奥まで届け!」


チャリン、チャリン、チャリン――!


音はまっすぐ深淵へ落ちていく。


黒い霧の核が、わずかに揺れた。


「割れる……!」


裂け目の奥で、何かが悲鳴を上げる。


その声は、獣のようでもあり、人のようでもあった。


アメノウズメは目を見開いた。


「これは……」


「どうした!」須佐之男が聞く。


「声がした。女の声だ」


一瞬、全員の動きが止まる。


裂け目の奥から、はっきりとした囁きが響いた。


「……まだ、来るな」


綿津見が凍りつく。


「今のは……」


「聞こえたか」猿田彦が低く問う。


「ええ」アメノウズメは鈴を握りしめた。「あたいにも聞こえた」


黒い霧の核が、鼓動するように明滅する。


そして次の瞬間、裂け目の奥から巨大な何かが目を開いた。


真っ赤な、しかしどこか遠い目。


「ヨモツオオカミ……!」


須佐之男が叫ぶ。


深淵の闇の向こうで、それは確かにこちらを見ていた。


そして、ひとつだけ笑ったように見えた。


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