第6話「綿津見の宮殿」
宮殿の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
海の底とは思えぬほど静かなはずの空間に、ひどく重い圧が満ちている。珊瑚の柱は折れ、貝殻の床はひび割れ、真珠の灯はところどころ黒く濁っていた。
「……ひどいな」
アメノウズメは鈴を握りしめたまま、辺りを見回した。
海中にあるはずの綿津見の宮殿は、本来ならば青く澄み、波の揺らぎに合わせて光を返すはずだ。だが今は違う。壁のすき間から黒い霧が滲み、宮殿全体がまるで病んだ生き物のようにうごめいている。
須佐之男が低く鼻を鳴らした。
「瘴気が奥まで回っている」
猿田彦は無言のまま矛を構え、門の奥を睨んでいる。
「生き物の気配もあるな。だが、正常じゃない」
「正常じゃないのは、もう今に始まったことじゃねえけどな」
アメノウズメはそう言って笑ったが、声は軽くない。
門を抜けた先には、広い中庭があった。海藻のように揺れる白い布、ひっくり返った酒器、割れた装飾品。あちこちに暴れた痕跡がある。
そして、その中央に――大きな影が横たわっていた。
「綿津見……!」
須佐之男が声を上げる。
海の神・綿津見は、玉座の前で膝をついていた。長い髪は乱れ、立派な衣は泥と黒い霧で汚れている。だが、それ以上に目を引いたのは、その右腕だった。
黒い紋様が腕から肩まで広がり、まるで根のように脈打っている。
「来たか……」
綿津見は、苦しげに顔を上げた。
「高天原の使いか」
「アメノウズメだ」アメノウズメは前に出た。「それと、猿田彦、須佐之男」
綿津見の目が一瞬、須佐之男で止まる。
「お前まで来たか」
「来たくて来たわけじゃない」須佐之男は肩をすくめた。「だが、放っておくのも性に合わん」
綿津見はわずかに笑い、しかしすぐに顔をしかめた。
「……遅かった。海はすでに汚された」
「何が起きた」
アメノウズメの問いに、綿津見は呻くように答えた。
「海底の裂け目から、黒い霧が噴き出した。魚は暴れ、海草は枯れ、娘は……」
そこで言葉が途切れる。
「娘?」アメノウズメが聞き返した。
「オトヒメだ」
その名前が出た瞬間、宮殿の奥から、微かな悲鳴が響いた。
「きゃあっ……!」
「オトヒメ!」
アメノウズメは反射的に駆け出した。
「待て、ウズメ!」猿田彦が制したが遅い。
アメノウズメは中庭の奥にある渡り廊下を抜け、声のした方へ飛び込む。そこには、海水の溜まった大広間があった。中央には白い玉座があり、その周囲を黒い霧がぐるぐると渦巻いている。
玉座の前で、ひとりの姫が倒れていた。
白い衣をまとい、長い黒髪を水に濡らした少女。だが、その左肩から首筋にかけて、黒い霧が絡みついている。
「オトヒメ……!」
アメノウズメが名を呼ぶと、少女は苦しそうに顔を上げた。
「……誰?」
「高天原から来た。お前の父上に呼ばれた」
「父上……」
オトヒメはぼんやりと呟いたが、次の瞬間、目の色が変わった。
黒い霧が瞳の奥に走る。
「来ないで……!」
叫ぶと同時に、オトヒメの背から水流が噴き上がった。水はまるで生き物のようにうねり、アメノウズメに襲いかかる。
「うおっ!」
アメノウズメは後ろに跳び、辛うじて避ける。
だが、衝撃で大広間の床が割れた。
「危ねえな!」
「近づくな……わたしに……!」
オトヒメの声は、彼女自身のものではないようだった。低く重い、誰か別のものの声が混ざっている。
「やっぱり取り憑かれてるな」
猿田彦が大広間に入ってきて、すぐに状況を見抜いた。
須佐之男も続き、顔をしかめる。
「黒い霧が、娘に入り込んでる」
「治せるか?」アメノウズメが問う。
「簡単じゃない」猿田彦が言う。「瘴気が深い。無理に引き剥がせば、命まで傷つく」
「じゃあどうする」
須佐之男が腕を組んだ。
「まず、暴れさせるな。次に、霧の核を探す」
「核?」
「この手の瘴気は、ただ広がっているだけじゃない。必ず中心がある。そこを断てば、弱る」
アメノウズメはオトヒメを見た。
彼女は床に片手をつき、必死にもう片方の手で胸元を押さえている。黒い霧はその隙間からも滲み出し、まるで呼吸するたびに濃くなっているようだった。
「わかった」
アメノウズメは鈴を取り出した。
「じゃあ、あたいの出番だ」
「まさか……」綿津見が後ろから呻く。「踊るつもりか」
「そのまさかだよ」
アメノウズメはオトヒメの前に立ち、鈴を高く鳴らした。
チャリン、と澄んだ音が広間に響く。
オトヒメがびくりと肩を震わせた。
「……なに」
「聞け。お前を助けに来た」
「助け……?」
「そうだ。だから、暴れるな」
アメノウズメは一歩下がり、足を開いた。
そして、静かに舞い始める。
最初は小さく、足踏みだけ。やがて鈴が鳴り、肩が揺れ、腰が回る。海中なのに、不思議と音は消えない。むしろ水の揺らぎに乗って、広間いっぱいに広がっていく。
チャリン、ドン。チャリン、ドン。
「この音……」オトヒメが目を細める。
「そうだ。お前の中の黒いのを揺らしてる」
アメノウズメは踊りながら言った。
「瘴気ってのは、じっとしてると根を張る。だから、揺らす。乱す。笑わせる。泣かせる。そうやって外に出すんだ」
「笑わせる……?」
「そう。あたいは、それが得意だ」
アメノウズメはわざと大げさに腰を振った。
神々しいほど真剣な場面なのに、やることは妙に挑発的で、妙に可笑しい。須佐之男が一瞬だけ口元をゆるめ、猿田彦は呆れたように息を吐いた。
オトヒメの目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……なんなの、その踊り」
「変だろ」
「……変」
「だろうな。だから効く」
アメノウズメはさらに一歩踏み込み、肩を揺らし、鈴を鳴らした。
チャリン、チャリン、チャリン。
オトヒメの唇が、かすかに動く。
「……ふふ」
その一音だった。
アメノウズメは見逃さない。
「今だ!」
鈴を鳴らしながら、オトヒメの周囲を回る。視線を釘付けにし、意識を外に向けさせる。すると、オトヒメの肩に絡みついていた黒い霧が、少しだけ揺れた。
「そこだ、見えたぞ」
猿田彦が矛を構えた。
「中心は左肩の奥だ」
「よし」
須佐之男が一歩出た。
「俺が押さえる」
そう言うや否や、須佐之男は床を蹴ってオトヒメの横に回り込み、霧の流れを遮るように立つ。
「来い、黒いの。相手になる」
黒い霧が牙のように伸びる。須佐之男はそれを片手で払い、もう片方の手でオトヒメの肩を支えた。
「動くな。引き剥がす」
「だめ……! 苦しい……!」
「わかってる」
猿田彦が矛の先を霧の核に向ける。
「ウズメ、合図しろ」
アメノウズメは大きく息を吸った。
そして、今までより激しく、しかしどこか優しい舞を始める。
鈴が鳴り、足音が重なる。
チャリン、ドン。チャリン、ドン。チャリン、ドン。
水の揺れが変わる。
黒い霧が浮き上がり、オトヒメの背から細い糸のように引きはがされる。
「抜ける……!」須佐之男が叫ぶ。
「もう一押しだ!」
アメノウズメは床を蹴り、回転しながらオトヒメの前へ飛び込んだ。
「笑え、オトヒメ!」
「え……」
「笑った方が勝つんだよ!」
アメノウズメは片目を閉じ、わざと大袈裟に転んだ。
だが、転んだ勢いで体をひねり、そのまま綺麗に立ち上がる。おまけに、髪飾りが床を滑って飛んでいき、須佐之男の足元に転がった。
須佐之男がそれを拾い上げた瞬間、アメノウズメが真顔で言う。
「似合わねえ」
「なんだと」
そのやり取りに、オトヒメが、今度ははっきりと笑った。
「……ふっ」
それは小さな笑いだったが、十分だった。
笑いは陽の気になる。
宮殿の広間に、かすかな光が広がる。黒い霧がひるみ、オトヒメの左肩から一気に引き剥がされた。
「今だ、刺せ!」
猿田彦の矛が閃く。
黒い霧の核が、ひゅっと音を立てて裂けた。
「ぎゃあああっ!」
耳障りな悲鳴を残して、瘴気は四散した。広間の空気が一気に軽くなる。
オトヒメがその場に崩れ落ちた。
須佐之男がすぐに支える。
「終わったぞ」
「……終わった……?」
オトヒメはぼんやりと天井を見上げ、それからゆっくりと首を振った。
「わたし……何を……」
「取り憑かれてたんだ」アメノウズメが言った。「でも、もう大丈夫」
綿津見が震える足で近づいてきた。
「オトヒメ……!」
「父上……」
親子はようやく目を合わせた。
綿津見は娘を抱きしめ、しばらく何も言えなかった。
その背で、アメノウズメは腕を見た。黒い紋様は少しだけ薄くなっている。
「……やっぱり、瘴気の核を潰せば効くな」
「しかし」猿田彦が言う。「根はまだ残っている。海底の裂け目だ」
須佐之男がうなずく。
「そこを塞がない限り、また出てくる」
綿津見が顔を上げた。
「海底の裂け目……あれは、私の宮殿のさらに奥にある。古い封印だ。だが、最近になってそこがひび割れた」
「原因は?」
「おそらく、黄泉の気配だ」
アメノウズメは頷いた。
「やっぱり、ヨモツオオカミか」
その名を口にした瞬間、広間の奥が不自然に冷えた。
綿津見が重く息を吐く。
「……そうだろう。あの裂け目の向こうから、何かが海を見ていた」
「見ていた?」
「いや、正確には……待っていた」
アメノウズメは鈴を握り直した。
「待ってたってことは、こっちが来るのも分かってたってわけだ」
「そういうことになる」
「上等だ」
アメノウズメはニヤリと笑った。
「待ってるなら、迎え撃つまでだ」
綿津見は、まだ弱った体を起こしながら言う。
「アメノウズメ。娘を救った礼を言う。だが、海底の裂け目へ行くのは危険だ」
「危険じゃなかったら、あたいらが来る意味がねえだろ」
須佐之男が苦笑した。
「こいつはそういう女だ」
オトヒメが弱々しく手を挙げる。
「……私も、行きます」
「は?」
「わたしの体を蝕んでいたもの。わたしにも見える気がするんです。裂け目の先に……」
綿津見が慌てる。
「だめだ、まだ休め」
「父上」
「しかし……」
オトヒメはゆっくりと首を振った。
「私、逃げたくない」
その言葉に、アメノウズメは少しだけ目を細めた。
「いい度胸だな」
「あなたの踊りを見て、少し……勇気が出たの」
「なら、その勇気、ちゃんと使え」
アメノウズメはオトヒメに手を差し出した。オトヒメは少し戸惑ってから、その手を取る。
綿津見が観念したように肩を落とした。
「……わかった。だが、私の宮殿から裂け目へは、潮の流れを読まねば進めぬ。案内しよう」
「助かる」
宮殿の奥へ進む準備が整う。
その時、須佐之男がふと、アメノウズメの背中を見て言った。
「おい、ウズメ」
「なんだ」
「お前、やっぱり変だな」
「今さらかよ」
「だが、嫌いじゃない」
アメノウズメは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「素直じゃねえな」
「お前にだけは言われたくない」
猿田彦が小さく鼻を鳴らす。
「くだらん。行くぞ」
アメノウズメは鈴を鳴らし、頷いた。
「おう。次は海底の裂け目だ」
こうして、海の神の宮殿でひとつの瘴気を断ち、四人はさらに深い場所へ進むことになった。
裂け目の向こうに何があるのか、まだ誰も知らない。
ただひとつ、確かなことがある。
ヨモツオオカミは、すでに海の底からこちらを見ている。




