第5話「海原への道」
黒い霧が、剣の柄を包み込んでいた。
須佐之男はその柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。
シュイン……。
鞘から現れた刃は、青白く光っていた。だが、その光は澄んでいない。黒い筋が刃の表面を走り、まるで生きているようにうねっている。
「これは……」
須佐之男が剣を掲げる。
その瞬間、黒い筋が脈打ち、剣全体が震えた。
「ぐうっ……!」
須佐之男が呻く。剣を持った手から、黒い霧が這い上がり、腕を伝っていく。
「須佐之男!」
アメノウズメが鈴を鳴らす。
「離せ、その剣!」
「離せるか!」
須佐之男は歯を食いしばり、剣を握りしめたままだった。黒い霧はどんどんと彼の体を侵食していく。顔にも、首筋にも、黒い紋様が浮かび上がる。
「猿田、押さえろ!」
「分かっている!」
猿田彦が矛の柄で須佐之男の手元を叩く。だが、剣は離れない。むしろ、黒い霧が猿田彦の矛に絡みつき、引き剥がそうとする。
「こいつ、剣に取り付いている!」
「ヨモツオオカミの仕業か!」
アメノウズメは跳躍し、須佐之男の目の前で鈴を振り鳴らした。
「須佐之男、聞け! あたいの音を聞け!」
チャリン、チャリン、チャリン!
鋭い音が連続して響き、須佐之男の瞳が揺れる。
「ウズメ……?」
「目を覚ませ! お前がここで倒れたら、剣が手に入らない!」
「剣……そうだ、剣を……」
須佐之男は力を振り絞り、黒い霧に抗って剣を持ち上げた。
「俺は……須佐之男……八岐大蛇を斬った……この剣で……!」
黒い霧が悲鳴を上げる。
「ぐあああっ!」
須佐之男が剣を振り下ろす。
刃が空気を切り裂き、黒い霧が一刀両断にされた。霧は四散し、風に溶けていく。
剣の光が、ようやく澄んだ青白さを取り戻した。
「はぁ……はぁ……」
須佐之男が膝をつく。アメノウズメがすぐに駆け寄り、彼の肩を支えた。
「大丈夫か」
「……ああ。すまない」
「すまないじゃない。次はもっと早く気付けよ」
アメノウズメは須佐之男から剣を受け取り、仔細に眺めた。
刃には雲のような文様が浮かび、確かに神宝の気配が宿っている。
「これが八岐の剣……一つ目、ゲットだな」
猿田彦が頷く。
「だが、まだ二つある。海原の潮満珠と、黄泉の黄泉鏡だ」
「海原はどっちだ?」須佐之男が問う。
「南だ」アメノウズメは南の空を指差した。「綿津見の宮殿がある」
「綿津見か……海の神だ」須佐之男が苦笑した。「あいつ、真面目すぎて困るんだよな」
「お前みたいに酔っ払ってないだけマシだろ」
「それな」
三人は笑い合い、そして村の方へ戻った。
村では、村民たちが恐る恐る待ち構えていた。だが、三人が無事な姿を見ると、安堵の溜息が漏れる。
「須佐之男様! ご無事でしたか!」
「ああ、すまない。迷惑をかけた」
須佐之男は村民たちに頭を下げた。酔いどれの姿からは想像できない、真摯な態度だ。
老人が進み出た。
「あの……神様方。これからどちらへ?」
「海原だ」アメノウズメが答えた。「海の神様を助けに行く」
「海原様も……黒い霧に?」
「おそらくな。放っておけば、お前の村もまた襲われる」
村民たちが顔を見合わせる。
老人が深く頭を下げた。
「どうか、海原様をお救いください。そして……この村も、守ってください」
アメノウズメはニヤリと笑い、老人の肩をポンと叩いた。
「任せておけ。あたいがいるんだ。大丈夫だ」
その言葉に、村民たちの顔に笑みが戻る。
三人は村を後にし、南へと歩き出した。
道中、アメノウズメは八岐の剣を背負い、鈴を手に持っている。猿田彦は無言で前を歩き、須佐之男は時折剣を眺めながら歩いている。
「で、須佐之男」アメノウズメが口を開いた。「お前、なんであんなに酒に溺れてたんだ」
須佐之男はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……俺は、八岐大蛇を斬ったあと、天叢雲剣を天照に献上した」
「知ってる」
「だが、俺はまだ戦えると思った。もっと強い敵がいて、もっと大きな戦いがあるってな」
「で、剣がなくて、酒に逃げた」
「……そうだ」
須佐之男は自嘲気味に笑った。
「だが、お前たちを見て思った。俺はまだ戦えるってな」
「当たり前だろ」アメノウズメは笑った。「お前は須佐之男だ。八岐大蛇を斬った神だろ」
「そうだな」
須佐之男の瞳に、久しぶりに光が宿った。
猿田彦がふと口を開いた。
「ウズメ」
「ん?」
「お前の腕、まだ疼いているか」
アメノウズメは自分の腕を見た。黒い紋様は、先ほどより少しだけ薄くなっているように見える。
「マシになったかな。でも、完全には消えてない」
「ヨモツオオカミの瘴気は、そう簡単には消えん」
「分かってる。でも、三つの神宝を揃えれば、どうにかなるだろ」
「そうだといいが」
三人は歩き続ける。
やがて、前方に海が見えてきた。
青く広がる海原。だが、その海は荒れていた。巨大な波がうねり、黒い雲が空を覆っている。
「あれが海原か」須佐之男が呟く。
「なんか、嫌な感じだな」アメノウズメが眉をひそめた。
海岸に近づくと、漁師らしき人々が怯えた顔で集まっていた。
「お、お前たちは……神様か?」
「そうだ」アメノウズメが答えた。「高天原から来た。綿津見に会いに来た」
「綿津見様は……宮殿に閉じこもっておられます。海が荒れて、誰も近づけません」
「海が荒れてる原因は?」
「黒い霧です。海から黒い霧が吹き出し、魚たちが暴れ始めまして……」
アメノウズメと猿田彦、須佐之男が顔を見合わせる。
「やっぱりか」
「行くぞ」猿田彦が言った。
「どうする?」須佐之男が問う。
「泳ぐ」
「泳ぐ?」
「当たり前だろ。海原に行くんだ。泳ぐ以外ない」
アメノウズメは浜辺に立ち、海を見つめた。
黒い霧が海面から立ち上り、波を黒く染めている。
「でも、この瘴気の中を泳ぐのは危険だ」須佐之男が指摘する。
「だったら、あたいが祓いながら行く」
アメノウズメは鈴を鳴らし、海に向かって舞い始めた。
チャリン、ドン。チャリン、ドン。
鈴の音が海に響き、黒い霧が少しだけ晴れる。
「行くぞ!」
三人は海に飛び込んだ。
冷たい水が体を包む。だが、瘴気のせいで、水はぬるっとした嫌な感触だ。
アメノウズメは泳ぎながら、絶えず鈴を鳴らし続けている。
チャリン、チャリン、チャリン。
黒い霧が晴れ、道が開ける。
「この調子だ!」
三人は海の中を泳ぎ続ける。
やがて、前方に巨大な建造物が見えてきた。
珊瑚でできた宮殿。貝殻が飾りつけられ、真珠が光を放っている。
「綿津見の宮殿だ」
だが、宮殿の周囲も黒い霧に包まれ、魚たちが暴れ回っている。
「着いたな」
アメノウズメは宮殿の門の前に泳ぎ着き、鈴を高く掲げた。
「綿津見! あたいだ、アメノウズメ! 開けろ!」
返事はない。
だが、門の奥から、かすかな泣き声が聞こえてきた。
「誰か……助けて……」
「娘の声だ」須佐之男が呟く。
「オトヒメか」アメノウズメは顔をしかめた。「面倒なことになりそうだな」
猿田彦が矛を構える。
「行くぞ」
三人は宮殿の門をくぐった。
その先には、さらに深い闇が待っていた。




