第4話「酔いどれ神」
須佐之男は、しばらくアメノウズメを見つめていた。
それから、ふいに肩を震わせ、低く笑った。
「……面白い女だ」
「今さらかよ」アメノウズメは腕を組んだ。「さっさと笑え。笑えなかったら、お前の剣の在りかをあたいが見つける」
須佐之男は酒壺を抱えたまま、ゆっくりと立ち上がった。足元はふらついている。酔いはまだ完全には抜けていないらしい。
猿田彦がその様子を見て、眉をひそめた。
「この男、本当に大丈夫か」
「大丈夫じゃないから、今こうなんだろ」
アメノウズメはにやりと笑った。
須佐之男の周囲には、酒の匂いが濃く漂っている。だが、それだけではない。彼の足元の土は黒く湿り、ところどころに瘴気のようなものが滲んでいた。八岐大蛇の残骸から出ていた黒い霧と、よく似ている。
猿田彦もそれに気づいたのだろう。矛の柄を握り直し、低い声で言った。
「ウズメ。こいつ、ただ酔っているだけじゃない」
「分かってる」
アメノウズメは須佐之男に近づいた。
「お前、剣を失くしたって言ったな」
「ああ」
「どこで失くした」
「さあな」
「さあな、じゃない」
アメノウズメは須佐之男の額を指で弾いた。
「天叢雲剣ってのは、ただの刀じゃねえだろ。お前みたいな神が失くしていいもんじゃない」
須佐之男はしばらく黙っていた。だが、やがて酒壺を地面に置き、腰を下ろした。
「……俺は、あのあとしばらく飲み続けていた」
「知ってる」
「八岐大蛇を斬った時は、まだ勢いがあった。だが、あれからだ。あの黒い霧が、尾のあたりから吹き出した」
アメノウズメと猿田彦が顔を見合わせる。
「尾?」猿田彦が問うた。
「そうだ。俺が封じたはずのものが、まだ奥で生きていたのかもしれん。剣を抜いた場所に、妙な裂け目があった」
「裂け目……」
「気づいた時には、剣が手元になかった。あとには黒い泥と、酒の匂いだけだ」
アメノウズメは腕を組んだ。
黒い泥。裂け目。瘴気。
やはり、ヨモツオオカミの気配だ。
「それで、ずっとこうしてるのか」
須佐之男は苦く笑った。
「俺は勝ったはずだった。だが、勝ったあとに守るべきものを守れなかった。剣も、誇りも、どこかへ落とした」
「へえ」
アメノウズメは、じっと須佐之男を見た。
「なら、取り戻せばいいだけだろ」
「簡単に言うな」
「簡単だよ。あたいは、そうやって来た」
須佐之男が目を細める。
アメノウズメはそのまま続けた。
「天照もそうだ。あの人は自分で岩戸にこもった。助けるなら、向こうの都合もちゃんと背負わなきゃいけない」
一瞬、辺りが静かになった。
村を抜ける風が、草を撫でる音だけが聞こえる。
猿田彦は無言で立っていたが、その横顔は少しだけ険しい。須佐之男もまた、アメノウズメの言葉を飲み込むようにしている。
やがて、須佐之男が鼻で笑った。
「言うじゃないか。小さな舞姫のくせに」
「誰が小さいって?」
「身の丈の話じゃない。器の話だ」
「はん。器なら、あたいの方がでかいね」
アメノウズメは桶の上で踊った時のことを思い出すように、片足で軽く地面を蹴った。
「で、どうなんだ。剣はどこだ」
須佐之男は立ち上がり、酒壺を肩に担いだ。
「取り戻したいのか」
「当たり前だ」
「なら、条件がある」
猿田彦が即座に反応する。
「また条件か」
「当然だろう。神宝を探すんだ。手ぶらで渡すほど、俺は酔い潰れていない」
「酔い潰れてるやつが言う台詞じゃねえよ」
アメノウズメが吹き出すと、須佐之男もつられて笑った。短い、しかし腹の底から漏れたような笑いだった。
その笑いに混じって、地面の下から、かすかな振動が伝わってくる。
ズズ……ン。
アメノウズメが目を細めた。
「来るな」
「何がだ」猿田彦が問う。
「下」
言い終わるより早く、地面が裂けた。
黒い霧が噴き上がる。腐った土の匂い、血のような湿り気、そして生臭い風。村の外れにあった草地が、まるで生き物のように盛り上がり、そこから黒い影が何体も這い出してきた。
「ツチグモだ!」
村民の悲鳴が響く。
黒い影は蜘蛛のような姿をしていた。だが、ただの蜘蛛ではない。八本の脚は人の腕のように太く、腹は膨れ、顔のあたりに歪んだ人の口がある。ぬめった黒い毛がびっしりと生え、瘴気を纏ってうごめいていた。
「やっぱり来やがったか」猿田彦が矛を構える。
ツチグモたちは、地面を這うようにして一斉に襲いかかってきた。
「下がれ!」
須佐之男が前に出る。酔っているとは思えない鋭さで、酒壺を投げ捨てた。
「おい、剣は!」
「今はない!」
「じゃあ何する気だ!」
「斬る代わりに、殴る!」
そう言って、須佐之男は素手で一体のツチグモを殴り飛ばした。
鈍い音が響き、ツチグモの頭部がひしゃげる。だが、それでも完全には倒れない。霧が体を包み、再び形を取り戻そうとする。
「再生する!」
アメノウズメが叫んだ。
「瘴気で形を保ってる! 斬るだけじゃダメだ!」
猿田彦が矛で別のツチグモを突き刺す。だが、やはり黒い霧がそこから滲み出し、傷口を塞いでいく。
「面倒な奴らだな」
「だから言ってるだろ」アメノウズメは太鼓を胸元に抱えた。「あたいの出番だって」
鈴を高く掲げる。
「天鈴、鳴れ!」
高く澄んだ音が、空気を裂いて広がった。
チャリン――ンンンン……。
ツチグモの動きが一瞬止まる。瘴気の揺らぎが乱れた。
「効いた!」村民が叫ぶ。
アメノウズメはそのまま桶でもなければ岩でもない、ただの地面を踏みしめて踊り出した。
最初の一歩は軽く、次は鋭く。腕を振り、腰を沈め、脚を高く蹴り上げる。
鈴の音と足音が重なり、リズムが生まれる。
「来い、来い、来い……!」
ツチグモが一斉に跳びかかる。
アメノウズメは身をひねってかわし、すれ違いざまに太鼓を叩いた。
ドン!
その一音で、瘴気の膜が揺らぐ。ツチグモの脚が一瞬止まり、体の中心がむき出しになる。
「そこだ!」
猿田彦の矛が突き刺さった。
今度は霧がまとわりつく前に、須佐之男がその身体ごと蹴り飛ばす。
「斬れなくても、壊せばいい!」
須佐之男は次々とツチグモを殴り、蹴り、地面に叩きつけた。豪快で乱暴だが、どこか神らしい暴風のような力がある。
アメノウズメは舞いながら、その動きに声を合わせた。
「そうだ、その調子! もっと暴れろ!」
「指図するな!」
「じゃあ黙って勝て!」
「偉そうな女だ!」
「褒め言葉に聞こえるね!」
そのやり取りを聞いて、村の子どもが思わず吹き出した。
一人が笑うと、二人が笑う。緊張に押しつぶされていた村人たちの間に、少しずつ笑いが広がる。
アメノウズメはそれを見逃さなかった。
「その笑いだ!」
鈴が高く鳴る。
笑いは陽の気になる。陽の気は瘴気を裂く。瘴気が乱れれば、ツチグモは形を保てない。
アメノウズメは跳び上がり、空中で身体をひねった。
「天鈿女の舞・裂光!」
鈴と太鼓の音が重なった瞬間、黒い霧がぱっと開いた。
ツチグモの一体が悲鳴を上げる。
「ぐぎゃああっ!」
猿田彦の矛がその中心を貫き、須佐之男の拳が横から叩き込まれた。
一体、また一体。
黒い影は次々と崩れ、霧となって消えていく。
最後の一体が、地面を這いながら逃げようとした。
アメノウズメは着地し、そのまま一歩で追いつく。
「逃がすか!」
鈴を振り下ろす。
チャリン、と鳴った音が、まるで刃のようにツチグモの体を切り裂いた。
黒い霧が四散し、風に溶ける。
静けさが戻った。
村人たちが恐る恐る顔を上げる。
「終わった……のか?」
「みたいだな」須佐之男は肩で息をしながら答えた。
猿田彦は矛を下ろし、ひとつ大きく息を吐いた。
「やれやれ。やっと静かになったか」
アメノウズメは腕の黒い紋様を見た。
ほんの少し、熱を持っている。
「……まだ、完全には消えてないな」
「何がだ?」須佐之男が問う。
「瘴気の源だよ。こいつらは下っ端だ。本体は別にいる」
猿田彦が険しい顔になる。
「やはり、ヨモツオオカミか」
アメノウズメは頷いた。
その時、村の外れ、八岐大蛇の残骸が横たわっている方角から、また別の匂いが流れてきた。
酒だ。
だが、今度の酒の匂いは甘いだけではない。焦げたような、苦いような、どこか不穏な香りが混じっている。
須佐之男が顔を上げた。
「……剣の気配だ」
「本当か」
「ああ。さっきの騒ぎで、隠れていたものが動いたのかもしれん」
須佐之男はゆっくりと歩き出した。酔いはほとんど醒めている。
「どこだ」
「八岐大蛇の死骸の、尾の奥だ」
アメノウズメは目を細めた。
「やっぱり、あそこか」
「行くぞ」猿田彦が言う。
三人は村を抜け、黒く変色した蛇の死骸のもとへ向かった。
巨大な尾の付け根。その奥に、確かに何かがある。
鈍く光る、ひとつの影。
須佐之男が近づき、膝をついた。
「……あった」
アメノウズメが覗き込む。
尾の裂け目の奥に、半ば土に埋もれるようにして、一本の剣が差し込まれていた。鞘に入ったままではあるが、その表面には青白い雲のような文様が浮かんでいる。
「八岐の剣……」
「いや」須佐之男が、少しだけ眉を寄せた。「これはまだ、完全な剣じゃない」
「どういうことだ」
「この剣は、ただの形だ。本体はもっと深い場所にある。だが、抜けば分かる」
須佐之男は右手を伸ばした。だが、その瞬間、尾の裂け目から、黒い瘴気が噴き出した。
「来るぞ!」
黒い霧が剣を覆い隠す。
アメノウズメが前に出た。
「だったら、踊って吹き飛ばすまでだ!」
鈴を鳴らし、太鼓を叩く。
チャリン、ドン。チャリン、ドン。
黒い霧が揺れる。だが、今までとは違う。霧の奥で、何か大きなものが目を開くような、嫌な気配がした。
須佐之男が低く呟く。
「……これは、ただの剣じゃない」
猿田彦が矛を構えた。
「ウズメ、下がれ」
「嫌だね」
アメノウズメはにやりと笑った。
「ここで引いたら、天照を助ける話にならない」
黒い霧がさらに濃くなる。
そして――剣の柄が、ゆっくりとこちらを向いた。




