第16話「夜を舞う」
闇が、世界を飲み込んだ。
先ほどまで見えていた高天原の広場が、まるで巨大な毛布に包まれたかのように消え失せ、代わりに冷え切った宇宙のような静寂が広がった。星ひとつない、絶対的な夜だ。
「……五感が殺される」
猿田彦の声が、すぐ横で響いた。矛を握る手の感触以外、何も信じられない。
「光が、食われてる……」
オトヒメが小刻みに震えている。綿津見が娘をかばうように立ち、周囲を警戒する。
その闇の中で、アメノウズメの胸元だけが、弱々しく、しかし確かに白い光を放っていた。天照の残り火だ。月読命の夜は、その小さな希望を包囲し、塗りつぶそうと収縮を繰り返している。
「いいか、皆!」
アメノウズメは鈴を強く握り直した。
「この闇は、ただの光のない場所じゃない。月読が作り出した“認識の牢獄”だ。あたいの音で、こいつに穴を空ける!」
「どうやるつもりだ?」須佐之男の声がする。
「お前たちが音を立てろ! 何でもいい、矛を振れ、剣を叩け、水をぶつけろ! あたいは、その振動に乗る!」
「無茶を言うな!」
「一番無茶なのは、弟のくせに太陽を消そうとしてるあいつだろ!」
アメノウズメは、暗闇の中で地を蹴った。
足首から先に、黄泉で受けた代償の痛みが走る。魂が削られた隙間を、月読の冷気が容赦なく突き刺してくる。だが、アメノウズメは表情一つ変えず、舞った。
チャリン。
鈴の音が、闇の膜に当たって弾ける。
「今だ!」
ドン!
猿田彦が盾を地面に叩きつけた。重低音が、闇という液体を震わせる。
チャリン、ドン!
須佐之男が剣で空間を切り裂く。銀の残光が、闇にほんの一瞬の傷をつける。
アメノウズメはその傷に滑り込み、旋回した。
「天鈿女の舞・月下繚乱!」
鈴と、叫びと、仲間の武具が重なる。
闇が音を立てて波打ち、まるで生き物のように形を変え始めた。月読命の冷徹な声が、再び響く。
「無駄だ。お前たちの音は、夜の静寂には勝てぬ」
アメノウズメの頭上で、無数の月のような光が浮遊し始めた。それは月読命の瞳の形をしていた。無数の月が、アメノウズメを冷ややかに見下ろしている。
「ウズメ、避けろ!」猿田彦が叫ぶ。
「避けねえ! 全部、音に変えてやる!」
アメノウズメは避けるどころか、月読の光に向かって舞った。
天高く跳躍する。
空中で逆さまになり、赤い神衣が闇の中で鮮烈な弧を描いた。
チャリン、チャリン、チャリン!
鈴の音が、空中の月をひとつずつ射抜いていく。撃ち抜かれた光が砕け、夜空に星屑のように散った。
「……ほう」
月読命の声に、初めてかすかな驚きが混じる。
「魂を削りながら、まだそれほど踊れるか」
「当たり前だ! 天照を迎えに行くだろ!」
アメノウズメが着地した瞬間、地面から突き出た氷の刃が彼女の太ももをかすめた。鋭い切り傷から、赤い血が滲む。だが、その血さえも闇の中で光り輝いた。
「おい、ウズメ!」
「あたいは大丈夫だ! 須佐、お前の出番だぞ!」
須佐之男が咆哮を上げる。
「ああ、承知した!」
彼は剣を掲げ、全身の闘気を一点に集中させた。剣の青白い光が、アメノウズメの舞と共鳴する。
「天叢雲剣・暴風の型!」
青い嵐が、闇を突き抜けた。
月読の夜が、大きく歪む。
アメノウズメは、その歪みを見逃さなかった。彼女は、月読命がいるはずの場所――闇が最も濃く集まっている中心点へ向かって、最後の舞を繰り出した。
チャリン、ドン!
鈴と足音が、神殿の床を突き抜けるような衝撃となって奔流する。
「これで、お前も夜明けを味わえ!」
アメノウズメの手が、月読の仮面のように見える影を掴んだ。
その指先から、胸元の火種が強烈な白い閃光となって放たれる。
「ぐっ……!」
闇が、砕けた。
高天原の空に、紫色の裂け目が入る。
そこから、本来の空の青が、一筋だけ流れ込んできた。
アメノウズメが着地する。彼女の肩で、白い火種が激しく明滅し、その光を浴びて、月読命の姿が露わになる。
仮面の下の表情は、無。ただ、寂しげな子供のような瞳が、アメノウズメを見つめていた。
「……姉上は、あの光を、お前に託したのか」
「ああ。天照は、全部見てたんだよ。弟が、どれだけ寂しがってたかもな」
アメノウズメは、肩で息をしながら言った。
「寂しいからって、太陽を消していいわけじゃねえ。お前も一緒に、朝を見に来い」
月読命は、何も答えなかった。
ただ、夜の帳が、彼の手から離れて溶けていく。
高天原に、本当の朝の光が、少しだけ戻った。
「……踊り子よ」
月読命は、姿を消しかけながら、静かに告げた。
「高天原の奥、岩戸の前で、姉上が待っている。だが、そこには、あのお方もいるぞ」
「あのお方?」
アメノウズメが聞き返す前に、月読の気配は消え失せた。
代わりに残されたのは、崩れかけた高天原の岩場と、遠くで聞こえる岩戸の軋む音だけだった。
「……あのお方って、誰だ」
アメノウズメが振り返ると、猿田彦が矛を収めていた。
「イザナミの言っていた『何か』か」
「あるいは、もっと厄介な」
須佐之男が剣を納める。
「とにかく、岩戸は近い。行くぞ」
アメノウズメは、胸元の火種を確認した。
それは先ほどよりも、ずっと温かくなっている。
「行こう」
彼女は、高天原の頂点、天岩戸を見上げた。
そこに、すべての真実がある。




