第17話「岩戸の深淵」
天岩戸は、前よりもさらに重く見えた。
高天原の最奥に立つ巨大な岩の扉。その表面には、細かなひびが幾重にも走り、黒い霧がそこから滲んでいる。まるで、岩そのものが息をしているかのようだった。
「……ここまで来たか」
アメノウズメは、胸元の火種を押さえたまま、静かに呟いた。
天照の残り火は、ここに来てから妙にざわついている。近い。確かに近い。だが、ただ近いだけではない。岩戸の向こうにあるものが、火種に呼応しているのだ。
「いやな感じだな」
猿田彦が矛を肩に担ぎ、岩戸を睨む。
「岩が、こっちを見てる気がする」
「その感覚、間違ってないかもな」
須佐之男が低く答えた。
「岩戸の奥から、何かが……いる」
その時、岩戸の前に立っていたオモイカネが、深く息を吐いた。
「待たせたな、アメノウズメ」
「オモイカネ……お前、無事だったのか」
「無事、というほどでもない」
白髪の神は杖をつきながら、岩戸の表面を見上げた。
「高天原の神々は、月読命の闇で大混乱だ。だが、今はそれどころではない。……天照が、目を覚ましかけている」
その言葉に、全員の空気が変わった。
「本当か」
アメノウズメが一歩前へ出る。
「だが、同時に岩戸の封印も揺れている。天照の光が強まりすぎれば、何かを引き寄せる」
「何かって何だよ」
オモイカネは、ひどく苦い顔をした。
「それがまだ、はっきりしない。だが、岩戸の内側にあるのは天照だけではない」
「……やっぱりな」
猿田彦が舌打ちする。
「月読命が言っていた“あのお方”か」
「そうだ」オモイカネがうなずく。「封じられていたものが、天照の光に引き寄せられている。今、岩戸は、内と外の境目が崩れかけている」
アメノウズメは、鈴を握る手に力を込めた。
「なら、開けるしかねえ」
「待て」須佐之男が制した。「力ずくで開ければ、どちらかが壊れる」
「じゃあどうする」
「舞う」
アメノウズメは即答した。
「天照が出てきた時と同じだ。あたいが踊って、向こうの意識をこっちに引っ張る。その隙に、封印の綻びを整える」
「……危険だ」
オモイカネが低く言う。
「危険じゃないことなんて、最初からひとつもなかっただろ」
アメノウズメは笑った。だが、その笑みは今までよりもずっと静かだ。
「ここまで来て、まだ止まるつもりはない」
岩戸の前に、八百万の神々が再び集まり始めていた。月読の闇が完全には消えておらず、みな不安げな面持ちだ。しかし、アメノウズメの姿を見ると、そのざわめきは少しずつ収まっていく。
「アメノウズメ様だ」
「また、あの舞を」
「今度は天照様は戻るのか」
アメノウズメは神々を見渡し、静かに頷いた。
「戻す。だから、みんな、少しだけ力を貸せ」
ざわ、と空気が動いた。
その言葉だけで、神々の顔に少しずつ力が戻る。笑いではない。期待だ。闇を越えた後に残る、ほんの小さな希望。
猿田彦が矛を岩戸の前に突き立てる。
「よし。音を作る」
須佐之男が剣を握る。
「俺は、崩れた封印の周囲を切る」
綿津見は、残った潮の気を集める。
「水の流れで、裂け目を抑える」
オトヒメは、まだ少し青い顔をしながらも前へ出た。
「わたしも、水を支えます」
「いいぞ」アメノウズメは頷いた。
「じゃあ、始める」
鈴が鳴る。
チャリン。
その音は、岩戸の前の空気を切るように鋭く響いた。
アメノウズメは、ゆっくりと踊り始める。
最初の一歩。足元にひびが走る。次の一歩。岩戸の黒い霧がふっと揺れる。火種の光が、それに反応して脈打つ。
チャリン、ドン。チャリン、ドン。
「来るぞ」
猿田彦が低く言う。
岩戸が、わずかに鳴った。
ギィ……。
中から、何かが動いた音だ。
全員が息をのむ。
「天照……」
アメノウズメは、岩戸に向かって舞いながら呼びかけた。
「聞こえてるか。あたいが来たぞ」
岩戸のひびが、さらに深く走る。
「お前、待たせすぎだ」
チャリン、と鈴が鳴るたびに、封印の表面から黒い霧が剥がれ落ちる。だが、同時に、その奥から白い光が漏れ出していた。
光と闇が、同じ場所でせめぎ合っている。
「……まずい」
オモイカネが顔を強張らせる。
「天照の力が強すぎる。封印の中で、何かとぶつかっている」
「何かって、やっぱりあのお方か」
「そうだろうな」
須佐之男が剣を抜き、岩戸の前に立った。
「なら、ぶつかった瞬間に切る」
「待て」アメノウズメが制した。「今はまだだ」
「なぜだ」
「まだ、どっちが敵か分からない」
猿田彦が肩をすくめる。
「お前、そういうとこは妙に慎重だな」
「当たり前だろ。勢いだけでやったら、全部壊れる」
その時だった。
岩戸が、突然、内側から強く震えた。
ゴン――ッ!
地響きのような音。
そして、割れ目の向こうから、声がした。
低く、古く、ひどく懐かしい声。
『……ウズメ』
アメノウズメの背筋が冷たくなる。
「天照……?」
『……来たのか』
声は、確かに天照のものだった。だが、少し違う。眠りから半ば覚めたような、ぼんやりした響きだ。
「来たよ。迎えに来た」
アメノウズメは、鈴を胸元に当てた。
「もう終わりだ。岩戸を開ける」
『……待て』
今度は、別の声が混じった。
深く、低く、岩の底を這うような声。
『開けるな』
岩戸の表面のひびが、一斉に黒く染まる。
「来た!」オモイカネが叫ぶ。
「何だ!」須佐之男が剣を構える。
岩戸の中央に、ゆっくりと目のようなものが浮かび上がった。大きい。あまりに大きい。人の目ではない。黄泉の深淵そのもののような、黒い光を湛えた瞳。
「……あれが」
綿津見が息を呑む。
「封じられていたものか」
岩戸の内側から、その“目”がアメノウズメたちを見下ろした。
そして、笑った。
『ようやく、ここまで来たか』
「誰だ」猿田彦が矛を突き付ける。
『名を問うか。名など、とうに捨てた』
「ふざけるな」
『ふざけてはいない。だが、もし名を与えるなら――そうだな。お前たちの夜明けを喰らい損ねた、残り滓とでも呼べばいい』
アメノウズメは、目を細めた。
「……ヨモツオオカミ、じゃない」
『あれは器にすぎぬ』
その一言で、空気が凍り付く。
「器……?」
『ヨモツオオカミは、私が黄泉に落ちる前に、残していった影だ。天照の体内で膨らんだのは、ほんの始まり』
須佐之男が歯噛みする。
「じゃあ、てめえは何だ」
『天を裂く前の夜だ』
その言葉の瞬間、岩戸の裂け目から黒い霧が噴き出した。だが、それはただの瘴気ではない。形を持ち始めている。人のようで、獣のようで、翼のようでもあるもの。
「来るぞ!」
猿田彦が叫び、神々がざわめく。
アメノウズメは、舞を止めなかった。
むしろ、さらに激しく踏み込む。
「夜だか影だか知らねえが、あたいは踊る」
『踊れ。踊って見せろ。お前の舞が、どこまで私に届くか』
「届かせてやるよ」
鈴が一閃する。
その瞬間、岩戸の外側に、黒い影が飛び出した。
巨大な腕。長い尾。無数の顔が溶け合ったような、歪んだ輪郭。
「くそっ、やっぱり出やがった!」須佐之男が剣を振るう。
アメノウズメは、舞いながら叫んだ。
「猿田、音を上げろ!」
「言われなくても!」
矛が床を打つ。ドン、ドンと重い響きが岩戸の前に走る。
「須佐、斬れ!」
「任せろ!」
青白い剣閃が影を裂く。だが、裂けた端から新しい影が生える。
「再生する!」
「なら、まとめて焼く!」
綿津見が潮を呼び、オトヒメがそれを支え、岩戸の前に細い水の円が浮かんだ。アメノウズメの舞がその中心を回り、白い火種が、少しずつ強くなる。
『……まだ、足りぬ』
岩戸の内側の声が笑う。
『その光では、私を出しきれない』
「なら、出してやるよ」
アメノウズメは、初めて岩戸の前で立ち止まった。
そして、鈴を自分の胸に押し当てる。
火種の熱が、彼女の身体に流れ込む。
「みんな、今だ!」
「何をする気だ!」猿田彦が振り返る。
アメノウズメは、笑った。
「天照を呼ぶ。だけじゃ足りない。あたい自身が、岩戸の闇に入る」
「何だと!?」
「中で、天照と、あいつを、引き剥がす」
「無茶にもほどがある!」
「今さらだろ!」
そう言うと、アメノウズメは、岩戸の裂け目へ飛び込んだ。
一瞬、世界が白く弾けた。
外では、猿田彦の叫びと、須佐之男の咆哮が遠くなる。
岩戸の中は、闇ではなかった。
もっと奥深い、星のない空洞。そこに、縛られた天照の姿があった。だが、その前に立つ影――いや、影そのものが、ひとつの存在として、そこにいた。
『来たか』
アメノウズメは、鈴を構えた。
「来たよ」
影は、ゆっくりと振り向いた。
その顔には、輪郭がない。ただ、見覚えのないほど古い目だけがあった。
『ようこそ、岩戸の深淵へ』
アメノウズメは、息を吸い込む。
「天照を返せ」
『返す? ならば、お前が私を止めてみろ』
その影の背後で、縛られた天照が、かすかに顔を上げた。
『……ウズメ』
「待ってろ、ボス」
アメノウズメは、鈴を握り直し、舞いの姿勢に入る。
岩戸の深淵で、最後の真実が、動き出した。




