第18話「深淵の名」
アメノウズメは、岩戸の深淵の中で立っていた。
目の前には、輪郭のない影がひとつ。だが、影と呼ぶにはあまりに密度が濃い。闇そのものが、人の形を借りてこちらに立っているようだった。
「……お前が、岩戸の中にいた“何か”か」
影は答えない。
ただ、天照が背後でかすかに息をのむ気配がした。
『ウズメ……』
「動くな、ボス。今、助ける」
アメノウズメは鈴を握り直した。胸の奥で灯る火種が、ひどく熱い。ここまで来てなお、まだ消えない。むしろ、影の前に立つことで、いっそう激しく燃え上がっていた。
影が、静かに口を開く。
『助ける、か』
声は低く、だがよく通る。古い。あまりにも古い声だった。
『お前たちは、いつもそう言う。光を奪われれば助ける、闇が広がれば討つ、封じられれば開ける。だが、開けた先に何があるか、誰も見ようとしない』
「見てるさ」
アメノウズメは言った。
「だから、ここに来た」
『……そうか』
影は、わずかに首を傾けたように見えた。
『では、聞こう。お前は、私の名を知りたいか』
「名?」
『深淵には名が要る。名は形を与え、形は縛りとなる。だが、名を失ったものは、何にも縛られぬ』
アメノウズメは、眉をひそめる。
「名乗る気かよ」
『名乗るのではない。思い出させるのだ』
そう言うと、影の背後の闇が、ゆっくりと蠢いた。
岩戸の中は、先ほどまでの空洞ではない。黒い空のような空間の中に、細い光の糸が何本も走っている。その糸は、天照を縛る鎖でもあり、同時に何かを守る結界にも見えた。
『私は、岩戸の深淵に封じられたもの。天照の光を喰らい損ね、黄泉に落ち、名を捨てた』
「ヨモツオオカミじゃないのか」
『あれは、私が落とした牙のひとつだ』
「……は?」
アメノウズメは一瞬、言葉を失った。
影は淡々と続ける。
『お前たちが“ヨモツオオカミ”と呼ぶものは、黄泉に生まれた獣の総称にすぎぬ。だが、その群れを統べ、天と黄泉の境を裂いたものには、かつて別の名があった』
天照が、微かに身じろぎする。
『……その名を、私は封じた』
アメノウズメは、鈴を持つ手に力を込めた。
「じゃあ、今ここで思い出させろよ」
『よかろう』
影が、一歩前へ出た。
その瞬間、岩戸の深淵の空間が震えた。黒い糸のような結界が、ぱつり、と一部切れる。切れた隙間から、古い記憶のような映像が流れ込んできた。
――天がまだ今より低く、地と空の境目があいまいだった時代。
――黄泉が今より広く、神と獣と死者が同じ場所にいた時代。
――その中心に、ひとつの名がある。
「……何だ、これ」
『見るがいい』
映像の中で、影は獣だった。
巨大な黒い獣。けれど、ただの獣ではない。頭は一つではなく、幾つもの顔が重なり、尾は枝のように広がっている。足元には闇が生まれ、目を閉じればそこに夜ができる。
『私は、“クロオオカミ”』
「……くろ、おおかみ」
『名を持つ前の天の闇。名を失う前の黄泉の飢え。お前たちが今、影と呼ぶものの本来の姿だ』
アメノウズメは、息をのんだ。
「黒狼……」
『そうだ』
影――クロオオカミは、低く語る。
『天照は私を恐れたのではない。私を必要とした。光は闇を必要とし、夜は朝を必要とする。だが、天照は私を抱えきれなかった。だから封じた。だから、私を“災厄”にした』
「ふざけんな」
アメノウズメは、即座に言い返した。
「お前の都合のいい理屈だ。必要だって言うなら、なぜ天照を喰おうとした」
『喰らわねば、ひとつになれぬ』
「ひとつって何だよ」
『夜明けだ』
その一言に、岩戸の深淵の空気が重く沈む。
『光と闇は対立ではない。交われば夜明けになる。私はそれを求めた。天照はそれを拒んだ』
「……だから、封じたのか」
『そうだ。拒まれた私は、名を失い、形を失い、岩戸の底で眠るしかなかった』
アメノウズメは、ゆっくりと息を吐いた。
「で、今になって目を覚ましたと」
『お前の舞だ』
クロオオカミは、静かに言った。
『お前の踊りは、境を揺らした。笑いは光を呼び、光は闇を呼ぶ。天照の残り火も、黄泉の鏡も、月読の夜も、すべてがお前を通して震えた。だから私は目を覚ました』
アメノウズメは苦笑した。
「つまり、あたいが悪いってか」
『違う。お前は鍵だ』
「鍵ねえ」
『お前は、扉を開ける踊り子。だが同時に、閉じることもできる。私はそれを知っている』
その言葉の意味を、アメノウズメはすぐに理解できなかった。
だが、背後で天照がかすかに声を漏らす。
『……ウズメ、気をつけて』
「ボス?」
『その影は、ただの災厄ではない。……私の、一部だ』
アメノウズメは振り返った。
「一部?」
天照は、青白い光の中で苦しげに笑った。
『私は、光だけで神になったわけではない。夜を閉じ込め、影を押し込めた。その反動が、あれだ』
クロオオカミが、淡々と続ける。
『そうだ。私は天照の欠けた部分。拒まれた夜。喰らわれぬまま残された闇』
「じゃあ、あんたを倒すってことは」
『天照自身を、さらに裂くことになる』
アメノウズメは、顔をしかめた。
「最悪だな」
『だが、もう遅い』
クロオオカミが前足を踏み出した。
その瞬間、岩戸の深淵に張られた光の糸がいっせいに震える。鎖が、結界が、ぎしぎしと軋む。外にいたはずの猿田彦たちの声も、遠くにひずんで聞こえた。
「まずい、外と繋がるぞ!」
天照が、目を見開く。
『ウズメ、お願い……』
「お願い?」
『私を、ここから引き上げて。でなければ、あれは外へ出る』
アメノウズメは、鈴を構えた。
「最初からそう言えよ」
『言ったら、お前は入ってこなかっただろう』
「そりゃそうだ」
クロオオオカミが低く笑う。
『面白い。お前たちは本当に面白い。ならば試そう。お前の舞が、私を止めるか、天照を殺すか』
「選択肢がひどすぎるだろ」
『神話とは、いつもそういうものだ』
アメノウズメは、その言葉に、少しだけ笑った。
「神話か。なら、あたいは上書きする」
「……何をする気だ」
天照が不安そうに問う。
アメノウズメは、岩戸の深淵で鈴を高く掲げた。
「名前を返してやる」
クロオオオオカミが、わずかに動きを止める。
「名を失ったなら、あたいがつける。あんたは“災厄”じゃない。お前は、夜の神だ」
『……何?』
「天照の片割れで、朝に必要な夜だ。だったら、災厄じゃなくて、役目のある名前がいる」
クロオオオオオカミは、沈黙した。
『私に、名を与えるだと』
「文句あるか」
『……面白い』
アメノウズメは、ゆっくりと舞い始めた。
ただの踊りではない。神の名を呼び戻すための舞だ。鈴は一度だけ鳴り、次に、足音が深淵を叩く。ひび割れた闇に、音が染み込んでいく。
チャリン……ドン。
「夜の神よ」
チャリン……ドン。
「天の光があるなら」
チャリン……ドン。
「闇にも、名前を持て」
その言葉に、クロオオオオカミの輪郭が揺れた。
「……ふざけるな」
『私を、名で縛る気か』
「違う」
アメノウズメは、舞いながら言う。
「縛るんじゃない。帰る場所を作る」
その瞬間、クロオオオオカミの背後から、細い黒い羽のようなものが生えた。闇が、獣の形を取り戻していく。だが、それは先ほどまでの歪んだ災厄ではない。
もっと静かで、もっと深い、夜の獣だった。
『……私に、帰れと』
「そうだ」
『天照のそばに』
「そりゃそうだろ」
アメノウズメは鈴を振り切った。
『夜がなければ朝は来ない。朝がなければ夜は終われない。だったら、両方が並んでなきゃダメだろ』
クロオオオオカミは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く、深く、しかしどこか穏やかな声で問う。
『……では、私の名を、何とする』
アメノウズメは、一拍だけ考えた。
そして、はっきりと答えた。
「ツクヨミの影――いや、違うな。お前はお前だ」
クローではない。影でもない。災厄でもない。
「アマノクロ」
「……」
『天の、黒』
「そう。夜明けの前にいる黒。朝を生むための夜。お前は、あたいらの敵じゃない」
クロオオオオカミ――アマノクロは、目を閉じた。
『……天照』
背後の光の中で、天照がゆっくりと頷く。
『……分かった』
その瞬間、岩戸の深淵を満たしていた黒が、静かに溶け始めた。
しかし、それは消滅ではない。アメノウズメが与えた名に導かれ、闇はひとつの姿を取る。巨大な獣の輪郭は崩れ、代わりに、深い夜色の羽を持つ狼へと姿を変えた。
「おお……」
アメノウズメは息をつく。
「決まったな」
アマノクロは、静かに天照の前へ座った。まるで、長く失われていた席に戻るように。
『私の名を、与えてくれたのか』
「ああ」
『ならば、私も返そう』
「何をだ」
『この深淵の鍵だ』
岩戸の床に、黒い輪がひとつ現れた。それは、裂け目のようでもあり、輪っかのようでもある。見つめていると、奥から風が吹いてくる。
「鍵……?」
『天照を外へ出すには、最後の門を越えねばならぬ。その門は、岩戸の外ではない。お前の内側にある』
アメノウズメが、目を見開いた。
「……あたいの中に?」
『そうだ』
天照が、はっきりとした声で言う。
『ウズメ。岩戸の外に出るだけでは足りない。お前自身が、次の扉になる』
アメノウズメは、しばらく黙っていた。
胸の奥の火種が、静かに脈打っている。
「……なら、やるしかねえな」
彼女は鈴を握り直した。
岩戸の深淵は、まだ終わっていない。
だが、名を与えたことで、闇はただの災厄ではなくなった。
そして、次の扉も、確かに見え始めていた。




