第10話「黄泉の宮」
黄泉の門が、半ばまで開いた。
その奥から吹き出してきたのは、風ではなかった。冷え切った湿気、古い土の匂い、そして、生者のものではない静寂。アメノウズメは鈴を握りしめたまま、その闇を見つめる。
「……来いって言うなら、ほんとに来るぞ」
「来るな、と言っても来るだろうがな」
猿田彦が矛を肩に担ぎ、門の隙間を睨んだ。門は黒い岩でできているように見えるが、近づくほど表面がゆらぎ、まるで水面のように揺れている。触れれば、そのまま別の世界へ滑り落ちそうだった。
綿津見は疲れた顔で一歩下がる。
「ここから先は、黄泉の深部だ。海の力も届きにくい」
「じゃあ、なおさら急ぐしかないな」
須佐之男が腕を鳴らす。さっきまでの酔いはもうない。代わりに、目の奥に荒い火が宿っていた。
オトヒメが不安そうに門を見上げる。
「……本当に、入るんですか」
「入る」アメノウズメは即答した。「入らないと、天照にたどり着けない」
「でも、黄泉は……」
「怖いか?」
アメノウズメが問うと、オトヒメは小さくうなずいた。
「怖いです」
「なら、それでいい」
アメノウズメは笑った。
「怖いまま進め。黄泉はそういう場所だ。怯えてるやつほど、足を止める。止めたら、飲まれる」
オトヒメは唇を噛んだが、やがて真っ直ぐにうなずいた。
「……行きます」
「よし」
アメノウズメは門に向かって歩き出す。
その前に、イザナミが立っていた。
白い衣、長い髪、死者のように静かな顔。だが、目だけは生きている。黄泉の底で何かを見続けてきた者の目だ。
「通るのか」
「通る」アメノウズメは答えた。「天照を救うために」
イザナミはわずかに首を傾けた。
「救う……か」
「何だよ、その顔」
「いや」
イザナミは静かに笑ったように見えた。
「生者は皆、救うと言う。だが黄泉では、救いとは別の名で呼ばれることが多い」
「ふうん。じゃあ、あたいはその別の名でもいい」
「強い言葉だ」
「強くなきゃ、ここには来ない」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだに、黄泉の門の黒い面がさらに揺れた。門の奥で何かがうごめき、鈍い呼吸音が響く。
イザナミはそれを一瞥してから、アメノウズメに向き直った。
「ひとつ忠告しておく。黄泉の奥には、死んだものだけがいるのではない」
「知ってる」
「お前が探しているものも、そこにあるかもしれぬ」
アメノウズメは眉をひそめた。
「天照が?」
イザナミは答えない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「行けば分かる」
その言い方は、答えを避けたというより、答えそのものが危険だと知っているようだった。
猿田彦が前へ出る。
「ウズメ、気をつけろ」
「今さら言うな」
「だが、黄泉の中ではお前の舞も万能ではない」
「分かってるよ」
「分かっているならいい」
須佐之男が肩を鳴らし、続く。
「面白くなってきたな。黄泉の宮とやら、一度見てみたかった」
「お前はほんとに物騒な神だな」
「お前に言われたくない」
アメノウズメは口元をゆるめ、鈴を軽く鳴らした。
チャリン。
澄んだ音が、黄泉の坂に落ちる。
その音に反応したように、門の奥の闇がざわりと揺れた。
「……来る」
イザナミが静かに言った。
次の瞬間、門が開いた。
黒い霧が噴き出し、アメノウズメたちを包み込む。視界が一瞬で奪われる。耳鳴りのような低音だけが残り、足元の感覚が消える。
「っ……!」
アメノウズメは反射的に鈴を振る。
チャリン、チャリン、チャリン!
音が霧を裂く。猿田彦の矛が前方を払う。須佐之男が腕を伸ばし、オトヒメの肩を引き寄せる。
「離れるな!」
「はい!」
綿津見の声が遠くなる。
「門は越えた。だが、ここからは黄泉の流れに従え!」
「流れって何だよ!」
アメノウズメの叫びに、返事はない。
霧が晴れた時、そこにはもう、坂ではなく宮殿があった。
黒い石で組まれた広大な宮。柱は高く、天井は見えない。壁面には、古い神代の文様が掘られているが、その多くは瘴気に侵され、半ば崩れていた。
床には水が浅く溜まり、歩くたびに、ぬちゃりとした音がする。
「……これが黄泉の宮か」
アメノウズメが息を吐く。
「嫌な場所だな」
「ここに長くいると、魂が重くなる」綿津見が後ろで言う。「進むなら早い方がいい」
宮の奥から、低い音がした。
ドン……ドン……。
太鼓のようでもあり、心臓の鼓動のようでもある。
オトヒメが顔を強張らせる。
「何の音……?」
「たぶん、呼ばれてる」
須佐之男が短く言った。
アメノウズメは前へ進む。足元の水が揺れ、黒い影が壁を這う。よく見ると、それは人の影ではない。犬にも蛇にも見える黄泉の番獣だ。だが、今は動かない。ただ、壁に貼りついたまま、こちらを観察している。
「見られてるな」
「見えてるってことだろ」猿田彦が答える。
宮の中央に、広間があった。
そこには、巨大な祭壇のようなものが置かれていた。石を積み上げた台の上に、幾つもの器、鏡、剣の痕跡、そして、乾いた花のような何かが並んでいる。
「黄泉の祭壇……」
イザナミが、その前に立っていた。
「来たか」
「待ってたのか」
「そうだ」
イザナミは一歩だけ振り向く。
「お前たちに、ひとつ見せるものがある」
そう言うと、彼女は手を掲げた。
祭壇の奥の空間が、黒い水面のようにゆらめく。そこに映ったのは、天照ではなかった。
白い光の塊。
だが、それは生きているのか、閉じ込められているのか判別できない。輪郭だけがあり、その中心に細い人影が見える。
アメノウズメの息が止まる。
「……天照?」
「違う」イザナミは静かに答えた。「だが、近い」
「何だそれ」
「黄泉に落ちたものは、すぐには完全に死なぬ。光を失ったものは、ここで形を変える」
「形を変える……」
「お前が探しているのは、封じられた天照かもしれない。だが、黄泉にあるそれは、天照の“残り火”だ」
アメノウズメは顔を上げた。
「残り火だろうが何だろうが、あたいはそれを取り戻す」
イザナミは、アメノウズメをじっと見た。
「取り戻す、か」
「そうだ」
「だが、それを取り戻せば、ここにいる別のものが目を覚ます」
「別のもの?」
その問いに、イザナミは答えない。
代わりに、広間の床が、かすかに震えた。
ドン……。
ドン……。
今度は、もっと近い。
「来るぞ!」
猿田彦が矛を構える。
床の水が割れ、黒い手が何本も飛び出してきた。黄泉の番獣ではない。もっと古く、もっと重い、土地そのものに染みついた瘴気の手だ。
「ひとまず守れ!」
須佐之男が叫ぶ。
黒い手がオトヒメに伸びる。猿田彦が矛で払い、須佐之男が拳で砕く。だが、砕いたそばから別の手が伸びる。
「きりがない!」
「なら、きりをつける!」
アメノウズメが前へ跳ぶ。
「天鈴、鳴れ!」
チャリン――!
鈴の音が広間に響き、黒い手が一瞬止まる。
その一瞬を見逃さず、アメノウズメは舞い始めた。
黄泉の宮で舞うには、あまりにも鮮やかすぎる。だが、その鮮やかさこそが必要だった。死の空気を揺らし、停滞を壊し、眠っているものを目覚めさせる。
「見てろ、イザナミ」
アメノウズメは踊りながら、祭壇を指した。
「黄泉がどれだけ深くても、光は奪えない」
イザナミの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「……そうか」
「何が“そうか”だよ」
「お前は、光を持っている」
「当然だろ。天照の前で踊った女だぞ」
その言葉に、黄泉の宮の空気が変わった。
広間の奥、黒い水面がゆっくりと揺れ、そこに再び白い光が浮かぶ。今度ははっきりと、ひとつの人影が見えた。
天照のような、だが少し違う。
「……やっぱり、いる」
アメノウズメは目を細めた。
「天照の残り火ってやつか」
イザナミはうなずく。
「それを見つけてどうする」
「連れ帰る」
「できると思うか」
「やってみなきゃ分かんねえ」
祭壇の奥から、再び低い音がした。
今度は、太鼓ではない。
誰かが、笑っている音だった。
くつくつと、喉の奥から漏れるような笑い。
アメノウズメは身を固くした。
「……何だ」
イザナミが目を閉じる。
「目覚めたか」
「誰がだ」
「お前がここへ来たせいで、眠っていたものが」
その言葉が終わる前に、広間の奥の影が揺れた。
黒い水面の下から、何か巨大なものが、ゆっくりと持ち上がってくる。
輪郭だけで、まだ全体は見えない。だが、ただ一つわかることがある。
それは、黄泉の宮にいるべき存在ではない。
そして、アメノウズメは本能的に理解した。
――これは、天照の残り火ではない。
もっと別の、もっと危険な何かだ。
猿田彦が低く呟く。
「来るぞ」
アメノウズメは鈴を握り直した。
「なら、迎え撃つだけだ」
黄泉の宮の奥で、影がさらに持ち上がる。




