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天鈿女命は踊って天を裂く 神謡記  作者: はまゆう


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第11話「黄泉の獣」

黒い水面の下から、影が持ち上がった。


初めは、水そのものが膨らんだように見えた。


やがて黒い雫を滴らせながら、異形の頭が現れる。


獣だった。


だが、この世のどの獣にも似ていない。


犬を思わせる長い胴。蛇のようにうねる首筋。骨ばった四肢には濡れた黒毛がびっしりと生え、その間から、人の腕とも見えるものが幾本も重なって伸びている。


口の裂け目は、耳の下まで続いていた。


「黄泉の番獣……!」


綿津見が息を呑んだ。


「いや、違う」


イザナミが低く言った。


「これは門の番ではない。もっと古いものだ」


「古い?」


イザナミは答えなかった。


ただ、獣を見つめている。


異形はゆっくりと前脚を宮の床へかけた。


ぬちゃり、と音がする。


黒い水が床を這い、幾重もの波紋となって広がった。


二つの目が開く。


赤い。


けれど、そこには怒りも飢えもなかった。


ただ、空虚だった。


何かを憎んでいるのではない。


何かを求めているのでもない。


命じられることだけを待っている――そんな目だった。


「……操られてるな」


猿田彦が矛を構えた。


「誰かに、というより……この黄泉そのものに」


「その通りだ」


イザナミが静かに言った。


「黄泉は死者の国であると同時に、失われたものが流れ着く場所でもある。消えぬ怨み。断ち切れぬ未練。帰るところをなくした思い。それらが積もり、絡まり、長い時を経て形を得ることがある」


「それが、こいつか」


須佐之男が拳を握る。


獣の喉が鳴った。


低い唸りだった。


だが、アメノウズメには一瞬、それが幾人もの声を重ねた呻きのように聞こえた。


彼女は獣を睨んだ。


「なら、まず動きを止める」


「どうやってだ」


須佐之男が問う。


アメノウズメは手の中の鈴を掲げた。


「踊りは目を奪う。音は耳を奪う」


一歩、前へ出る。


「こいつの中にいくつの思いが詰まってようが、身体はひとつだ。動きを乱せば隙はできる」


猿田彦が横目で彼女を見る。


「そんなにうまくいくか」


アメノウズメは口の端を上げた。


「うまくいかせる」


そして、獣の真正面へ出た。


巨大だった。


肩の高さだけで、人の背丈を超えている。


それでもアメノウズメは退かなかった。


鈴を軽く鳴らす。


チャリン。


澄んだ音が、死者の宮には不釣り合いなほど鮮やかに響いた。


「おい、黄泉の犬」


赤い目が動く。


「あたいと踊るか」


返事はない。


代わりに、獣の喉から低い音が漏れた。


ぐるるるる……。


次の瞬間、巨体が跳んだ。


「来い!」


アメノウズメは身体をひねった。


巨大な爪が、ほんのわずかな差で脇を通り過ぎる。


床が裂けた。


黒い水が高く跳ねる。


獣は着地と同時に身を翻した。


速い。


巨体からは想像できない。


二撃目。


アメノウズメは逃げなかった。


逆に一歩踏み込む。


裸足が床を打つ。


ドン。


同時に鈴を振った。


チャリン。


獣の赤い目が、ほんの一瞬だけ鈴へ吸い寄せられた。


「猿田!」


言われるより早く、猿田彦が動いていた。


矛が獣の肩を打つ。


鈍い音が響いた。


「硬い!」


穂先がわずかに食い込んだだけだった。


「刺さらないなら殴れ!」


須佐之男が横から飛び込んだ。


拳が獣の横腹を捉える。


轟音。


巨体が大きく揺らいだ。


「ぐるるるる……!」


「効いてる!」


アメノウズメが叫んだ。


そして、再び足を踏む。


ドン。


鈴。


チャリン。


ドン。


チャリン。


アメノウズメは獣の周囲を回り始めた。


ただ逃げているのではない。


踏む。


鳴らす。


身体をひねる。


跳ぶ。


足を落とす。


黄泉の静寂の中へ、生きている者の律動を叩き込んでいく。


チャリン。


ドン。


チャリン。


ドン。


獣の目が彼女を追う。


右。


左。


再び右。


いくつもの思念を無理やり一つの身体に押し込めた異形には、その動きについていくことができない。


次第に四肢の動きが乱れ始めた。


「いいぞ、そのまま!」


オトヒメが叫ぶ。


アメノウズメは笑った。


「ほら、こっちだ!」


わざと大きく肩を振る。


鈴を高く掲げる。


「捕まえてみろ!」


獣が吠えた。


初めて、その声に怒りのようなものが混じった。


巨体が突進してくる。


「よし、乗った!」


アメノウズメは低く身を沈めた。


獣の頭が迫る。


ぎりぎりまで引きつける。


そして――跳んだ。


巨体が足元を抜ける。


その瞬間、アメノウズメは獣の背へ着地した。


「ウズメ!」


猿田彦が叫ぶ。


「平気だ!」


獣が激しく身体を振る。


アメノウズメは黒毛を掴むどころか、その背でさらに足を踏んだ。


ドン。


鈴を鳴らす。


チャリン。


「来い、来い、来い!」


まるで獣そのものを舞へ引き込もうとするように。


獣がのたうった。


身体を床へ叩きつけようとする。


「下りろ!」


須佐之男が叫ぶ。


「まだだ!」


アメノウズメは背を滑り、獣の首元まで移った。


両脚でその太い首を挟む。


そして鈴を真上へ掲げた。


「天鈴よ――響け!」


チャリン――!


ひときわ澄んだ音が黄泉の宮を貫いた。


獣の巨体が大きくのけぞる。


「今だ!」


猿田彦の矛が走った。


先ほど傷つけた場所へ、今度は深く穂先が入る。


黒い霧が噴き出した。


「須佐!」


「分かってる!」


須佐之男の拳が叩き込まれる。


獣の身体が軋んだ。


裂けた黒毛の奥で、何かが光った。


ほんの一瞬だった。


「待て!」


アメノウズメが叫ぶ。


黒い霧の奥。


獣の腹のさらに深いところに、細い光が見えた。


「何かある!」


獣が苦しげに身をよじった。


次の瞬間、床を満たしていた黒い水が動いた。


渦を巻きながら獣へ吸い寄せられていく。


裂けた傷を、黒い水が覆う。


「傷が塞がるぞ!」


猿田彦が矛を引き抜いた。


「黄泉から生まれたものは、黄泉の気を吸う」


イザナミが言った。


「ここにいる限り、何度でも形を取り戻す」


「じゃあ、どうすりゃいい!」


アメノウズメが叫ぶ。


「その身体を保っているものを断て」


「どこだよ!」


「お前はもう見たはずだ」


アメノウズメは息を呑んだ。


さっきの光。


だが――。


「違う」


彼女は獣を見つめた。


あれは、この獣を形作るものではない。


もっと別の何かだ。


黒い霧の向こうから感じる。


古い。


重い。


それでいて、奇妙なほど温かい。


「……何だ、これ」


綿津見の表情が変わった。


「まさか……」


「何だ?」


「封じられていたのか」


「何がだよ」


綿津見は獣を凝視していた。


「黄泉の獣を形作るものではない。別のものだ」


その声が震える。


「あの獣は、何かを取り込んでいる!」


言葉と同時に、獣の身体が激しく震えた。


腹の裂け目から、白い光が漏れ出した。


暗い黄泉の宮を、ほんの一瞬だけ照らす。


アメノウズメの目が見開かれた。


「……あれは」


須佐之男の顔から血の気が引いた。


「姉上……」


全員が彼を見る。


須佐之男は光を見つめていた。


「天照の気配がする」


沈黙が落ちた。


アメノウズメにも分かった。


天照そのものではない。


もっと弱い。


遠い。


けれど確かに、あの光と同じ温もりを宿している。


燃え尽きようとする火の、最後のひとひらのように。


「これが……」


アメノウズメはゆっくり言った。


「黄泉の宮にあるって言ってた、“近いもの”か」


イザナミは答えなかった。


その表情だけが、硬くなっている。


アメノウズメは彼女を見た。


「お前、知ってたな」


しばらくして、イザナミが目を伏せる。


「……知っていた」


「だったら、なんで黙ってた」


「黙っていたのではない」


「同じだろ」


「まだ言う時ではなかった」


アメノウズメの眉が吊り上がる。


「今だろ」


「今でも早い」


「何だよ、それ」


言い返そうとした、その時。


獣が苦しげに吠えた。


白い光が脈打つ。


一度。


二度。


そのたびに黄泉の宮全体が震えた。


床を覆う水に、幾重もの波紋が走る。


「ウズメ」


猿田彦が低く言った。


「あの中に、何かいる」


「ああ」


「どうする」


答えは決まっていた。


「助ける」


「何なのかも分からないぞ」


「分からないから助けるんだ」


アメノウズメは鈴を握り直した。


「それに、天照につながってるなら、ここで置いていくわけにはいかない」


須佐之男が鼻で笑った。


「お前らしいな」


「うるせえ」


アメノウズメは周囲を見た。


「猿田。頭を押さえてくれ」


「ああ」


「須佐。あたいが開いたところを叩け」


「任せろ」


「綿津見。あの黒い水を止められるか」


綿津見は水面を見る。


「長くは無理だ」


「一瞬でいい」


「やってみよう」


「オトヒメ」


「はい!」


「光が出たら、逃がすな」


オトヒメが頷いた。


「分かりました」


「よし」


アメノウズメは息を吸った。


「行くぞ!」


綿津見が両腕を広げる。


ざわめいていた黒い水が止まった。


まるで時間そのものを封じられたように。


オトヒメが手をかざす。


細い水の輪が生まれ、獣の腹を囲んだ。


猿田彦が飛び込む。


矛の柄を獣の首へ押しつけ、その巨体を床へねじ伏せる。


「今だ!」


アメノウズメが走った。


一歩。


二歩。


跳ぶ。


鈴を振り上げる。


「天鈴――響け!」


チャリン――!


澄み切った音が、黒い霧を貫いた。


獣の身体が硬直する。


同時に、須佐之男の拳が腹へ叩き込まれた。


黒い膜が裂ける。


「開け!」


猿田彦が矛を差し込み、裂け目を押し広げる。


その奥から――


白い光が飛び出した。


「っ!」


アメノウズメは反射的に手を伸ばした。


光は天照ではなかった。


小さな火種のようなもの。


消えかけている。


それでも確かに、神の気配を宿している。


光は宙を漂った。


一度揺れた。


そして、まるで彼女を選んだかのように、アメノウズメの胸元へ飛んできた。


「うっ……!」


熱い。


胸の奥まで、一瞬で熱が走った。


同時に、腕の黒い紋様が疼く。


「これは……」


イザナミの目が鋭くなった。


「……見つけたか」


アメノウズメが振り返る。


「何をだ」


「鍵だ」


「鍵?」


イザナミが答えるより早く――


ドン……。


宮の奥で音がした。


全員が黙る。


ドン……。


もう一度。


ドン……ドン……。


ひとつではない。


複数の足音。


ゆっくりと。


しかし確実に。


こちらへ近づいてくる。


綿津見の顔色が変わった。


「まずい……」


「何だ?」


猿田彦が矛を構え直す。


「門の奥が反応している」


ドン……。


「何が来る」


イザナミは、アメノウズメの胸に宿った光を見つめていた。


「……黄泉の番神たちだ」


「番神?」


「その光を取り出したことで、眠っていた門の守りが目を覚ました」


アメノウズメは眉を寄せる。


「それって、まずいのか?」


イザナミが彼女を見る。


「非常に」


その言葉が落ちた瞬間――


広間の奥の闇が割れた。


影が現れる。


ひとつ。


ふたつ。


三つ。


さらにその後ろにも。


人に似た身体。


だが、顔がない。


目は胸の中央にひとつだけ。


異様に長い腕には、黒い鎖が幾重にも巻きついている。


名を持たぬ、黄泉の門の守り。


番神たち。


その一体が前へ出た。


胸の目が開く。


低い声が宮を震わせた。


「……何者だ」


アメノウズメは鈴を握った。


「黄泉の光を持ち出す者は、何者だ」


一歩、前へ出る。


「アメノウズメ」


番神の目が彼女を捉えた。


「天照を助けに来た」


「黄泉のものを奪うか」


アメノウズメは真っ直ぐに見返した。


「違う」


鈴を構える。


「奪うんじゃない」


猿田彦が隣へ立った。


須佐之男も拳を握る。


綿津見とオトヒメが身構える。


アメノウズメは言った。


「取り戻すんだ」


番神たちは沈黙した。


ほんの一瞬。


そして――


すべての影が一斉に動いた。


「来るぞ!」


猿田彦が叫ぶ。


鎖が闇を裂いた。


アメノウズメの鈴が鳴る。


黄泉の宮で、第二の戦いが始まった。


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