第9話「黄泉の入り口」
海底の底を抜けた先は、さらに深い闇だった。
アメノウズメは、鈴を握りしめたまま足を踏み出す。
足元には岩でも砂でもない、硬くも柔らかくもない、どこか生温い土が広がっていた。湿った空気が肌にまとわりつき、潮の匂いはもうしない。代わりに、古い土と腐葉土、そして死に沈んだ水の匂いがした。
「……ここが、黄泉か」
猿田彦の声は低かった。
「まだ入り口だ」綿津見が後ろから答える。「この先が、黄泉津比良坂へ繋がる」
海底の裂け目をくぐったあと、四人は細い石段のようなものを上がっていた。だがそれは、もはや本当に石段だったのかどうか分からない。石に見えるが、触れると少しだけ湿り、表面に細かな泡の跡が残る。
「気味が悪いな」
須佐之男が腕を組み、周囲を見回した。
周囲には黒い木々が立っている。枝は骨のように細く、葉は一枚もない。ところどころに白い紙片のようなものが引っかかっているが、よく見るとそれは紙ではなく、乾いて薄くなった何かの皮だった。
オトヒメが小さく息をのむ。
「……さっきまで海の底にいたのに」
「黄泉は、海とも陸とも違う」綿津見が静かに言う。「境目の国だ。生者が踏み入れば、魂が削られる」
「なら、早く済ませるしかないな」
アメノウズメは前へ出た。
黒い木々の間を抜けると、そこに道が現れた。細く、長く、斜面になっている。黄泉津比良坂。黄泉への入り口だ。
だが、ただの坂ではない。
坂の両脇には、石が積まれ、無数の札のようなものが縛りつけられている。札の表面には読めない文字が刻まれていたが、それが何かを封じていることだけは分かった。
「封印の札か」猿田彦が言う。
「昔からのものだろうな」須佐之男が答える。「だが、今は別の力が混じってる」
その通りだった。
札の隙間から、黒い霧がにじみ出ていた。細い糸のような瘴気が、坂を這い、地面を伝って、こちらへ近づいてくる。
「来るぞ」
猿田彦が矛を構えた。
最初に現れたのは、影だった。
人の形をしているが、顔はぼやけ、足元は地面に溶けている。生きているのか死んでいるのか分からないそれが、十体、二十体と坂の上から降りてくる。
「黄泉の番兵か?」
「違う」綿津見が目を細めた。「あれは、死者の残り影だ。黄泉に落ちた魂の一部が、瘴気に引きずられて形を失っている」
「つまり、半端な亡者ってことか」
「そうだ」
アメノウズメは鈴を鳴らした。
チャリン、と澄んだ音が坂に響く。
影たちが、一斉に止まった。
「効くのか」
「完全にはな」アメノウズメが言う。「でも、揺れる。揺れれば崩れる」
そのまま、アメノウズメは足を踏み出した。
坂の中央に立つと、ゆっくりと舞い始める。
黄泉の入り口で舞うには、あまりにも明るすぎる動きだった。鈴の音、太鼓を打つような足音、腕のしなり。生者の気をまとったその舞は、坂を這う瘴気を押し返していく。
「おお……」
オトヒメが思わず声を漏らす。
「見てろ」アメノウズメは振り向かずに言った。「ここを通るんだ。なら、まず道を開く」
亡者の影たちが、アメノウズメに向かって伸びる。
猿田彦が矛で払う。須佐之男が前へ出て、二体まとめて蹴り飛ばす。だが、影は倒れても散らない。地面に伏せ、霧となってまた立ち上がる。
「しぶといな」
「黄泉のものはしぶとい」綿津見が苦しげに言う。「倒すより、散らす方が早い」
「なら、散らす」
アメノウズメの舞が速くなる。
足を高く上げ、腰を切り、腕を開く。鈴が連続して鳴り、坂全体が音に包まれる。
影たちの輪郭が、少しずつ薄くなる。
「今だ」猿田彦が言う。
矛がひと閃き、霧の核を裂いた。
ひとつ、またひとつ。影は散り、黒い札の隙間から漏れていた瘴気も弱まっていく。
だが、坂の上から、新たな気配が降りてきた。
「まだ来る……!」
オトヒメが叫ぶ。
そこにいたのは、影ではなかった。
白い髪を垂らし、長い衣をまとった女の姿。顔の半分は見えないが、ただ立っているだけで周囲の温度が下がる。
「イザナミ……」
須佐之男が、かすれた声を出した。
女は何も言わない。ただ、黄泉津比良坂の上から、こちらを見下ろしていた。
「……来たか」
その声は、柔らかいのに、底が冷たい。
綿津見が一歩下がる。
「黄泉の神……」
「イザナミ……」アメノウズメは目を細めた。「あんたが、ここにいるのか」
イザナミは少しだけ首を傾けた。
「お前たちが来るのを、待っていた」
「待ってた?」
「黄泉の門は、ひとりでは開かぬ。誰かが外から来ねばならない」
「だったら、最初から出迎えてくれよ」
「出迎える必要はない。ここに来る者は、皆、覚悟を持って来る」
イザナミの声は静かだったが、その静けさの下に、巨大な圧がある。
アメノウズメは鈴を握ったまま、まっすぐに見返した。
「じゃあ、あたいらの覚悟を見ろ」
イザナミは、わずかに笑ったように見えた。
「いいだろう」
その瞬間、黄泉津比良坂の札が一斉に揺れた。
「来るぞ!」猿田彦が叫ぶ。
イザナミの背後から、黒い影が幾重にも現れる。今度は亡者ではない。明確な形を持った獣、鳥、そして人のような何かが混ざった、黄泉の番犬たちだった。
「黄泉の番獣か!」
須佐之男が舌打ちする。
「イザナミの使いだ」
「なら、話し合いは無理そうだな」
アメノウズメは、ふっと息を吐いた。
「いい。踊って倒す」
イザナミは動かない。
だが、その視線だけがアメノウズメを捉えていた。
「踊りで黄泉を越えるか」
「越えるんじゃない」
アメノウズメは一歩踏み出す。
「開かせるんだ」
そして、再び舞った。
今度の舞は、海底の底で見せたものとは違う。黄泉に踏み込むための舞だ。足取りは鋭く、しかし軽やかで、まるで地面の上を踏まない。鈴の音は細く高く、亡者の影をまとめて揺さぶる。
番獣が飛びかかる。
猿田彦が矛で受け止め、須佐之男が一匹を殴り飛ばす。だが、二匹目、三匹目が続けざまに襲う。
「数が多い!」
「なら、崩せ!」
アメノウズメは舞いながら、イザナミを真正面から見据えた。
「黄泉の神よ。天照の光を奪うなら、あたいが奪い返す!」
イザナミの目が、かすかに揺れた。
「……天照の名を口にするか」
「当たり前だ」
「なら、お前は知るべきだ。黄泉は、奪うだけではない」
「何?」
イザナミの声は、坂に沈むように静かだった。
「ここでは、失ったものも、戻らぬものも、皆ひとつになる」
その言葉と同時に、イザナミの背後の黒い霧がうごめいた。
そこに、天照の光に似た淡い輝きが、一瞬だけ見えた気がした。
アメノウズメは息をのむ。
「……天照?」
「違う」イザナミは答えた。「だが、近いものだ」
その意味を理解する前に、イザナミが手を上げた。
坂の札が一斉に引きちぎられ、黄泉の門の気配がさらに強まる。
「まずい!」綿津見が叫ぶ。「門が開く!」
アメノウズメは鈴を強く鳴らした。
「なら、開く前に止める!」
坂を駆け上がる。踊りながら、飛びながら、亡者を払いのける。イザナミの前にたどり着くまで、あと少し。
猿田彦が叫んだ。
「ウズメ、前!」
アメノウズメは反射で身をかがめる。
番獣の爪が頭上をかすめた。次の瞬間、須佐之男が番獣の胴を蹴り上げ、猿田彦の矛がその核を貫く。
「今だ!」
アメノウズメはイザナミの前に跳んだ。
「黄泉の神! あたいは通る!」
イザナミは初めて、真正面から彼女を見た。
「通るなら、代償を払え」
「何のだ」
「ひとつ、答えよ。お前はなぜ、天照を救う」
アメノウズメは、息を止めた。
一瞬だけ、坂の上の風が止まる。
そして、アメノウズメは答えた。
「救うのに、理由なんかいるかよ」
イザナミの瞳が、わずかに見開かれる。
「……そうか」
その一瞬の隙を、猿田彦は見逃さなかった。
矛が閃く。
イザナミの脇をすり抜け、黄泉の門の札をひとつ突き破る。
綿津見が続けて潮の流れを呼び込み、オトヒメが水の柱を立てる。黄泉津比良坂の空気が大きく揺れた。
「開くぞ!」須佐之男が叫ぶ。
坂の先、黄泉の奥から、黒い扉のようなものが、ゆっくりと姿を現した。
イザナミがその扉を見て、静かに言う。
「……まだ、来るな」
その声には、ほんの少しだけ、焦りがあった。
アメノウズメは鈴を握り直した。
「来るさ」
そして、黄泉の門が、半ばまで開いた。




