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天鈿女命は踊って天を裂く 神謡記  作者: はまゆう


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第8話 「海底の底」

裂け目の奥から、赤い目がこちらを見た。

その瞬間、海底の温度が一気に下がった。

「……あんな目は、黄泉にしかいない」

綿津見が、震える声で呟いた。


アメノウズメは一歩、前へ出る。

「ヨモツオオカミ。黄泉の災厄神だ」


猿田彦が矛を構えた。

「ウズメ、戻れ」

「待ってろ」

「危険だ」

「逃げたら、天照にも届かなくなる」


アメノウズメは、鈴を高く掲げたまま、裂け目の縁をさらに踏み込んでいく。


足元の水は、既に黒く濁っていた。瘴気の胞子が、細かな泡のように浮かび、アメノウズメの足を絡めていく。

「引っかかってんじゃねえよ」

身をよじり、アメノウズメは黒い泡を吹き飛ばした。


その瞬間、裂け目の奥から、大きな音がした。

「ゴゴ……」

それは、海水の底で何かが笑う音でも、嘆く音でもあった。

「ほう……」

赤い目が、さらに近づく。


「八百万の神々を、ここまで連れてきたのか。いい度胸だ」

声が、直接頭に響く。


アメノウズメは眉をひそめた。

「この声……あたいたちのこと、既に知ってたのか」


「知らぬはずがあるか。お前の舞いは、天の岩戸の闇まで届いた。天照の体内から、俺にも届いた」

「天照の中に、お前がいたのか……」

「当たり前だ。お前が岩戸を揺らしたとき、俺は伸びて回復した。そして、お前たちがここへ向かうことを、俺は感じていた」

「じゃあ、あたいらの目的を筒抜けってわけだ」

「その通りだ、踊り子の姫。だが、無駄だ」

「危ない危ない」


アメノウズメは、笑った。

「じゃあ、あたいらの目的を筒抜けってわけだ」

猿田彦が矛で、アメノウズメの前に立った。

「勝手に会話するな」

「アメノウズメ……」

オトヒメが叫んだ。「危ない、戻ってください!」


「待ってろ、オトヒメ。あたいが、この黒いのを抑えつけてやる」


ヨモツオオカミは、ゆっくりと口を開いた。

「アメノウズメ。お前の舞いは、面白い」

「褒め言葉に聞こえるね」

「だが、無駄だ」

その声に、海底の霧が震える。裂け目から吐き出される瘴気が、津波のように押し寄せた。

「ウズメ!」


猿田彦が矛を回して、アメノウズメを押し戻す。

その勢いで、アメノウズメの足が滑り、海底に転がった。

「ちくしょう……」

「まだ動けるか」猿田彦が問う。

「当然だ。腰が痛いだけだよ」

そう言いながら、アメノウズメは鈴を握り直す。


裂け目の奥からの瘴気が、網のように広がる。珊瑚の柱が折れ、海底の岩が崩れる。綿津見の宮殿の潮路が、がたがたと揺れ出した。


「オトヒメ、動け!」綿津見が叫ぶ。

「はい、父上……」

オトヒメは、手を前に突き出し、水を動かす。海水が彼女の指先を滑り、ざわ、と立ち上がる。b

「潮を外側へ流す……!」


忽然と、裂け目の奥の空間が、一瞬、変わった。

瘴気の膜が裂け、海底の底から、何層にも重なった岩盤がはっきりと見えた。その奥に、赤い目が、さらに奥にいることに気づいた。

「あれは……」

「黄泉の入り口か」


須佐之男が、怒りを込めた声で呟いた。

「黄泉と、海をつなぐ穴だと?」

「昔からの伝説だ」綿津見が答える。「海底に小さな穴。黄泉の門の、鏡のようなものだ」

「それを、ヨモツオオカミが広げた」


猿田彦が、矛を握りしめた。

「ふん、面白いな」

アメノウズメが、ゆっくりと立ち上がる。

「なら、ここからじゃあたいらの舞を届けてやる」


ヨモツオオカミが、低く笑った。

「俺は、舞いを待っているわけではない。お前が来てくれたなら、その体を、内側に引き込むだけで十分だ」


赤い目が、アメノウズメを貫くように見つめた。

アメノウズメは、その視線を返す。

「そういうの、どうもね」

そして、舞い始めた。

最初は、足元を重く踏みしめるように。鈴の音は静かで、水の響きを拾っている。次第に、その音が鋭さを帯び、アメノウズメは腕を広げ、腰を大きく揺らした。

チャリン、ドン。チャリン、ドン。

「この音は、お前たちの耳にも聞こえるか?」アメノウズメは、ヨモツオオカミに向かって叫んだ。

「聞こえるさ。だが、効かぬ」

「なら、もっと響かせる」

アメノウズメは、海底の岩盤に鈴を叩きつけた。

「天照に、聞かせてやる!」

そこに、裂け目の奥に、天照の顔が、かすかに浮かんだように見えた。すぐに霧に隠れてしまうが、アメノウズメは確かに、苦しげな顔を捕らえた。

「天照、聞こえてるか! あたいが、お前を救いに来たぞ!」

ヨモツオオカミが、怒りを込めて咆哮した。

「黙れ!」


黒い霧が、アメノウズメに向けて渦巻く。その勢いは、津波を凌ぐほどだった。

「今だ、止める!」

猿田彦が矛を振るい、須佐之男が拳を振り上げた。綿津見は海の力を呼び寄せ、オトヒメは水を掻いて、瘴気の波を押し戻す。

しかし、その波は、アメノウズメの前にまで押し寄せる。

「あたいが、引き受ける!」

アメノウズメは、両手を広げた。

「天鈴よ、舞いの音を届け!」

チャリン――!

鈴の音が、海底の底から天まで届くような、鋭い響きを放つ。


その瞬間、ヨモツオオカミの赤い目が、わずかに震える。

「く……!」

「痛いなら、逃げろ!」

「逃げるような、災厄ではない」

ヨモツオオカミは、笑った。

「だが、お前も、ここに来るしかない。お前の体は、すでに『内側』に半分入っている。天照の体内にあるのと、同じだ」


アメノウズメは、腕の黒い紋様を見て目を細めた。

「あたいが、お前たちの世界に、入り込んでいる……」

「だから、ここで閉じ込められれば、お前も、黄泉に落ちる。永遠に、闇の中で、俺と踊り続ける」

その言葉に、アメノウズメは、笑った。

「そこまで、つまらない相手じゃねえだろ」

そう言いながら、アメノウズメは、さらに踏み込んだ。

海底の亀裂に、片足片手をかけ、体のバランスを取る。

「アメノウズメ!」

「待て、ウズメ!」

「止めるな!」

猿田彦の叫び、須佐之男の怒り、綿津見の呆然、オトヒメの悲鳴。

すべてが、アメノウズメには、遠い世界の音に聞こえた。


「天照……」

アメノウズメは、心の中で呟く。

「あたいが、お前に届ける」

そして、全身で、ヨモツオオカミに向かって舞った。

アメノウズメの舞いは、今度は、ただの挑発ではない。天照に、ヨモツオオカミに、黄泉に、力を届けるために、全てをぶつける舞いだった。


足は、潜水する鳥の翼のように、水を切り、翼のように広がる。腕は、鎖を断ち切る刃のように、空気を切り、音を刻む。鈴は、鼓のよう、両の真ん中に、鋭い音を響かせる。

チャリン、チャリン、チャリン、ドン、ドン、ドン。

その音が、海底の底から黄泉の門へと、そして、天の岩戸の中まで届く。


ヨモツオオカミが、一瞬、後ろに引く。赤い目が、震えた。

「……お前……」

「あたいは、ここを引き剥がす!」

アメノウズメは、鈴を振り下ろした。

海底に、巨大な波が生まれる。水が、一瞬、宙に浮く。その中にアメノウズメの姿が、鈴を手に、宙を舞っている。

その瞬間、ヨモツオオカミの体が、黒い霧の膜が、裂けた。

「ぐあああああっ!」

黄泉の闇から、悲鳴が響く。

海底の亀裂が、わずかに、裂ける。ヨモツオオカミの体が、一瞬、外側に抜け出して、そのまま、散った。


「……消えた?」

「まだ、完全には」

猿田彦が、眼を細めた。

海底の底には、いくつかの黒い点が、まだ残っている。ヨモツオオカミの体が、完全に消えたわけではない。

「核が、まだ奥に残っている」

「なら、追いかけて潰す」

アメノウズメは、跳ね返る水の流れを借りて、体を掲げた。

「アメノウズメ、待て!」

「止めるな、あたいは、ここを通す!」

そう言って、アメノウズメは、海底の亀裂の中へ、踏み込んだ。

海の底が、深く、深く、深く、深く、続いていく。

その奥で、黄泉の門が、じっと、待っている。


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