第22話「名なき父神」
裂け目の奥から、原初の闇が流れ出した。
それは、ヨモツオオカミの瘴気とも、アマノクロの夜とも違う。もっと古く、もっと深い。神々が名を持つ前、世界が分かれる前、光と闇がまだひとつだった頃の、混沌そのものだった。
『我が子らよ』
声が、神代の輪のすべてに響く。
『なぜ、分かれた』
天照が、震える声で答える。
『……父上』
『私は、お前たちを分けるために生んだのではない。ひとつにさせるために生んだ』
「父上?」
アメノウズメが天照を見た。
「イザナギじゃないのか」
『違う』
天照は、静かに首を振った。
『イザナギは、私を産んだ神。だが、その前に……世界を形作った、最初の闇がいる』
「それが、あいつか」
『そうだ』
ナキメが、仮面の奥で息をのんだ。
「……父神。私は、あなたの顔を覚えていない」
『覚えていなくてよい』
父神の声は、冷たくも温かくもない。ただ、事実を語るように響く。
『お前たちは、私が分けた。光と闇を、昼と夜を、生と死を。だが、分かれたものは、やがて争う。争えば、疲れる。疲れたら、戻ればいい』
「戻るって、全部ひとつにってことか」
月読命が、銀扇を構えた。
「それは、消えることと同じだ」
『消えるのではない。戻るのだ』
父神の闇が、さらに広がる。
神代の輪が、ゆっくりと歪み始めた。
輪の外側から、猿田彦たちの声が聞こえる。
「ウズメ!」
猿田彦の叫びが、内なる扉を震わせる。
「中の様子はどうだ!」
「まだ、生きてる!」
アメノウズメは叫び返した。
「だが、まずい奴が出てきた!」
「誰だ!」
「神の、父!」
「……は?」
須佐之男の声が呆気にとられていた。
「神にも、親がいるのか!」
「いるらしい!」
アメノウズメは、父神の闇を睨んだ。
「で、あんたは、全部を元に戻したいんだな」
『そうだ』
「理由は」
『疲れたから』
その答えに、アメノウズメは黙った。
「……疲れた?」
『光は、闇を照らし続ける。闇は、光を隠し続ける。生は、死を恐れる。死は、生を妬む。それが、永遠に続く』
父神の闇が、ゆっくりと脈打つ。
『私は、それを終わらせたい』
「終わらせて、どうする」
『眠る』
「……は?」
アメノウズメは、思わず聞き返した。
「眠るために、全部をひとつにする?」
『そうだ』
「ふざけんな!」
アメノウズメは、鈴を高く掲げた。
「あんたが眠りたいからって、世界中の神々を消す気か!」
『消すのではない。眠らせるのだ』
「同じことだろ!」
『違う』
父神の声が、初めて感情を帯びた。
『お前たちは、争いに疲れている。光は闇を恐れ、闇は光を憎む。だが、ひとつになれば、争う必要はない。疲れることもない』
「疲れるからって、逃げるな!」
アメノウズメは、父神の闇へ踏み込んだ。
「疲れたら、休めばいい! でも、また起きろ! また戦え! また笑え!」
『……笑う』
「そうだ!」
アメノウズメは、鈴を鳴らした。
チャリン。
「笑いが、疲れた奴を起こす!」
『お前の笑いでは、私を起こせぬ』
「起こしてやる!」
アメノウズメは、父神の懐へ飛び込んだ。
闇が、彼女の身体を包む。
冷たい。
重い。
だが、胸の火種が、まだ燃えている。
「ボス!」
『ウズメ!』
天照が叫ぶ。
「ナキメ!」
『……何だ』
「あんたも、手を貸せ!」
「私が?」
「そうだ! あんたも、疲れてたんだろ!」
ナキメは、仮面の奥で息を呑んだ。
「……そうだ。疲れていた」
「なら、分かるだろ! 休むことと、諦めることは違う!」
ナキメは、しばらく黙っていた。
やがて、仮面を外した。
その下には、長い黒髪と、泣き腫らしたような赤い目を持つ、美しい女がいた。
「……私は、ナキメ。泣く女」
ナキメは、父神の闇へ手を伸ばした。
「あなたの娘だ」
父神の闇が、わずかに揺れた。
『……ナキメ』
「覚えていてくれたのか」
『覚えていた』
「なら、話を聞け」
ナキメは、父神の闇の中心へ歩いた。
「私は、あなたに封じられた。名を奪われ、顔を奪われ、仮面になった」
『……』
「でも、天照が私を許した。アメノウズメが、私の名を呼んだ」
ナキメは、アメノウズメを見た。
「彼女は、私を敵だと言った。でも、敵だからって、全部ぶっ壊すんじゃなく、話を聞くと言った」
父神の闇が、さらに揺れる。
「あんたも、話を聞け」
ナキメは、父神の胸に手を当てた。
「疲れたって、いい。でも、眠る前に、娘の声を聞け」
父神は、長い沈黙のあと、答えた。
『……聞こう』
ナキメは、深く息を吸った。
「私は、泣くのが好きだ。悲しい時に泣く。嬉しい時にも泣く。泣けば、疲れた心が、少し軽くなる」
『……』
「でも、泣いたあと、また起きる。また、笑う。それが、私の生き方だ」
父神の闇が、ゆっくりと薄くなる。
『……お前たちは、強い』
「強くない」
アメノウズメが、父神の闇から抜け出した。
「ただ、諦めたくないだけだ」
父神は、アメノウズメとナキメを、交互に見た。
『……分かった』
父神の闇が、ゆっくりと収束する。
『私は、眠らない。だが、お前たちに、ひとつの試練を与えよう』
「試練?」
『神代の輪を、完全に戻せ』
父神は、神代の輪を指した。
『光と闇が、まだ完全には重ならない。お前たちが、それを成せれば、私はお前たちを認める』
「認めるって、何だ」
『父として』
その言葉に、天照が目を見開いた。
『父上……』
『私は、お前たちを分けた。だが、分けたものを、お前たちが繋ぐ。それが、お前たちの役目だ』
父神の闇が、完全に消えた。
代わりに、神代の輪の中心に、小さな光が生まれた。
それは、朝の光でも、夜の闇でもない。
夜明けの、薄紫色の光だった。
「……これが、夜明けか」
アメノウズメは、その光に触れた。
温かい。
だが、冷たい部分もある。
「両方、あるんだな」
『そうだ』
天照が、アメノウズメの隣に立った。
『光と闇が、重なった場所』
ナキメが、その光を見つめた。
「……美しい」
「だろう」
アメノウズメは、鈴を鳴らした。
チャリン。
その音が、夜明けの光に溶けた。
神代の輪が、ゆっくりと回り始める。
外側から、猿田彦たちの声が聞こえる。
「ウズメ!」
「無事か!」
「生きてる!」
アメノウズメは、内なる扉へ向かった。
「帰ろう」
『ええ』
天照が、静かに頷いた。
ナキメも、仮面を拾って顔を覆った。
「……私も、行く」
「どこへ」
「あなたが、行く場所へ」
ナキメは、アメノウズメを見た。
「私は、まだ名前を思い出していない。でも、思い出せる気がする」
「そうか」
アメノウズメは、ナキメの肩を叩いた。
「なら、一緒に探そう」
「……ありがとう」
三人は、内なる扉をくぐった。
その先には、岩戸の外が広がっていた。
高天原の空は、薄紫色に染まっていた。
夜明けだ。
猿田彦が、アメノウズメを抱きしめた。
「無事か」
「生きてる」
須佐之男が、剣を収めた。
「で、父神ってのは、どうなった」
「眠らないって言った」
月読命が、銀扇を振った。
「だが、試練を残した」
「試練?」
「神代の輪を、完全に戻せと」
天照が、高天原の空を見上げた。
『……夜明けを、永遠に』
アメノウズメは、鈴を鳴らした。
チャリン。
その音が、高天原に広がった。
神々が、集まってくる。
八百万の神々が、夜明けの光に包まれて、静かに笑った。
「……終わったのか」
猿田彦が、アメノウズメを見た。
「いや」
アメノウズメは、夜明けの空を見上げた。
「始まったばかりだ」
その空の向こうに、父神の影が、一瞬だけ見えた。
『……我が子らよ。夜明けを、守れ』
アメノウズメは、鈴を握り直した。
「守るさ」
「みんなで」




