第21話「白面の神」
白い仮面の女が、神代の輪の向こうに立っていた。
翼のように広がった白い衣。その裾には、月の満ち欠けを思わせる銀の文様が浮かんでいる。顔を覆う仮面には、目も鼻もない。ただ、額の中央に細い亀裂が走り、そこから淡い光が漏れていた。
「お前が、天照の封じた神か」
アメノウズメは鈴を構えた。
「名を聞く前に、ボスから離れろ」
白面の女は、ゆっくりと首を傾けた。
「天照を、ボスと呼ぶのか」
「悪いかよ」
「いや。ずいぶんと近しい呼び方だ」
「近いんだよ」
「ならば、なおさら返してもらおう」
白面の女が右手を上げた。
神代の輪が、急激に回転する。
光と闇が渦となって押し寄せ、アメノウズメの身体を内なる扉の外へ弾き出そうとした。
「うわっ!」
足元が消える。
アメノウズメは鈴を振り、音の反発で身体を支えた。だが、輪の回転は止まらない。
『ウズメ!』
天照が叫ぶ。
「ボス、まだ鎖は切れてねえのか!」
『あと、三本……!』
「なら、切る!」
アメノウズメは、輪の中心へ踏み込んだ。
だが、その前に白面の女が立ちはだかる。
「あなたには、できない」
「何がだ」
「天照を外へ出すことも。私を止めることも。まして、すべてを救うことなど」
「ずいぶん決めつけるじゃねえか」
「私は、あなたより長く、この世界を見てきた」
白面の女の声は、冷たくもあり、どこか悲しげでもあった。
「光と闇は、決して並んでは歩けない。いずれどちらかが、もう一方を喰らう」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
「ならば、試してみるといい」
白面の女が指を鳴らした。
パチン。
その音を合図に、神代の輪から無数の白い仮面が浮かび上がった。
どの仮面にも、顔はない。
だが、すべてがアメノウズメの方を向いている。
「仮面が、増えた……」
『あれは、かつて封じた神々の面』
天照が苦しげに言った。
『彼女は、神々の名と顔を奪い、仮面に閉じ込めている』
「何でそんなことを」
『私が、彼女を封じるために』
「またかよ!」
アメノウズメは叫んだ。
「また天照ひとりで、全部抱えたのか!」
『……』
「だから、こんなに敵が増えてんだろ!」
白面の女は、静かに笑った。
「そうだ。天照は私を封じ、私の神名を奪った。名を失った私は、仮面の神となった」
「何て名だったんだ」
「もう、覚えていない」
白面の女は、自分の仮面に触れた。
「天照が私から奪ったものは、名だけではない。顔も、声も、帰る場所も。だから私は、神々の顔を集めた」
「それで、世界中の神をひとつにしようとしたのか」
「違う」
白面の女の声が、初めて揺れた。
「誰かに奪われる前に、私が奪うためだ」
その言葉と同時に、白い仮面が一斉に襲いかかってきた。
アメノウズメは鈴を鳴らす。
チャリン!
仮面の群れが弾かれる。
だが、すぐに別の仮面が横から飛び込んできた。アメノウズメは身をひねって避け、足元を踏み鳴らす。
ドン!
衝撃が輪の表面を走り、仮面をいくつか砕いた。
「効いた!」
しかし、砕けた仮面の奥から、黒い影が伸びてくる。影はアメノウズメの腕に絡みつき、彼女の身体を縛った。
「くっ……!」
影は、黄泉の瘴気に似ていた。
だが、もっと冷たい。触れた部分から、記憶が抜き取られていく。
最初に消えたのは、海原の宮殿だった。
綿津見の声。
オトヒメの笑顔。
須佐之男が剣を抜く姿。
猿田彦が矛を地面に突き立てる音。
「やめろ!」
アメノウズメは必死に鈴を振った。
だが、音が弱い。
胸元の火種も、白い影に吸い取られている。
「アメノウズメ!」
猿田彦の声が、遠くから聞こえた。
「聞こえてるか!」
「猿田……!」
「俺たちの名を呼べ!」
「何だって?」
「忘れる前に、呼べ!」
アメノウズメは、歯を食いしばった。
記憶が剥がれていく。
怖い。
忘れたくない。
だから、叫ぶ。
「猿田彦!」
影が、一瞬だけ揺れた。
「須佐之男!」
白い仮面がひとつ、砕ける。
「綿津見! オトヒメ!」
胸の火種が、再び明るくなる。
仲間の名前が、音になる。
音が、記憶になる。
記憶が、力になる。
白面の女が、わずかにたじろいだ。
「名を呼んで、何になる」
「決まってるだろ」
アメノウズメは、黒い影に縛られながらも笑った。
「忘れないためだ!」
鈴を、影に叩きつける。
チャリン――!
影が大きく揺らぎ、アメノウズメの腕から剥がれ落ちた。
彼女はその勢いで一回転し、白面の女の前まで跳ぶ。
「そして、あたいは、あんたの名も呼ぶ」
「……何を」
「名前がねえなら、探せばいい。失ったなら、取り戻せばいい」
「私の名を、あなたが探すと?」
「そうだよ」
「私を敵だと思わないのか」
アメノウズメは、一瞬だけ黙った。
白面の女の仮面には、顔がない。
けれど、その奥には、怒りと悲しみと、長い孤独がある。
「敵だよ」
アメノウズメは言った。
「でも、敵だからって、全部ぶっ壊していいわけじゃねえ」
白面の女の指が震えた。
「……甘い」
「よく言われる」
「あなたは、私を止められない」
「なら、止めるまで踊る」
アメノウズメは、白面の女の懐へ踏み込んだ。
「天鈿女の舞――面返し!」
鈴の音が、白い仮面に直撃した。
仮面の表面に、細かなひびが走る。
白面の女は、初めて大きく身を引いた。
「やめろ!」
「その仮面、返してもらう!」
「これは私の顔だ!」
「違う!」
アメノウズメは、さらに鈴を振った。
「顔を隠して、奪われたものを奪い返して、それで自分になったつもりか!」
白面の女の仮面が、激しく震える。
「あなたに、何が分かる!」
「分かるかよ!」
アメノウズメは叫んだ。
「あたいだって、怖かった! 天照がいなくなって、自分が何者かも分からなくなった! でも、だからって仲間の顔を奪おうとは思わなかった!」
白面の女は、仮面の奥で息をのんだ。
「……仲間」
その言葉を聞いた瞬間、神代の輪がさらに大きく揺れた。
輪の外側から、月読命の声が響く。
「ウズメ、急げ! 輪が崩れる!」
「まだ、ボスが残ってる!」
アメノウズメは天照を振り返った。
縛っている光の鎖は、あと三本。
だが、白面の女が再び手を上げる。
「天照は、出させない」
「いいや、出す」
アメノウズメは白面の女へ向き直った。
「名前を返せ。そうしたら、あたいが天照に話をさせる」
「……取引か」
「話し合いだ」
白面の女は、しばらく黙っていた。
やがて、仮面の中央に走った亀裂が、さらに深くなる。
「私の名を、あなたが見つけられると?」
「見つける」
「どこにある」
アメノウズメは、白面の女の胸元を指した。
「あんたの中にあるだろ」
「……」
「奪われたって思ってるから、見えなくなってるだけだ。名前は、誰かに預けたって消えねえ」
白面の女の手が、ゆっくりと下がった。
それに合わせて、白い仮面たちも動きを止める。
「私の名は……」
白面の女は、初めて自分の胸に手を当てた。
「……ナキメ」
小さな声だった。
だが、その名が神代の輪に響いた瞬間、すべての仮面が震えた。
「ナキメ……」
アメノウズメは、その名を繰り返す。
「いい名前じゃねえか」
「……覚えていたのか」
「今、聞いた」
「それだけで、信じるのか」
「名前を返したんだ。次は、話を聞く番だろ」
ナキメの仮面に、ひびが走った。
その奥から、初めて目が覗く。
泣き腫らしたような、赤い目だった。
「……天照」
ナキメが呼ぶ。
天照は、ゆっくりと顔を上げた。
『ナキメ。あなたを封じたのは、私』
「なぜ、謝らなかった」
『怖かったから』
その答えに、ナキメは黙り込む。
『あなたの力を恐れた。あなたが光を奪うと思った。だから、名を封じ、顔を封じ、存在そのものを封じた』
「……なら、私を恨め」
『恨まれて当然だと思っている』
「それで終わりか」
『終わらせたくない』
天照の鎖が、わずかに光る。
『だから、外へ出たい。あなたにも、外へ出てほしい』
ナキメの目から、一滴の光が落ちた。
その光は、涙のように神代の輪を流れ、砕けた仮面をひとつずつ修復していく。
アメノウズメは、その光景を見て、静かに鈴を鳴らした。
チャリン。
最後の三本の鎖が、ゆっくりと切れた。
天照が立ち上がる。
だが、その瞬間、神代の輪の中心に、巨大な裂け目が開いた。
そこから、これまでとは比較にならないほど濃い闇が噴き出す。
月読命が叫んだ。
「まずい! ナキメの名が戻ったことで、封印の本体が目を覚ました!」
「本体?」
天照の表情が凍る。
『……まだ、いたの』
「何がだ!」
『私たちが、三柱の貴子になる前から存在したもの』
裂け目の奥から、巨大な瞳が開いた。
『天照、月読、須佐之男。三つに分かれた神々の、さらに外側にいるもの』
ナキメが、震える声で言う。
「……父神の、忘れた顔」
アメノウズメは鈴を握りしめた。
「父神って……イザナギか?」
天照が答える。
『違う。イザナギよりも前。神々が名を持つ前の、最初の闇』
裂け目の奥から、声が響いた。
『我が子らよ。ようやく、ひとつに戻る時が来た』
アメノウズメは、天照の隣に立つ。
その反対側には、ナキメが立った。
そして外から、猿田彦、須佐之男、月読命の力が、神代の輪へ流れ込む。
「ボス」
『ええ』
「帰るぞ」
天照は、静かに頷いた。
『一緒に帰りましょう』
アメノウズメは鈴を構えた。
第2部の最初の敵が、ついに姿を現す。
神々が名を持つ前の、原初の闇。
その名はまだ、誰にも呼ばれていない。




