第20話「神代の輪」
『――待っていた』
影の声が、神代の輪の中心から響いた。
アメノウズメは、鈴を握ったまま立ち尽くしていた。
内なる扉の向こうには、星の海が広がっている。天と地、光と闇、生と死。そのすべてが、巨大な輪となって回っていた。
輪の中心にいる影は、人の形をしていた。
だが、顔はない。
白い光と黒い闇が幾重にも絡み合い、ひとつの身体を形作っている。右半身は天照に似た光を帯び、左半身はアマノクロに似た夜の色をまとっていた。
「お前が、神代の輪の中心か」
アメノウズメが問う。
影は答えず、ゆっくりと両手を広げた。
その瞬間、周囲の星が一斉に砕けた。
砕けた光は、雨のように降り注ぐ。アメノウズメは腕で顔をかばい、鈴を振った。
チャリン!
音の壁が生まれ、光の破片を弾き返す。
「ウズメ!」
天照の声が背後から響いた。
「それは、神代の輪の核。世界が分かれる前の、ひとつの力よ」
「世界が分かれる前?」
「天も地も、光も闇も、生も死も、まだ別れていなかった頃。あの輪は、すべてをひとつに戻そうとしている」
アメノウズメは、影を睨んだ。
「ひとつに戻して、どうする」
『争いがなくなる』
影が初めて答えた。
『光は闇を嫌い、闇は光を妬む。生者は死者を恐れ、死者は生者を羨む。ならば、すべてを混ぜればよい。誰も失わず、誰も孤独にならぬ』
「……それで、全部が消えるんだろ」
『消えるのではない。ひとつになるのだ』
「同じことだよ」
アメノウズメは鈴を握り直した。
『お前は、天照を救いたい。ならば私とひとつになれ。天照も、アマノクロも、月読も、黄泉も、すべてをひとつにすればいい』
「断る」
あまりにも早い返事だった。
影が、わずかに揺れる。
『なぜだ』
「違うものがいるから、面白いんだろ」
アメノウズメは一歩前へ出た。
「光があるから闇が見える。闇があるから光が分かる。天照とアマノクロが別々だから、朝と夜が生まれる。みんな一緒に混ぜちまったら、踊る相手もいなくなる」
『孤独を恐れぬのか』
「怖いさ」
アメノウズメは、胸の火種に手を当てた。
「だから、仲間を作った」
その言葉に応えるように、遠くから音が聞こえた。
ドン。
猿田彦の矛が岩戸を打つ音。
ドン、ドン。
須佐之男の剣が、結界を叩く音。
ざあっ、と潮の流れる音。綿津見とオトヒメが、外から水の力を送っている。
そして、かすかな神々の声。
「ウズメ!」
猿田彦の叫びが、内なる扉を震わせた。
「聞こえてるか!」
「聞こえてる!」
アメノウズメは叫び返した。
「まだ、あたいは踊れる!」
猿田彦の声に、安堵が混じる。
「なら、踊れ! こちらで道を開く!」
『愚かな』
影が、輪の中心から黒い腕を伸ばした。
『外の者と内の者。分かれているからこそ、失うのだ』
黒い腕がアメノウズメに迫る。
彼女は身をひねって避け、鈴を振った。だが、腕は音の壁をすり抜け、肩を強く打ちつけた。
「ぐっ!」
身体が吹き飛び、星の海を転がる。
「ウズメ!」
天照の声が響く。
アメノウズメは、空中で身体をひねり、どうにか着地した。足元には地面がない。それでも、見えない床を踏むように立っている。
「痛えな……」
『その程度では、世界を変えられぬ』
「世界を変える気はねえよ」
アメノウズメは立ち上がった。
「世界を、戻すんだ」
「何に戻す?」影が問う。
「笑える世界にだ」
アメノウズメは鈴を高く掲げる。
「天照が岩戸に隠れたとき、神々はどうした? 考えて、歌って、笑って、踊った。誰かを引きずり出すためじゃない。暗闇の中でも、まだ生きてるって確かめるためだ」
影は黙っている。
「光だけじゃ、誰も笑えない。闇だけでも、誰も笑えない。だから、あたいは両方連れて帰る!」
アメノウズメは、舞い始めた。
最初の一歩は静かだった。
足音が、神代の輪に触れる。
ドン。
輪の回転が、わずかに遅くなった。
二歩目。
チャリン。
光の粒が、鈴の音に集まる。
三歩目。
ドン。
黒い闇が、足元から立ち上がる。
アメノウズメは、光と闇の中心で舞っていた。
天照の火種を胸に、アマノクロから受け取った夜を背に、黄泉の代償を足元に、猿田彦たちの音を耳に。
すべてが、ひとつに溶けるのではない。
それぞれのまま、重なっていく。
『やめろ』
影が初めて、明確な拒絶を示した。
『その舞は、輪を乱す』
「乱すんじゃねえ」
アメノウズメは腰を大きく回し、鈴を鳴らした。
「回してるんだよ!」
舞が速くなる。
チャリン、ドン。
チャリン、ドン。
外の音が重なる。
ドン、ドン、ドン!
猿田彦が矛で地面を打ち、須佐之男が剣で岩戸を叩く。
神々の声が重なり、ひとつの祭りになる。
それは、かつて天岩戸の前で行われた祭りと同じだった。
神々は笑い、歌い、舞う。
その笑い声が、内なる扉を越え、天照のもとへ届く。
『ウズメ……』
天照が、涙のような光をこぼした。
『あの時と、同じね』
「同じじゃねえよ」
アメノウズメは笑った。
「あの時は、あんたを出すために踊った。今は、あんたと一緒に帰るために踊ってる」
天照の身体を縛っていた光の鎖が、一本、切れた。
パキン、と澄んだ音がする。
「あと少し!」
アメノウズメは、さらに激しく舞った。
影が吠える。
『お前が輪を壊せば、世界の境も壊れる!』
「壊さねえ!」
『ならば、何をする!』
アメノウズメは、輪の中心へ飛び込んだ。
そこには、光と闇が渦巻く一点がある。触れれば、魂まで飲み込まれそうな場所だった。
彼女は、そこへ鈴を突き立てた。
「新しく回す!」
鈴の音が、神代の輪を貫いた。
チャリン――――!
輪が止まる。
世界が、息を止めた。
そして、今までとは反対方向へ、ゆっくりと回り始めた。
光が光だけでなくなり、闇が闇だけでなくなる。天照の光がアマノクロの夜を照らし、アマノクロの夜が天照の光を包む。
ふたつは混ざらず、しかし離れもしない。
その間に、細い道が生まれた。
「これが……」
天照が呟く。
『夜明け……』
「そうだよ」
アメノウズメは、鈴を握ったまま笑った。
「朝と夜の間にある、一番ぶっ飛んだ時間だ」
影の身体に、ひびが走る。
『私は……ひとつにならぬのか』
「ならない」
『孤独なままか』
「違う」
アメノウズメは、影に手を差し出した。
「隣にいろ。ひとつになるんじゃなくて、並んで歩け」
影は、差し出された手を見つめた。
長い沈黙のあと、黒い指が伸びる。
だが、その指が触れる寸前、神代の輪の外側から、別の音が響いた。
――カン。
月読命の銀扇が、何かを打った音だった。
輪の外に、白い裂け目が生まれる。
「月読……?」
その裂け目から、月読命の姿が現れた。
ただし、彼の顔に余裕はない。
「ウズメ、手を引け!」
「何でだよ!」
「その影は、まだすべてを捨ててはいない!」
月読命の背後から、無数の黒い糸が伸びていた。
それは影に絡みつき、輪の中心へ引き戻そうとしている。
影が苦しげに身をよじる。
『……違う。これは私の意志ではない』
「なら、何だ!」
月読命が答える。
「外から来たものだ。岩戸の深淵を利用して、神代の輪を奪おうとしている者がいる!」
アメノウズメは、目を見開いた。
「外からって、誰だよ」
月読命は、輪のさらに向こうを見た。
そこに、ひとつの白い仮面が浮かんでいた。
仮面の奥から、女の声が響く。
『ようやく見つけた。天照の片割れ。そして、扉を開く踊り子』
天照が息をのむ。
『……その声は』
「知ってるのか、ボス!」
天照は震える声で答えた。
『かつて、私が最初に岩戸へ封じた神……』
白い仮面の女が、ゆっくりと笑う。
『名を返してもらいに来たぞ、天照』
神代の輪が、再び激しく回り始めた。
アメノウズメは鈴を握りしめ、天照の前に立つ。
「誰だか知らねえけど」
彼女は、白い仮面を睨んだ。
「あたいのボスに、これ以上近づくな」
仮面の女の背後で、巨大な翼が開く。
その翼が一振りされ、内なる扉の向こうに、まばゆい光が満ちた。




