26話 姉の祈り、私の誓い (後編)
私は、何も言わなかった。
今の彼に必要なのは、気の利いた慰めでも、誰かの代わりを務める言葉でもないだろうから。
私はただ、震える彼の身体をより強く抱きしめ、祈るようにその頭を優しく撫で続けた。
彼の頬を伝う涙が私の胸元を濡らし、剥き出しになった彼の痛みが、鼓動を通じて私にまで伝わってくる。
ふと、リヴィアス邸の庭園に咲いていた花を思い出した。
風に吹かれ、寄り添うように並んで咲いていた赤と白のアネモネ。
かつての私は、その刹那の接吻を見せつける花々に、自分と彼を重ねては頬を熱くし、憧れを抱くだけだった。
けれど今、私の腕の中にいる彼は、あの時夢見た「無敵の英雄」ではない。
理不尽な運命に放り込まれ、孤独に震える、一人の傷ついた青年だ。
(……ああ、そう。私は、こうして寄り添いたかったのだわ)
ただ並んで揺れるだけではなく、彼の凍えた心が温まるまで、ずっと。
庭先のアネモネが風の中で支え合うように、私もまた、彼をこの世界に繋ぎ止める大地になりたかった。
(お姉様……あなたが彼に授けた『武器』は、確かに彼を救いましたわ)
彼がお姉様の知恵を頼りに、いくつもの戦いを生き抜いてきたことが、私にはよくわかった。
だって、私は、ずっと彼を見続けてきたから。
(ですが……お姉様。あなたが教えられなかったことが、一つだけありますわ)
私は、胸に押し当てられた彼の頭を、壊れ物を扱うような手つきで包み込む。
(それは、戦い終えた彼が、安心して泣ける場所の作り方。心の傷を塞ぐ方法は、あなたが遺した教科書には載っていなかったのでしょう?)
お姉様がお授けになったのはきっと、生き抜くための鋭い剣だ。
ならば、私は彼に、剣を置いて眠れる「寝台」を差し出そう。
(今度は私が、私なりの愛で包んでみせます)
彼女が彼の「過去」と「生存」を支えたのなら、私は彼の「今」と「安らぎ」になりたい。
一人の女として、彼という男の隣で、意味のある力になりたい。
「……タクミ様。もう、大丈夫です。私が、ここにいますわ。あなたの隣に、ずっと」
私の唇から漏れた微かな囁きは、彼の嗚咽に混じって消えていった。
けれど、それで良かった。
激しく波打っていた彼の背中が、私の手のひらの下で、次第に穏やかなリズムを取り戻していく。
やがて、彼は私の胸の中で、疲れ果てたように小さな寝息を立て始めた。
私は、彼が目覚めるまでその背中をさすり続ける。
こんなにも嬉しいことが、誇らしいことがあるだろうか。
§§§
床には、結局使われることのなかった香油の瓶が転がり、部屋中を甘く清涼な香りで満たしていた。
それはかつての彼が知る家庭の匂いではないかもしれない。けれど、これから彼が歩む道のりに常に寄り添う、新しい記憶の香り。
私は彼の額に、慈しみを込めてそっと口づけを落とす。
「おやすみなさいませ、私の英雄……そして、私の大切な、泣き虫さん」
私は私だけの言葉で、私だけのやり方で、あのアネモネのように寄り添い、この男を愛したい。
明日にはまた、彼は最強の剣闘士として過酷な戦場へと戻っていくだろう。けれど、もう彼は、独りで戦っているわけではない。
その胸には故郷の姉が遺した「最強の武器」を。
そしてその隣には彼を癒やし、共に歩むと決めた私がいるのだから。
愛する男を胸に抱いた私を、月が静かに見守っていた。
毎週、月・水・金の週3回17時30分投稿。
次回は7月17日(金曜)です。
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