25話 姉の祈り、私の誓い (前編)
アステリオスとの試合が終わり、狂乱の渦に包まれた観覧席を後にする。
私、パルテナス大使パティアは、逸る足取りで薄暗い医務室への廊下を突き進んでいた。
手元には、差し入れに用意した特製のパルテナス秘伝・癒やしの香油がある。
「パティア様、ヘリオン様は全身にお怪我をされています。この香油を塗り込んで差し上げれば、痛みもすぐに引きましょう……
殿方の肌に直接触れる絶好の機会ですわよ。お怪我を案じる清らかなお心で、丁寧に塗り広げて差し上げるのです」
出発前、筆頭側仕えのドルシラが、私の恋路を応援するように囁いた言葉が耳を離れない。
そのおかげで私の頭の中では現在、バラ色の『理想の事後シチュエーション』が展開されていた。
『ああ、パティア……君の指先は魔法のようだ。このまま離したくない……』
『まあ、ヘリオン様! まずは治療が先ですわ。さあ、じっとして……そんな、私の手を握って……どこを見つめていらっしゃるの?』
「ふふ……ふふふふふ……っ!」
廊下を歩きながら、思わず頬が緩むのを止められない。
恥ずかしさのあまり耳まで赤くなっている自覚はある。私はたまらず、香油の瓶を載せた盆を掲げて顔を隠した。
(落ち着きなさいパティア! あなたは才女、そして彼の後援者でもあるのよ! もし、香油を塗る手が震えて、そのままヘリオン様の逞しいお体に抱きついてしまったら……?
ええ、傷ついた英雄を支えるのは大使としての崇高な義務……それもやむを得ませんわね!)
そんな不謹慎極まりない妄想を爆発させながら、私は「ここが運命の分岐点よ!」とばかりに、勢いよく医務室の扉を開け放った。
「ヘリオン様! 勝利のお祝いに香油を―――」
だが、私の威勢のいい声は、そこで凍りついた。
そこに広がっていたのは、桃色の妄想など入り込む余地のない、重苦しい静寂だった。
「……ヘリオン、様?」
§§§
部屋の隅。寝台の端に腰を下ろした彼は、闘技場で見た姿、そのままだった。
全身が砂と返り血に汚れ、切れた皮膚からはじわりと脂汗が滲んでいる。だがそれ以上に私を戦慄させたのは、彼の「背中」だ。
いつもは不落の城壁のようにそびえ立っていたその背中が、今は驚くほど小さく、頼りなく丸められていた。
「パ……ティア、か」
振り向いた彼の顔を見て、私は息を呑む。
そこには、魔獣さえも恐れぬ不敵な笑みを浮かべる最強の剣闘士はいない。
すべてを使い果たし、魂の糸が一本、また一本と引きちぎられていくのを耐え続けている――傷ついた一人の男の姿。
「お身体を拝見しますわ。ヘリオン様、まずはその……」
「……全部、あいつの、言った通りだった」
私の言葉を遮り、彼は虚空を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「重心の移動。遠心力による加速……全部、教わった通りだったよ」
彼は自嘲気味に笑った。その笑いは、勝利を喜ぶものではなく、何かに追い詰められているような、怯えた響きを孕んでいた。
「ヘリオン様、何を仰っているのですか? あなたはあの化け物を打ち倒した英雄ですわ。その知恵は……」
「違うんだ……俺じゃない」
彼は首を横に振った。そして、私が今まで一度も聞いたことがない、奇妙な、けれどどこか温かく響く異国の言葉を漏らした。
「『マーヤ』……姉ちゃんが、言ってたんだ」
――ネエチャン。
聞いたこともない、けれどどこか温かみのある響きを持つ言葉。
その言葉が彼の口から出た瞬間、医務室の空気が変わった。ヘリオンという仮面の下に隠れた、一人の青年の肩が、激しく震え始めた。
「……タクミ。……おい、バカドウト……しっかりしなさい。あんた、また計算を間違えたわね……」
彼は、自分ではない「誰か」の声をなぞるように、うわ言を繰り返した。
厳しい、けれど深い愛情を感じさせる女性の声色。
それを真似る彼の口から漏れる「タクミ」という響き。
(……タクミ。それが、あなたの本当の名前なのですね)
帝国に捕らえられ「ヘリオン」という名を与えられる前に、その女性に呼ばれていた真実の名。
彼が口にする「姉」や「この世界にはもういない」という言葉から、私は、彼が故郷を滅ぼされ、家族と死に別れて一人この帝国に流れ着いたのだと直感した。
私には想像もつかない遠い場所。彼にとっては、もう二度と戻れない「異界」のような故郷。そこを想って、彼は今、崩れようとしている。
「……っ、そんな風に……また、叱ってくれよ……姉ちゃん……っ!」
ドサリ、と音がした。
彼が寝台から床に崩れ落ち、膝をついた。
私は咄嗟に彼に駆け寄る。
盆を放り出し、香油の瓶が転がるのも構わずに。
「ヘリオン様! ……タクミ、様?」
思わず、彼が夢現に口にした「真実の名」を呼んでしまった。
「姉ちゃん……っ、俺……生きてるよ。死ななかった……アンタが教えてくれた理屈が、俺を守ったんだ。……でも、もう、アンタの作った変な飯は食えない……『タクミ』って呼んでくれるアンタは、もういないんだ……っ!」
彼は顔を覆い、子供のように声を上げて泣き出した。
この地で数多の死線を越えてきた彼が、ただ一人の女性の面影を求めて、泣き叫んでいる。
私は、彼の震える身体を、力いっぱい抱きしめた。
床に膝をついた彼の頭を、強く私の胸に押し当てる。
金属の冷たい感触よりも、服を濡らしていく涙の熱さが、私の肌を焼いていく。
「……っ、あああああぁぁぁ……っ!」
彼は私の腰にしがみつき、私の胸に顔を埋めて泣き続けた。
最強の剣闘士の無様な姿。だが、私にはそれが愛おしくて仕方がなかった。
私は、彼の嗚咽を静かに肯定し、うんうんと頷きながら優しくなで続けた。
「……うん。……うん、タクミ様。聞こえていますわ」
「寂しい……っ、寂しいよ、姉ちゃん……っ」
毎週、月・水・金の週3回17時30分投稿。
次回は7月15日(水曜)です。
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