24話 筆頭剣闘士の思惑
不可視となった死神の鎌が、アステリオスの喉元を捉えようとしていた。
水の魔法を使い、空気中から生み出した水を圧縮し、屈折率を操作して編み出した必殺の一手。
魂の残滓であるヘリオンの少ない魔力で、最大限の効果を引き出そうと頭を捻りに捻った結果、予想以上の効果を発揮して、この世界に顕現していた。
アステリオスの瞳に死の予感が走る。
(……殺すのか? 本当に、俺がこいつを)
脳裏に前世の記憶がよぎる。
二十四年間、平和な日本で生きてきた『川背 匠』としての感覚。暴力を嫌い、命を奪うことなど想像の範疇にすらなかった。
たとえ異世界に転生し、剣闘士という血生臭い職に就いてなお、根底には「殺したくない」という甘さが残っている。
だが、アステリオスの強さと殺意は本物だ。
ここで俺が手を止めたら、次は俺の番かもしれない。
(迷っていて、勝てる相手じゃないぞ!)
この試合ですでに俺は、アステリオスの腹を深く斬り、右手を落としている。
こいつを止めるには、――あとは、首しかない。
俺は奥歯を噛み締めて、倫理を心の奥底に押し込める。
(俺は、姉ちゃんの知恵と、ヘリオンの力で戦っている。責任を取るのは、俺の役目だ)
迷いを振り払うようにして、透明な刃をアステリオスの頚動脈へ送り込む―――
勝負は決した。そう誰もが確信した。
俺だってそう思った。
ヴォォォォォォォン……!
闘技場の空気を震わせる、重厚な角笛の音が響き渡る。
それは、皇帝のみに許される「即時中断」の合図。
「……ッ!?」
俺は、強引に鎌の軌道を逸らした。
これを無視すれば、俺の所属する『ブルトゥス訓練所』に迷惑がかかる。
「ヘリオン! 止めてくれ!」
(ぬううぅぅっ!! 相変わらず無理を言う!)
ヘリオンが全身の筋肉を震わせて踏み止まり、透明な刃の軌道を変えてみせた。必殺の一撃を踏みとどめた腕が、痺れるように震えていた。
観衆の熱狂が、一瞬にして当惑へと変わる。
視線の先、貴賓席の最前列で皇帝アウグスがゆっくりと立ち上がっていた。
「よせ。興醒めだ」
アウグスの声は、魔道具による拡声すら必要としないほどよく通った。冷徹で、傲慢で、すべてを所有物として見なす王者の声。
「余の『黄金の雄牛』が、骸となって泥にまみれるのは余の審美眼に反する。この試合はこれまでとせよ。勝負は……引き分けとする」
場内が一斉にざわつく。
この「暴君」アウグス帝は、流血を好み、敗者の命が己の決定で奪われる瞬間を楽しみにするような男だ。
そんな皇帝が、決着の寸前で試合を止めるとは思いもしなかった。
(……助けたのか? アステリオスを)
俺は荒い息を吐きながら、皇帝を睨み据えた。
アステリオスは脇腹から血を噴き出し、膝をついている。
その視線は虚ろで、正気を失っているようにも見えた。
そこへ、地下から黒装束の集団が駆け寄ってくる。
仮面をつけて顔を隠した彼らは、アステリオスを気遣う素振りも見せず、事務的に彼を戸板に乗せる。
アステリオスは言葉を発することなく、闇の中へと消えていった⋯⋯
§§§
同じ頃、観覧席の上層。
貴族向けの特別個室では、シディウス伯が手元の硝子瓶に入った紫色の薬瓶を愛でるように眺めていた。
「ふむ……あの女の生成する薬は、実に素晴らしい。あれほどの傷すら、塞いでしまうとはな……ロクスタの名は、伊達ではないということか」
シディウスの瞳に、昏い悦楽の色が宿る。
「だが……またしてもヘリオンか。余の庭を掻き回す、クラウディの駒め。どうだ、今のうちに始末しておくか? 『ベルセリ』を使えば、今夜にでも奴は、カロンの小舟に乗ることになる」
『ベルセリ』―――イデアの勇者でありながらクラウディを見限り、寝返った裏切り者。
今はシディウスの忠実な手駒として闇に潜む、凄腕の暗殺者である。
「……お断りだな」
背後に控えていた筆頭剣闘士アルティウムが、地を這うような低音で遮った。アルティウムから放たれた目に見えぬ威圧感が、個室の空気をピりつかせる。
「シディウス。私の実力だけでは不満だとでも? そのような暗殺者による小細工、私の誇りが許しはしない⋯⋯」
帝国筆頭剣闘士『ヴィクトリウス・アルティウム』、その二つ名であるヴィクトリウス(勝利を制する者)が示す通り、彼は剣闘の世界に足を踏み入れて以降、唯の一度として膝を屈した事がなかった。
その名声と発言力は、元老院を束ねるシディウスにも決して引けを取らず、一介の剣闘士という枠を超え、民衆の熱狂を一身に背負う『帝国の象徴』としての威光さえ帯びている。
彼が右手を掲げれば十万の民が喝采し、不快を示せば元老院の議場すら揺らぐと言われるほどだ。
その誇り高さは帝都の誰もが知るところであり、彼の意思を無碍に扱うことは、何人たりとも不可能であった。
―――だが、今の拒絶には別の意図がある。
シディウスは肩をすくめ、薄笑いを浮かべた。
「誇り⋯⋯か。相変わらず融通の利かぬ男だ。だがな、アルティウム。これは業の問題よ。
この世には、人を喰らわねばならぬ者共がいる。ルドヴィカが毒を作り、それを試さずにはいられないように、余もまた人を従わせ、運命を操らずにはいられない。それが統治者の抗えぬ『業』というものよ」
「……その業とやらが、大切な庭園を喰い尽くす可能性も考慮すべきでしょう」
アルティウムの冷淡な返しに、シディウスが細い目をさらに細めた。
「ほう。貴殿にしては珍しい物言いだな。まさか、あの男に期待でもしているのか?」
「……あの男には、ウォーターとサンダー。二つの加護が宿っている。今日の戦いで見せた不可視の刃は、その一端に過ぎないが……まだ甘い。もう一段、欲しいものだな」
アルティウムの脳裏には、退位した先帝トルネウスと、その孫娘の姿があった。
彼は皇帝とシディウスに従う「筆頭剣闘士」でありながら、本当の主人の事を想う。
(ヘリオン。貴様がどこまで登ってくるか……先帝トルネウス様が信じた『人の可能性』を私に見せてみろ。それまでは、ベルセリごときには殺させん)
シディウスが、アルティウムの横顔を皮肉げに眺めながら、クスクスと笑った。
「ふん……そなたが強者を欲し、その成長を待つのも、また一つの『業』であろうよ。
精々、期待外れのまま終わらぬよう見守ることだ、筆頭剣闘士殿。ベルセリの出番は、もう少し先に取っておいてやろう」
§§§
闘技場の控え室へと続く暗い通路。
ヘリオンは、自分の左手に残る魔力の残滓を見つめていた。
「上位闘士の戦い……手応えはあった。でも……」
脳裏に浮かぶのは皇帝アウグスの冷笑と、アステリオスの傷を瞬時に塞いだ驚異的な現象。
「こればっかりは、姉ちゃんでもわからないよな⋯⋯」
市民権を得て上位闘士となり、給料は増えた。
自由と呼べそうな環境も手に入った。
それでも結局、皇帝の気分次第というのが怖い。
「もっと強く……アルティウム、そしてあの皇帝も認めざるを得ない『筆頭剣闘士』。結局、それを目指さなくてはいけないんだな」
俺は右手に下げた大鎌の柄を握りしめる。
―――次の目的はこれしかないようだ。
毎週、月・水・金の週3回17時30分投稿。
次回は7月13日(月曜)です。
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