第9話:死んでしまいますっ
親ナツ皇国派の重鎮・サルシュ伯爵の屋敷が、国家反逆罪の容疑で包囲された。
その報せが王都を駆け巡ったのは、屋敷への潜入から数日後のことだった。
(……よし。これで開戦の決定的な口実は潰した)
離れの屋根の上で、レオンは朝日に目を細めていた。
街の方角からは、普段通り朝市の賑わいが遠く聞こえてくる。
(未来は、変わったんだ)
隣では、プルが眠たそうに背伸びをしている。
朝日を浴びた白黒の毛並みが、神獣らしくキラキラと輝いていた。
視界の隅に、ハーブを摘みに出てきたハルニアが映る。
(もう、お前が戦場に立つこともない)
レオンの胸に、かつてない達成感が満ちていた。
◇
それから、数日が過ぎた。
離れには、これ以上ないほど穏やかな時間が戻っていた。
「見てください。お肉が綺麗に焼けました」
「おお、本当だ。焦げてないし、溶けてもいないね」
「はい。粉砕もしていませんよ」
レオンが苦笑しながら皿を受け取る。
二人の距離が、じわじわと吸い寄せられるように近づいていく。
「アン」
「はい」
レオンが意を決して、彼女の手を握ろうと指を伸ばした。
その時。
ゴロゴロ……ッ!!
遠くで、不穏な雷鳴が響いた。
「……雨、でしょうか」
ハルニアが窓を見上げる。
先ほどまでの快晴から一転、空には巨大な入道雲が広がっていた。
レオンの指先が、行き場を失って空を切る。
「あ、洗濯物……!」
我に返ったハルニアが席を立ち、慌てて外へ駆け出していった。
レオンは伸ばしかけた手を握り込み、顎を撫でる。
「何をやってるんだ、俺は」
◇
そして、夜。
離れの窓を、激しい雨が叩いていた。
レオンはベッドに横たわり、寝付けないまま天井を睨んでいた。
その時だ。
ピカッ――!!
ドガァァァン!!!
天を引き裂くような閃光と轟音。
離れの窓が、びりびりと震える。
「ひゃいぁぁぁぁっ……!」
裏返った悲鳴が響いた。
「今のっ! 近いぃぃぃっ!!」
次の瞬間、自室のシーツを引きずったハルニアが、レオンの部屋へ突撃してきた。
「おいおいおい! どこに潜り込もうとしてるんだよ!?」
そのままシーツごと、ベッドのレオンの布団へ頭から突入する。
「無理ですっ! 死んでしまいますっ!」
「雷で死ぬ前に俺の服が死ぬ!!」
レオンの服は、布団の中にいるハルニアに限界まで引っ張られている。
さらに。
「ぎにゃぁぁぁ!! 世界の終わりなのぉぉぉ!!」
窓が開いた。
びしゃっ。
全身ずぶ濡れで白目を剥いた神獣プルが飛び込んできた。
そして、そのままレオンの枕へ突撃。
芋虫のように激しくのたうち回りながら絶叫する。
「神の怒りなのぉぉぉ!!」
「増えたぁ!?」
レオンは頭を抱えた。
布団の中では、ハルニアが小動物のように震えている。
枕元では、まだ乾ききらないプルが白目で転がっている。
雷が落ちるたび、二人と一匹が跳ねた。
「おいおい」
レオンは、布団の端を必死に握りしめて小さくなっているハルニアに目をやる。
(……これが世界を滅ぼす女かよ)
いつもなら、どんな状況でも冷静に対処するはずの彼女が、今は明らかに普通ではない。
レオンは苦笑すると、自分のシーツごとハルニアを抱き寄せた。
「ほら。大丈夫だから」
自分でも、声が少し低くなっているのに気づく。
ハルニアは返事の代わりに、ぎゅっと服を掴んだ。
指先が、微かに震えている。
外では雨が降り続いている。
雷鳴が遠くで唸る。
けれど、その音さえ少しだけ遠く感じた。
互いの鼓動が聞こえるほど近い距離で、二人は静かに身を寄せ合っていた。
(……なんなんだよ、これ)
しばらくして、ハルニアはそっと顔を上げた。
窓の外を見つめるレオンの横顔。
黄金のまつ毛に縁取られた瞳は青く美しい。
けれど、どこか寂しげだった。
まるで、広い荒野にたった一人取り残された人のように。
(この少年は、わたしを見る時、たまに怯えるような目をする)
だが、不思議と冷たくはない。
むしろ、その奥には何か、言葉にできない影がある。
「あの」
「ん? まだ怖い?」
「……はい」
普段なら絶対に認めない言葉が、自然にこぼれた。
自分でも、少し驚く。
少し迷ってから、ハルニアは続けた。
「あなたは時々、とても孤独な目をしています」
思いがけない言葉に、レオンがハッとして瞬きをした。
彼女の瞳が、じっと自分を覗き込んでいる。
「なのに、なぜ、そんな優しい顔をするのですか」
部屋の中に、濃い沈黙が落ちた。
窓には相変わらず、雨粒が激しく叩きつけている。
レオンは逃げるように視線を逸らした。
「……よく分からないんだ」
掠れた声だった。
「俺にも」
それ以上は続かなかった。
ハルニアも、それ以上踏み込まない。
ただ、胸の奥に小さな違和感が残る。
(この人は、何を抱えているのだろう)
問いかけたい気持ちと、これ以上近づいてはいけないという警戒が、同時に胸をよぎった。
なのに。
気づけば、互いの距離はほとんどなくなっていた。
雨音だけが響いている。
近い。
近すぎる。
そう思うのに、目を逸らせない。
ハルニアの瞳が、静かに閉じかけた。
互いの吐息が触れ合うほど近づいた、その瞬間。
「ぎにゃあぁぁぁぁっ!!」
枕元で丸まっていたはずのプルが、勢いよく飛び上がった。
「うわああああっ!?」
「ひゃあうっ!?」
まだ乾ききらない尻尾の先から、しずくが二人の顔へ飛び散る。
「つ、冷たいなのぉぉ! まだ濡れてるのぉぉ!!」
甘い空気は木っ端微塵になった。
違う意味で、危機だった。
◇
翌朝。
激しい嵐が明け、窓の外には雲一つない抜けるような青空が広がっていた。
しかし、その眩しい朝日の光を遮るように、最悪の報せが飛び込んでくる。
バァン!!!
離れの扉が激しく開いた。
そこに、額に大量の汗を浮かべたマグ爺が、息を切らして飛び込んできた。
「坊主!! 大変なことになった!」
「どうした、マグ爺。とうとうツケが効かなくなったか?」
「国境の『灰色地帯』ぢゃ! 昨夜、我が国の守備隊がナツ皇国の警備兵を『虐殺』したという報せが入った!」
「バカなっ!!」
激しい衝撃がレオンの脳内を駆け抜ける。
そんな事件、回帰前の記憶には存在しない。
「それを口実にナツ皇国の魔導装甲部隊が、我が国へ進軍を開始した……!!」
頭が、真っ白になった。
(回避したはず、なのにっ!?)
陰謀を完璧に潰し、未来を確かに捻じ曲げたはずだった。
なのに、なぜ歴史が動く。
(はなから、サルシュの計画なんて本命じゃなかったんだ)
窓の外からは、夜明けの美しい街並みを切り裂くように、開戦を告げる重苦しい鐘の音がゴウゴウと鳴り響き始めていた。
(第9話・完 ―― 第10話へつづく!)




