第10話:ふたりのハルニア
「――ナツ皇国との平和の政略結婚、だと……?」
王宮に激震が走った。
軍で国境を包囲しておきながらの婚姻要求。
拒めば全面戦争、受け入れれば国の中枢を奪われる。
(回帰前と違う! なぜハルニアなんだ!?)
回帰前の記憶では、王子の婚約者は第二皇女ヤマロメだったはずだ。
(ハルニアも、ただの侵略の道具に過ぎないってことか)
紛糾する会議の中、レオンは一歩前へ出た。
「父上。この件は、俺にやらせてください」
強い決意が宿った声に、王はしばし息子を見つめた。
そして、深くうなずいた。
向かう先は、ただ一つ。
『水の杜』の離れ。
もう、これ以上黙っておくことはできなかった。
◇
バァン!
離れの扉を開けると、お茶のかすかに甘い香りが鼻をつく。
「おかえりなさい、レオンさん」
レオンはその場に立ち尽くした。
穏やかな時間。
湯気の立つ茶器。
窓の外の水の杜。
あまりにも平和な光景が、そこにあった。
だからこそ。
レオンは、ただ強く彼女を抱きしめた。
「いきなり何をっ!? また脳が沸き上がって――」
「沸いてない! それから、今まで黙っていて悪かった」
その腕は震えていた。
ハルニアは息を呑む。
やがてレオンは身体を離し、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「聞いてくれ。俺の本名は、レオンガルド」
レオンは一言一言を刻みつけるように、声を絞り出した。
「レオンガルド・ハル・マウナケア。このハル国の第一王子だ」
「え?」
地元のちょっと生意気な名士の倅だと思っていた少年。
それが、この国の王子その人だった。
「ナツ皇国は友好の証として、『ハルニア皇女とレオンガルド王子の婚約』を要求してきた」
その名前を聞いた瞬間、アンの胸がドクンと不吉に跳ね上がった。
まるで、自分自身のことを言われたかのように。
「だが、本当の目的は違う」
レオンの声が低くなる。
「あいつらが欲しいのは、この国そのものだ」
レオンは肩を掴む手の力をわずかに緩めた。
「お前だよ、アン」
「わたし?」
「お前が本物の第一皇女、ハルニア・ナツ・カンチェンジュンガだ。国境にいるのは偽物。黒の教会が用意したんだろう」
「わたしが……皇女ハルニア」
「俺はお前を渡さない。国にも、教会にも、世界にもだ」
その言葉が落ちた直後だった。
キィィィン――……!!
大陸全土の空に、巨大な『魔導映像』が展開された。
「アン、見ちゃダメだ!」
レオンはハルニアの目を隠そうとしたが、一歩遅かった。
ハルニアは吸い寄せられるように窓際へ進む。
無数の屋根と尖塔が地平線まで続くナツ皇国首都。
教会の巨大聖堂、そのバルコニーに立つ少女――。
ハルニアと全く同じ顔。
同じ黒髪。
だが、真紅の瞳に人間らしい揺らぎは一切ない。
映像の中の偽ハルニアが、冷たく世界を見下ろす。
『要求を拒む愚かなハル国へ、竜の鉄槌を。――全軍、進軍を開始せよ』
――ずくり。
うなじの裏側が、鋭く疼いた。
足元が揺らぐ。
まるで内側から、何かが目を覚まそうとしているようだった。
ハルニアは思わず、うなじへ手をやった。
(……何、これ)
見たこともないはずの光景なのに。
声も、瞳も、佇まいも。
魂の深いところで、何かが引きつる。
「アン、見なくていい。あんなものは――」
ハルニアは差し伸べた手を拒み、一歩下がった。
言葉にならない恐怖が、胸を締め付ける。
「……嘘をつかないでください、レオンガルド殿下」
空から魔導映像が消え、不気味な残光だけが残っている。
水の杜ではその光を覆い尽くすように深い霧が立ち始めていた。
「あの顔は、わたしでした」
怒りと恐怖で声が震える。
「あなたは最初から知っていましたね? わたしが何者なのか」
ハルニアは拳を握り締めた。
声が掠れる。
「なぜ記憶を失っているのか。なぜ追われているのか」
一歩。
また一歩。
「あなたを信じそうになっていた……っ」
追い詰めるようにレオンへ迫るその問いは、怒りではなかった。
喉が潰れ、息もできないほどの苦しみだった。
「理由も告げず、殺そうとしたかと思えば命がけで私を守る。なぜですか!? ずっと隠し事をしているのは、あなたです!」
「それは――」
レオンは答えられなかった。
あの終末も。
自分が彼女に殺され、死に戻ったことも。
そして自分自身の中にある矛盾した何かも。
答えれば、すべてが壊れる。
言葉を探して焦るレオンの前で、ハルニアの瞳から、すっと光が消えていく。
「また……そうやって誤魔化すんですね」
「アン――!」
「わたしだけ、何も知らないままじゃないですか!!」
ハルニアは扉を開け放ち、外へ飛び出した。
バタン!!
外は濃い霧に覆われていた。
「アン!! 待ってくれ!!」
レオンも弾かれたように駆け出した。
視界を奪う白い霧。
湿った土を蹴り、枝を払い、ただ彼女の気配を追う。
王子としての体裁も、背中の傷も、今はどうでもよかった。
脳裏に、激しいフラッシュバックが襲いかかる。
血の匂い。
燃え上がる王都。
黒い爪を血で染め、世界を灰へ変えていくハルニア。
(そうだ。俺はあいつを監視するために手元に置いた。あの破滅を防ぐために)
なのに。
(なんでだよ! なんで俺は、こんなにお前が好きなんだよっ!)
監視対象?兵器?
違う。
今、胸を焦がしているのは、料理に失敗して落ち込み、雷に怯えてすがりついてくる、ただ一人の少女だった。
大樹の根元で膝を抱える、小さな背中を見つけたのは、その直後だった。
「来ないでくださいっ!」
細い雨に濡れながら、ハルニアが叫ぶ。
「わたしは、自分が何者なのかも分からないんです!」
レオンは止まらなかった。
泥を跳ね上げ、その細い身体を背後から抱きしめる。
「離してください!」
「離さない!!」
レオンの叫びが、霧雨の水の杜に響き渡った。
「嘘をついてごめん! 隠しててごめんっ!」
ハルニアの身体がぴたりと止まる。
恐る恐る振り返った彼女は、息を呑んだ。
レオンが泣いていた。
雨ではない。
大粒の涙だった。
いつも笑っている少年が。
完璧だった王子が。
子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「お前がいない世界なんて、嫌なんだ」
絞り出すような、掠れた声。
「何者だっていいっ」
レオンはハルニアに縋りつくように肩を掴んだ。
指先が震えている。
「ただ、お前を失いたくない」
雨音だけが、二人の間に落ちていた。
ハルニアは、その泣き顔を見つめたまま動けなかった。
逃げたい。
信じたくない。
なのに、足が動かない。
やがて、彼女の手がゆっくりと上がった。
雨に濡れた背中へ、そっと触れる。
「わたしは、わたし自身の正体を知りたい。そして、自分の未来を自分で決めたい」
小さく、だが固い決意を込めて呟く。
そして今度は、拒まないようにレオンを抱きしめた。
「……本当に、手のつけられないクソガキ様ですね」
その声は、震えていた。
雨は、まだ止まっていなかった。
◇
抱きしめ合ったまま、ハルニアはうなじに手をやる。
ひやりとした感触。
遠方で、開戦の鐘が鳴り始める。
「……大丈夫だ」
レオンが低く呟いた。
その声は、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。
(第10話・完 ―― 第11話へつづく!)
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本作もついに第10話!ひとつの節目を迎えることができました。
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