第11話:殿下が悪いのです
夜が明けても、空の残光はまだ薄く残っていた。
濡れた身体を暖炉の前で寄せ合ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。
少し目を腫らして眠るハルニアの横顔を、レオンはじっと見つめていた。
(まいったな)
敵国の皇女でもいい。
偽者を擁して来るナツ皇国も、裏で糸を引く黒の教会も、全て叩き潰す。
その先で、俺の隣に立っていてほしい。
それ以上の言葉は、まだ胸の奥で形にならない。
「……ん」
目を覚ましたハルニアに、レオンはやさしく微笑んだ。
「ねえ、アン」
「はい」
「この戦争を止めて、全部終わったらさ」
そっと、彼女の手を取る。
「俺の大切な家族に、お前を紹介したい。その時は、本当の名前で、俺の隣に立ってくれないか?」
ハルニアの呼吸が止まった。
本当の名前も、自分でも知らない過去も。
そのすべてを抱えたまま――彼は自分を選んだ。
胸の奥が、熱くなる。
「……はい。私も、あなたの隣にふさわしい人間になりたいです。それに」
小さく息をつき、ハルニアは真っ直ぐにレオンを見つめ返す。
「わたしの偽物が空から宣戦布告をしたのです。当事者のわたしが、逃げるわけにはいきません」
レオンはそっと微笑んだ。
(やっぱり強いな、お前は)
レオンは窓の外へ視線を移した。
「本当なら今すぐ作戦を考えなきゃいけない。でも今日はやめた」
「……え?」
「お前、ずっと気を張りっぱなしだろ。今日はアンとして過ごそうぜ」
レオンはハルニアにマントを羽織らせ、フードを頭から被せた。
「前が見えません」
「昨日の今日だ。その顔で出歩いたら、宣戦布告の人が来たって大騒ぎだからな」
城下は戦争が始まるとは思えないほど、活気と喧騒に包まれていた。
「――ほら、アン。こっち」
「殿下! そんなに引っ張らないでください」
伝統的な木造建築が立ち並ぶ石畳の路地。
頭上を埋め尽くすカラフルなガーランドと、軒先の色鮮やかな布飾り。
その先に――。
「市場、です!」
ハルニアの目が子供のように輝いた。
角の魚屋では親父が塩を振りながら怒鳴っている。
「開戦? 知ってるよ、だから何だ。サバは今日も安いぞ!」
「勝つに決まってるじゃん。いつも勝つし」
その会話が、湯気と一緒に流れていく。
ハルニアは足を止めた。
「……皆さん、怖くないのですか」
レオンは少しだけ間を置いてから、肩をすくめた。
「怖いさ。でも、この街は怖がるより先に店を開ける」
それが、三百年続いてきた戦い方だった。
(いつもの延長だと思ってる。それが一番怖い)
レオンだけが、笑い話の奥で奥歯を噛む。
だが、その表情を誰にも見せることなく、レオンはふいに足を止めた。
「見ろよ、この串オススメ!」
「わたしは結構です――っんぐ」
レオンがハルニアの口元へほかほかの屋台飯を押し込む。
あまりの美味しさに瞳を丸くするハルニア。
もぐもぐと口を動かし続ける。
レオンは「だろ?」と笑った。
路地の隅では、半透明の幼生たちが神獣プルとちょこちょこと突き合って遊んでいる。
「あはは、プルも楽しそうだな」
ハル国特有の果物や武具、色鮮やかな織物、宝石をあしらった髪飾り。
そのすべてが、ハルニアの目には新鮮だった。
ふとハルニアは、陶器人形の前で足を止めた。
キレイだが、気の強そうな顔。
「わたしには、妹のような肉親がいたのでしょうか」
その呟きに、レオンの心臓が跳ねる。
(ヤマロメ……)
レオンはハルニアの肩を抱き寄せた。
「心配するな。もし大切な家族がいるなら、必ず俺が会わせてやる」
胸の奥の不安が、少しだけ軽くなる。
再び歩き出そうとした、その時だった。
路地の角から少年が飛び出した。
「わっ、すまん! って、レオン!?」
「ガイウス?」
レオンの幼馴染だ。
未来の近衛騎士となる男。
今はまだ背が低く、ニキビも目立つ。
「聞いたぞ、開戦だって! 俺も志願で行く。経験、積まねえとな」
朗らかに笑う。
その声を聞いた瞬間、レオンの喉がカラカラに乾いた。
脳裏に、回帰前の記憶が濁流となって押し寄せる。
自分を守ろうとして叫ぶガイウス。
その身体を、一瞬で一刀両断にしたのは――ハルニアだった。
「……くっ」
今、目の前で戦争を「経験」だと言っている。
彼もまた、いつもの小競り合いの延長だと思っている。
レオンは無理やり笑顔を顔に貼り付けた。
「志願はまだ早いだろ」
「母ちゃんと同じこと言いやがる」
「で、こっちは?」
ガイウスの視線が、フードの影に釘付けになった。
まばたきも忘れ、顔を覗き込む。
「……おい、その子」
ハルニアが半歩下がる。
レオンは笑顔のまま、ガイウスの視界を体で切った。
「アンだ。俺の、世界で一番大切な人だ」
その言葉にハルニアは驚き、目を見張った。
「それ以上は、今は聞くな」
ガイウスは口を開きかけて、閉じた。
そして豪快に笑った。
「本気かよ! じゃあ生き残って、祝いに来るわ」
走り去る背中を、レオンは追えない。
「殿下? 大丈夫ですか」
「ああ。人混みに酔っただけだ」
回帰した日、俺はあの怪物を殺すために動いた。
その覚悟に嘘はなかった。
だが今、隣に立つこの少女のどこが怪物だというのか。
(どんな未来が来ても――もう俺は、お前を殺せない)
喧騒を離れ、人通りの途絶えた街外れ。
木漏れ日が柔らかく落ちる小さな橋の上で、ハルニアはふいに立ち止まった。
「アン?」
振り向いた瞬間、柔らかな感触が唇に触れた。
「……殿下が悪いのです。ずっと一人で苦しそうな顔をしています」
ハルニアはほんのり頬を染め、悪戯っぽく微笑む。
不器用で、真っ直ぐなキス。
「なっ、アン……」
その笑顔があまりにも愛おしくてレオンは目を細める。
レオンはハルニアのフードを少しずらした。
ハルニアの瞳と同じ紫色の宝石があしらわれた髪飾りを、彼女の黒髪にそっと飾る。
「殿下、いつのまに……」
「似合ってる。綺麗だから買ったんだ。文句ある?」
ハルニアの胸に、甘い感情が溢れていく。
(これではまるで、普通の女の子ではないか――)
赤くなって戸惑うハルニアを見て、レオンは呟いた。
「……さすがに反則だろ」
「え?」
ハルニアを引き寄せ、今度は自分から、深く重ねる。
隠してきたものを、すべて流し込むようなもどかしさと焦れったさ。
「ん……っ、殿下」
確かめるように、誓うように、何度も唇を重ねた。
運河だけが、二人を包んだ。
◇
「……今日は、楽しかったです」
「また来ようぜ。次はもっとゆっくり回ろう」
「はい」
(頼む。この笑顔だけは、奪わないでくれ)
だが、石畳を数歩進んだとき、再びハルニアの足が止まった。
「アン?」
うなじの奥が、急に熱を持つ。
視界の端が歪む。
「あ、ぐ……っ、頭が……っ!?」
膝から崩れる。
紫の瞳が、一瞬だけ真紅へ変わる。
(嘘だろ……! 覚醒が、もう始まったのか……!?)
甘い時間の果てに、最悪の現実が落ちた。
(第11話・完 ―― 第12話へつづく!)




