第8話:お話しする義理はございません
「証拠もなしに押し入る気か。礫で帰ってもらってもいいんだぞ」
レオンがいつもの社交用の笑顔で前へ出ようとする。
するとハルニアが、すっと手を上げて制した。
「あなたは下がっていてください」
「アン――」
「これは、わたしへの疑いです。わたしが答えるべきことかと」
ハルニアはレオンに小さく微笑み、戸口へ進み出た。
サルシュ伯爵の前に、すっと立つ。
私兵たちが反射的に剣の柄へ手を伸ばした。
ハルニアは動じない。
「わたしが何者か、伯爵にお話しする義理はございません」
声量は決して大きくない。
それなのに、その場を一瞬で支配する。
「レオンさんは病み上がりなのです。ここは、お静かにしてください」
ハルニアの紫の瞳に、得体の知れない圧が宿る。
「ぐ……」
サルシュは後ずさりたい衝動をこらえ、額に汗を浮かべた。
誰も剣を抜けない。
前に出られない。
本能的な恐怖が彼らの手を止めている。
パチパチパチ。
松明の火だけが音を立てる、奇妙な静寂。
その時。
ぴり、と首の裏に、あの感覚が走った。
結い上げた黒髪の隙間。
うなじが月光を受け、ほんの一瞬、人間の肌ではあり得ない色に煌めいた――気がした。
「……今、何か見えませんでしたか」
サルシュが声を震わせる。
「気のせいでしょう。それより、伯爵」
ハルニアの声に、初めて明確な怒気が滲んだ。
「レオンさんの前でこれ以上騒げば、次は見過ごしません。早急にお帰りください」
ハルニアはただそこに立っているだけで、十数名の武装した男たちを完全に制圧していた。
サルシュ伯爵の一団が、松明の灯りを揺らしながら去っていく。
「……アン」
レオンが一歩近づく。
「平気です」
「嘘だろ」
伸びた手を、ハルニアは半歩下がって避けた。
一瞬だけ、レオンの視線がうなじを掠める。
ハルニアの鼓動が跳ねた。
(見られた……?)
だが、レオンは何も言わなかった。
その沈黙がかえってハルニアの胸に引っかかった。
◇
どこか触れ合えない距離感を残したまま、日常だけが過ぎていく。
レオンのための水桶を抱え、今日もハルニアは泉への小道を歩いていた。
ざざぁ、と風が木々を揺らす。
その時だった。
(また......この感覚)
「――ッ!?」
ハルニアの背筋を、おぞましい戦慄が駆け抜けた。
魂の底から、粘り気のある何かが這い上がってくる。
圧倒的な不快感。
「これは、何?」
ハルニアは水桶を地面に落とした。
ドクン、ドクン。
心臓が異常な速さで脈打つ。
うなじの裏で、皮膚を突き破らんばかりに硬化し始めた黒い竜の鱗が、疼いていた。
『そうだ、その調子だ、ハルニア』
また、あの声だ。
『お前の身体は、すでに目覚めを欲している。黒き竜の贄となれ』
「嫌! わたし……は!」
ハルニアは細い肩を抱きしめ、その場にうずくまった。
草むらの陰では、神獣プルが完全に限界を迎えていた。
「ひぅっ!! 出たのぉぉ!」
全身の毛がボワッと膨らむ。
丸かった身体が、二倍ほどに膨れ上がった。
「黒竜の気配なのぉぉ!! 完全にアレなのぉぉぉ!!」
プルはガタガタ震えながら後ずさる。
「でもハルニアちゃんは良い子なのぉ……!」
「でも世界が滅ぶのぉ……!」
「でも昨日お肉くれたのぉ……!」
感情と本能が、大喧嘩を始めていた。
プルの瞳に映るハルニアの背後で、天を覆い尽くすほど巨大な黒竜の影が、どろりと揺らめいている。
「うぅぅ……」
ぷるぷる。
ぷるぷるぷる。
そして次の瞬間。
ぽてん。
白目を剥いたプルは、その場にひっくり返った。
◇
深夜。
レオンとマグ爺は、サルシュ伯爵の屋敷へ忍び込んでいた。
昼間の軽薄な笑みは、どこにもない。
物音一つ立てず書斎へ侵入したレオンは、手際よく机や棚を調べていく。
「坊主、こいつはどうぢゃ?」
引き出しを漁っていたマグ爺が、一通の封書を投げた。
レオンは封を切る。
視線が走った。
『ナツ皇国皇女失踪の件』
『手筈通りに進んでいる』
『ハル国への開戦口実として利用価値大』
グシャリ!
レオンが封書を握り潰した。
「……ふざけんな」
低い声だった。
差出人を見たマグ爺が眉をひそめる。
「ザハル・ヴァルガスか」
「知ってるのか?」
「戦が起これば必ず儲けとる、死の商人ぢゃ」
レオンは黙っていた。
離れで眠るハルニアの顔が脳裏をよぎる。
記憶を失い、自分の名前すら知らない少女。
その正体は、ナツ皇国の皇女ハルニア。
「皇女失踪を戦争に使うつもりか……」
ナツ皇国。
武器商人。
そして黒の教会。
散らばっていた駒が、一つの盤上へ集まり始める。
「――させるかよ」
その瞳には、強い光が宿っていた。
破滅へ向かう、すべての糸を断ち切ってみせる。
そう心に刻んだ、その時だった。
「坊主」
マグ爺が静かに声をかける。
「アン。あやつは『竜の力』を盗み出した大罪人ぢゃ」
マグ爺の瞳の奥が、鈍く光る。
「以前、おぬしはこう言っておったな。『滅ぼすべきが彼女なら、俺が殺す』と。……今も、その覚悟はあるか?」
「当たり前だ」
レオンは即座に答えた。
だが、マグ爺は何も言わず、ただじっとレオンを見つめている。
「……なんだよ」
「本当にそうか、と思うてな」
「だから、当たり前だと――」
杖の先が床を叩く。
「坊主。おぬしがあのおなごを殺せぬと言うなら、ワシが代わりに引導を渡しても良いが?」
「それは駄目だ。絶対に、駄目だ」
レオンの瞳が鋭く光った。
マグ爺の威圧感を真正面から切り返す。
「そうならないように、俺が隣で見張ってる」
一歩も譲らない。
その眼差しの強さを見て、マグ爺は長く息を吐いた。
「ふぅむ、覚悟はあるようぢゃな」
軍を退役してから十余年。
水の杜の守り人となった自分に託されたもの。
それは、レオンの教育係という柄にもない役目だった。
だが気づけば、その坊主は孫よりも大切な存在になっていた。
マグ爺は肩をすくめ、杖を軽く鳴らす。
「ならばこのジジイ、もはや何も言うまい。この先何があろうとも、ワシは坊主の味方ぢゃ」
そして少しだけ優しく目を細め、呟いた。
「その結果、世界を敵に回そうともな」
◇
離れへ戻ると、ハルニアが椅子に座ったまま眠っていた。
レオンは足を止める。
「ただいま、アン」
返事はない。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
数秒前まで浮かんでいた冷たい表情が、ふっと消えた。
思わず苦笑する。
「……まったく、警戒心なさすぎだろ」
伸ばした指先が、彼女の頬に触れそうになる。
だが、寸前で止めた。
(……今は寝かせておくか)
触れたら起こしてしまう。
それだけのことなのに、なぜか指を引くのが妙に惜しく感じられた。
レオンは小さく首を振り、窓辺へ歩いた。
外は深い霧に包まれている。
その霧の向こうで、何かが動いた気がした。
――見るな。
本能がそう告げた。
それでも、カーテンを閉める前に、もう一度だけハルニアの寝息を確認してしまう。
「……来るなよ」
誰に向けたのかわからない言葉を残し、彼は剣を手元に置いて椅子に座った。
眠れない夜が、静かに更けていく。
そしてハルニアのうなじで、黒い鱗が誰にも気づかれないまま、ごく薄く浮き出していた。
(第8話・完 ―― 第9話へつづく!)




