第7話:恋の病は重症です
レオンが背中を切り裂かれたあの襲撃事件から、数日後――。
カン、カン、と心地よい木槌の音が水の杜に響いている。
先日の襲撃で壊された屋根や壁の修復が、急ピッチで進んでいた。
完成したばかりの新しい部屋。
ハルニアは思わず息を呑む。
大きな窓から差し込む柔らかな陽光。
白木の床。手織りの絨毯。
小さな化粧台に花柄の櫛。
「母上がな、『女の子の部屋にはこういうのが必要だ』って」
自分のために用意された部屋。
胸の奥が、ふんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます」
ハルニアは小さく呟いた。
本棚には分厚い料理本が何冊も積まれている。
『百種の肉料理大全』
『絶品焼き肉の極意』
『煮込み百景』
「……マグ爺」
こうして今日もマグ爺による特訓が始まった。
「おいおいアンちゃんよ。そりゃ包丁じゃなくて鈍器だ。大根を叩き潰してどうする」
「申し訳ありません。わたしは破壊と粉砕が得意なもので」
「というかマグ爺さぁ。言い方もうちょっとない?」
「ほうほう。アンちゃんが一生懸命なのは見てりゃわかるが、お前さんがムキになるとはのう」
レオンはそこで口をつぐんだ。
(くそっ。……なんで俺、庇ってるんだ?)
俯くハルニアの肩から、目を逸らす。
傷の経過を見るついでに、料理まで教えに来るのが最近のマグ爺の日課だった。
経過はきわめて順調だ。
――しかし。
皿を並べながら、ハルニアは隣のレオンを窺った。
(……庇って、くれた?)
棚の上の調味料を取ろうとレオンが背伸びをする。
ハルニアの方が少し高い。
「なんだよ。また俺の顔見てた?」
動揺を抑え、意地悪く覗き込むレオン。
近い。
慌てて目を逸らすハルニア。
「ち、違います」
マグ爺が水を差し出す。
「ほれ」
「「ありがとう」ございます」
二人は声を合わせ、示し合わせたように同時に受け取った。
マグ爺が呆れて天をあおぐ。
「まったく、若い奴らはこれだから敵わん」
レオンは水を飲みながら横目でハルニアを見る。
(順調だな)
彼女はもう自分を警戒していない。
耳まで真っ赤にして俯くハルニアを見て、レオンは満足げにうなずいた。
(世界を守るためだ)
(お前が頼れるのは俺だけでいい)
(その方が監視しやすいからな)
――もはや重症だった。
夕方。
片付けを終えた頃、マグ爺が窓際の小さな神棚に水を供えていた。
「エルブルース神の神棚ですね」
「ほう、わかるか? 死と再生を司る、万物の神ぢゃ」
レオンとハルニアは無言で視線を交わした。
――エルブルースの御名において。
最初の刺客たちが叫んでいた名だ。
「最近は、その教えを都合よく捻じ曲げる連中がおるようぢゃ。『黒の教会』とな」
マグ爺は肩をすくめた。
「自分たちだけが正しい。そんな連中にロクなもんはおらん。アンちゃんも関わらん方がいいぞ」
ハルニアは小さくうなずいた。
◇
夜。
マグ爺が帰った後の離れは妙に静かだった。
ハルニアは新しい部屋の化粧台の前に座っている。
花柄の櫛を手に取っては、また戻す。
落ち着くはずのそれが、今日はなぜか胸をざわつかせた。
コンコン。
「アン。起きてるか?」
返事を待つ数秒。
「……入るぞ」
扉がゆっくり開いた。
「こないだのこと、まだ……気にしてるか?」
「どの、ことでしょう」
短い沈黙。
レオンは視線を逸らしたまま髪を掻く。
「んー」
思い当たることが多すぎた。
「俺が勝手にほら……つまり、だから、……キス? 気まずかったら、そう言え」
ハルニアは彼を見つめた。
(この人は、最初、わたしを殺そうとした)
わかっている。
なのに、思っていたよりずっと優しかった。
だからこそ頼るまいとしてきた。
それなのに。
「……気にしていません」
静かな返事だった。
「ただ、まだ、よくわからないのです。あなたという人が」
レオンは苦笑した。
「俺もだよ。お前のことも、自分のことも」
窓の外では夜霧がゆっくり流れている。
二人の間に落ちた沈黙は、以前ほど冷たくなかった。
ハルニアは膝の上で櫛を握りしめる。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「うん。何でも聞いてよ」
ハルニアは紫の瞳を向けた。
怯えるような。
助けを求めるような。
そんな目だった。
「わたしの中に、何かがいる気がするのです」
櫛を握る指先が震える。
「言葉にできません。ただ、時折、自分が自分でなくなるような感覚に襲われます」
絞り出すように続けた。
「もし、それがいつか完全に目を覚まして、取り返しのつかない化け物にわたしを変えてしまったら」
一度、息を止める。
「その時は、本当に、わたしを殺してくださいますか?」
レオンは息を呑んだ。
一瞬だけ、前世の記憶が脳裏をよぎる。
本来なら、今すぐ始末するべきだ。
それが世界を救う唯一の正解。
だが。
レオンはゆっくりと手を伸ばした。
壊れ物に触れるように、冷えた両手を包み込む。
その仕草が、自分でも予想以上に丁寧になっていた。
「そんなわけないだろ」
呆れたように笑う。
「お前が化け物になるっていうなら、俺がそれ以上の怪物になってやる」
いつもの軽口のつもりだった。
でも、口に出した言葉に嘘はない。
「それで、お前の呪いを全部ぶっ壊してやるよ」
ハルニアの瞳が揺れる。
レオンは困ったように眉を下げた。
包んだ手のひらに、わずかに震えが伝わってくる。
(……なんだよ、これ)
離すつもりだったのに、逆に指に力が入る。
ハルニアは何も言わなかった。
けれど、その手を振り払うこともなかった。
その時だった。
表の道から、ガチャガチャと不揃いな足音が近づいてくる。
松明の灯りが夜霧を揺らした。
「……来客のようですね」
「歓迎できるムードじゃないな」
レオンが窓の外を覗く。
そこには十数名の私兵たちがいた。
離れの門前を取り囲んでいる。
「レオン殿! 火急の用にて参上いたしました!」
親ナツ皇国と懇意な派閥の貴族。
サルシュ伯爵の一団だった。
「聞けば、レオン殿は出自の知れぬ女をこの離れに匿っておられるとか。ナツ皇国のスパイである可能性、看過できませぬ。」
「今すぐその女を引き渡していただきたい」
(第7話・完 ―― 第8話へつづく!)




