第4話:アンは俺の嫁(仮)
離れの朝は穏やかに明けた。
前夜の激しい頭痛が嘘のように、ハルニアの意識は冴え渡っている。
(あの声。あの痛み。黒い鱗。一体わたしは、何者なのだ)
ハルニアは窓の外を見つめていた。
その時、後ろから軽い声がした。
「おはよう、アン。昨夜はよく眠れたかい?」
振り返ると、レオンがベッドの端に腰を下ろし、いつもの陽気な笑みを浮かべている。
「……一つしかないベッドに、なぜあなたが?」
ハルニアの口調は、もはや刃物。
「狭いベッドで身を寄せ合って眠るのも、愛を深めるための大事なステップだよ?」
そうおどけて、一歩踏み込んだ瞬間――。
「――っ!?」
ハルニアが枕ごとレオンをベッドへ叩き倒した。
「わあ、積極て……っ」
気づけば視界は真っ白。
胸を圧迫する膝。
頭はマットレスに沈み込み、喉笛には容赦なく指が食い込んでいる。
「そのふざけた頭部を胴体からお別れさせましょうか、クソガキ様」
「おっと……。物騒な奥さんだね」
レオンは枕の裏で苦笑した。
(枕を盾に喉元を狙うか。発想が暗殺者なんだよな)
「誤解だ! 寒そうだったから毛布をかけただけだ! 夜はちゃんとソファで寝てたから!」
言葉の半分は枕に吸われていたが、どうにか必死さは伝わったらしい。
ハルニアは枕を引き、ゆっくり手を離す。
「アンはこれからもベッドを使いなよ。俺はどこでも寝られるからさ」
「……配慮に感謝いたします」
その時。
バタン!
「レオン、お邪魔するわね~」
明るい声とともに扉が開く。
柔らかな金髪を緩くまとめた、美しい女性が顔を覗かせた。
「ゲッ」
レオンが露骨にのけぞる。
ハルニアは女性とレオンを交互に見た。
(お母様……?)
一目でわかる。
レオンの母、エレノアだった。
エレノアの視界に飛び込んできたのは――。
ベッドの上で、息子が強引に迫っていた(ように見える)決定的な現場。
「あらあらあら……」
柔らかく微笑むエレノア。
すたすたと歩み寄る。
そして、レオンの耳を一瞬の躊躇もなくグイーーーッと真上に引っ張り上げた。
「痛い痛い痛い! 母上!?」
「レオン。お母ちゃん、あなたをそんな、女の子を部屋に連れ込んで脅迫するような卑劣な男に育てた覚えはありませんよ?」
「違うんだ母上、誤解だ! これは国家の安全保障に関わる超重要な監視で――!」
「言い訳は見苦しいです」
上品かつ強烈な拳骨がレオンの脳天に落ちる。
レオンは一瞬で涙目になり、部屋の隅へ強制排除された。
エレノアはくるりとハルニアへ向き直る。
びくりと肩を震わせるハルニア。
「可哀想に、記憶がないのね。うちの馬鹿息子が無理やり連れ込んで、本当にごめんなさい」
ハルニアは固まった。
目の前には慈愛の化身のような美女。
背後には正座させられたレオン。
どちらを警戒すべきなのか、一瞬わからない。
「アンちゃんかぁ。綺麗な名前ね」
エレノアはハルニアの顔を覗き込み、うんうんと頷いた。
「マグ爺から聞いたわよ。家事が全然できないんですって?」
「ですが現在、習得を――」
「いいのよそんなの!」
微笑むエレノア。
「アンちゃんはお菓子食べて笑ってるだけで、百点満点よ!」
「母上、甘やかしすぎでは」
「黙りなさい馬鹿息子」
(母上、騙されるな!)
(そいつはお菓子どころか世界を丸呑みする凶悪な魔女だぞ!)
そしてエレノアは、ぽんと手を叩いた。
「決めたわ! 今日からお母ちゃんと一緒に暮らしましょう!」
「なっ!?」
レオンは勢いよく立ち上がる。
「ダメだ!」
そのままハルニアの手首を掴み、自分の背中へ隠した。
「アンは俺の嫁(仮)だ!」
「まだ言うのね、その寝言」
「離れからは一歩も出さない! 部屋の片付けも、料理も、洗濯も! 全部、俺がこいつに教えるって決めたんだ!!」
静寂が落ちた。
一息で言い切ったレオンの、あまりにも必死な顔。
「……レオン。あなた」
エレノアが艶やかに微笑む。
「アンちゃんにベタ惚れだったのね」
「っ……!!!」
真っ赤になって硬直するレオン。
(……俺は今、なんて言った?)
その様子を見て、エレノアは満足そうにうなずいた。
ハルニアは密かに戸惑った。
(なぜ、このクソガキはこんなにも必死なのだ)
その背中が、なぜか頼もしく見える。
だが、すぐに視線を上げた。
(この人なら、動ける)
「エレノア様」
「はい?」
「一つ、お願いがあります」
エレノアが目を細めた。
ハルニアは真っ直ぐに視線を向ける。
「わたしの身元を、調べていただきたいのです」
「……え?」
「記憶がありません。自分が何者なのかもわからない。ただ保護されているだけの身です。もし可能でしたら、わたしの出自や、なぜこの杜にいたのかを調べてください」
部屋の空気がわずかに変わる。
――それから、もう一つ。
杜の奥にある、白い祠のこと。
あの場所についても、何か知っていることがあれば。
「アン……?」
レオンが振り返った。
ハルニアは続ける。
「調べていただけるなら、わたしは逃げません。ですが、結果は必ずわたしに教えてください。隠し事はなしです」
一拍置く。
「もし私を子供扱いして真実を伏せるなら、この取引は破棄します」
それは、明確な対等な取引だった。
ただ助けを乞うのではない。
自分の運命を掌握するために、自らの意思でカードを切っている。
(この子、……おもしろいわ)
エレノアはしばらくハルニアを見つめていたが、やがて深くうなずいた。
「……わかったわ。調べましょう。結果は必ずあなたに伝えます」
「母上!?」
レオンの顔から血の気が引く。
「レオン。この子は自分の足で立とうとしている。応えてあげるべきよ」
ハルニアは静かに頭を下げた。
(これで、一歩)
するとエレノアは艶やかに微笑み、上品かつ嵐のように部屋を後にしたのだった。
◇
入れ替わるように、若い給仕の男が入ってきた。
「レオン様、マグマ様からの差し入れにございます」
銀のトレイに、二つのカップが並べられる。
清涼で甘い、ハーブの香り。
レオンが何気なく手を伸ばした、その瞬間――。
パシィン。
ハルニアが、レオンの手首を鋭く叩き落とした。
「……何すんのさ、アン?」
(第4話・完 ―― 第5話へつづく!)




