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第3話:物騒な奥さん

 夜の離れ。

 扉の向こうの足音が遠ざかる。

 レオンが去ったことを確認してから、ハルニアはゆっくりと短剣を下ろした。


(……甘い)


 わたしをここに留めておけると、本気で思っているらしい。


 ハルニアは足音を消して窓辺へ近づいた。


 北東の水源。

 西の斜面。

 指先で霧の流れを追いながら、静かに目を細める。


(わたしが最初に意識を取り戻した場所。あそこを見なければ)


 うなじの奥がわずかに疼く。

 ハルニアは窓を閉じた。


(情報が足りない。一体わたしは何者なのだ)


 短剣を枕の下へ滑り込ませる。

 目を閉じ、頭の中で杜の地図を反復させた。


 ◇


 昼の柔らかな光が、水の杜の白銀の木々を照らしていた。

 レオンは見回りで忙しく動き回っている。

 ハルニアは少し離れた木陰で、その様子を眺めていた。


 レオンの肩には、白黒のハチワレ猫――にしか見えない神獣プル。

 周囲には十数体の小型竜たちが集まり、果実を頬張っている。


(……不思議な光景)


 竜とは、もっと凶暴で巨大で禍々しい存在だった気がする。

 だが、ここにいる竜たちは杜の守り手のように穏やかで、知的な瞳をしていた。

 ハルニアの胸の奥が、ざらりと波立つ。


(なぜ、わたしは竜に既視感を覚えるのだ?)


 懐かしいような、恐ろしいような。

 言葉にできない感覚が、うなじの裏を走った。


(この杜の奥に、何かもっと大きなものが眠っているような……)


 黒い何かが、じりりと疼く。

 まるで、その眠りに呼応するように。

 応えてはいけない、と本能だけが警告していた。


 その日の午後。

 ハルニアはレオンの目を盗み、自分の記憶が始まった場所――水の杜の一角へ向かっていた。


 苔むした石段の先に、白い石造りの祠が佇んでいる。

 大陸の建築様式とは明らかに違う。

 継ぎ目のない滑らかな石肌。

 その入口だけが、新しい木の扉で塞がれていた。


(――直された?)


 記憶では扉は壊れ、入口は剥き出しになっていた。

 指先で扉の縁をなぞる。

 隙間から冷たい空気が漏れてきた。

 膝をつき、隙間へ視線を近づけようとした、その時。


「――何してんの、アン」


 背後から声がかかり、ハルニアの肩が小さく跳ねた。

 振り返ると、レオンが立っている。


「少し、散歩を」


「こんな遠くまで、散歩?」


 レオンの視線が、一瞬、祠へ向いた。


「霊気が濃い場所なんだ。慣れてないと、あてられる」


 ニコニコしながら、ハルニアの手を取る。

 そのまま祠から強引に引き離すように歩き出した。


「自由に動けないなら、せめて理由を教えてください。理由のない拘束は、保護ではなくただの監禁です」


「理由……、ね」


 レオンは少し考え、再びにっと笑った。


「そりゃ、惚れてるからだろ」


「嘘ですね。あなたは、わたしを殺そうとしました」


 するとレオンは笑顔のまま首を傾け、下からハルニアを覗き込んだ。


「……本気だったら、どうする?」


「……っ」


 ハルニアの足がわずかに止まり、紫の瞳が揺れた。

 昨夜のように切り返せない自分に、ハルニア自身が戸惑った。


 その純粋な反応に、レオンは一瞬だけ言葉に詰まる。

 予想外だった。


「……なんてな」


 笑って誤魔化し、レオンは視線を逸らした。


「本当の理由は、お前が危険だからだよ」


「危険。わたし自身が、ですか」


「そ。だから目の届くところに置いとく。それにさ、アンを守るためでもあるんだぜ」


「守る?」


「うん。……俺が惚れた女だからな」

 

 またいつもの陽気な笑顔。


 突然襲いかかってきたあの三人の刺客。

 それ以上に恐ろしかったのは目の前の少年だった。

 だが今は、殺意と監視の間で何かが揺れて見える。


(わたしは、自分が何者なのか知りたい。この少年はその鍵を握っている)


 強く腕を引かれる。

 ハルニアは目の前を歩くレオンの背中を見つめた。


(……なら、今はまだ、ここにいる価値はある)


 ◇


 離れに戻ると、マグ爺が顔を出した。


(……昨晩は坊主に格好ええことを言ったものの、この娘をこのまま遊ばせておくわけにもいかんしな)


「アン。飯の支度くらい、自分でやってみい」


(まずは普通の人間として扱ってみるか)


「承知いたしました」


 数分後。

 調理場から紫色の煙が噴き上がった。

 器の中のスプーンがぐずぐずと溶けていく。


「料理をしろと言ったのだ!! なぜ禁忌の即死毒を錬成しておるーっ!?」


「いえ、栄養バランスを考慮したお粥ですが」


 炭と化した肉を前に、ハルニアは肩を落としていた。

 レオンは炭をつまみ上げる。


「へえ、新しい調理法?」


「食べないでください!」


 慌てる姿に、レオンは吹き出した。


(これが世界を滅ぼした女かよ)


 ハルニアはひそかに唇を噛む。


(この手は、壊すことしか知らないのか)


 夕暮れの庭で、ハルニアは不慣れな手つきで洗濯物を干していた。

 物陰からその様子をじっと見つめるレオン。


(世界を守るためだ。俺なしじゃ生きていけないようにしてやる)


 胸元から顔を出したプルが、半目でレオンを見上げ、呆れたように囁いた。


「レオン〜。さっきから顔が緩みっぱなしなのぉ。世界を守るためっていうより、ただの職権乱用よねぇ」


「しっ。これは魔力の波紋を分析しているんだ」


「ぶふんっ。便利な言い訳なのぉ」


 レオンはプルの頭を無理やり服の中へ押し込め、咳払いを一つした。


(いつでも殺せる、か)

(……本当に、俺は今、あいつを『災厄』として見ているのか?)


 ただ、夕日に照らされた彼女の横顔から目が離せなかった。


 ◇


 その日の夜。

 夜霧が離れの窓を白く染めていた。

 ベッドの縁に腰掛け、夜空を見上げていたハルニアは、突如として激しい異変に襲われた。


「――くっ……あ、が……っ!?」


 視界が真っ赤に染まる。

 脳裏に、見知らぬ男の声が直接響き渡った。


『――竜を継げ、ハルニア。お前は、最高の器なのだから』


「だ、誰……。わたしは……わたしは……っ!」


 激しい頭痛。

 腹の奥底から湧き上がる禍々しい魔力の脈動。

 ハルニアは頭を抱え、ベッドの上に崩れ落ちた。


 離れの扉のすぐ外。

 夜の巡回から戻ったレオンが、その悲鳴を聞いて慌てて家へ飛び込む。


「アン!?」


 ハルニアの体がびくりと跳ねた。

 荒い息のまま、ゆっくりと顔を上げる。


 ――紫の瞳の奥に、一瞬。

 燃えるような赤。


「……ク、ソガキ……?」


 か細い声でレオンを呼んだ次の瞬間。

 瞳は元の紫へ戻り、彼女は意識を失った。

 駆け寄って抱きとめたレオンは、息を呑む。


 彼女のうなじに一瞬だけ浮かび上がって消えた――それは、黒い鱗のような紋様だった。


(……もう、始まっているのか)


 淡い月明かりの下。

 腕の中で眠る彼女の白いうなじを、震える指でなぞる。

 そこに鱗の感触だけが、冷たく残っていた。



(第3話・完 ―― 第4話へつづく!)




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