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第29話:世界が二人を引き離しても

 

 洗脳の儀式は、執拗に繰り返された。

 満月の夜が来るたび、ハルニアの正気が削られていく。

 地下聖堂の冷たい石床。呪いの声が響く。


 ――お前は捨てられた。

 ――誰も助けに来ない。


 床に両手をついたまま、荒く息を吐く。


 はぁっ……はぁっ……っ。


 術式が背中に食い込むたび、芯から黒い熱が湧く。

 世界を焼き尽くせ、と内側が囁く。


「……だ、め……」


 抵抗しようと歯を食いしばった瞬間、神経を焼く激痛が走る。


「が、あっ……っ!」


 膝が折れ、床に崩れる。爪が石を引っ掻き、掠れた呻きが漏れる。

 気力ごと、削ぎ取られていく。


(……あの人の顔が、また少し霞んでいく)


 視界が歪む。もうだめかもしれない。


「ハルニア、何がおまえを頑なにさせるのか」


 ふっと痛みが引き、頭上から穏やかな声が降ってきた。

 儀式を終え、監禁部屋の冷たいベッドへ倒れ込んだハルニアを見下ろし、ヴェルディが静かに跪く。


「あの男のせいか?」


 穏やかな表情で、重厚な書状を示す。


「ハル国から正式な抗議文が届いている。『皇女ハルニアの身柄を返還せよ』とな」


「ハル国が……っ」


「事実だ。だが、よく考えてみるといい」


 ヴェルディは静かに続けた。


「それは国家の要求だ。レオンガルド個人が、お前のために何かを求めたわけではない」


「――っ!?」


「彼が動かしたいのは国だ。お前自身ではないのだ」


 そう言い残し、ヴェルディは去っていった。


(レオン様がわたしを、政治の道具としてしか見ていない……?)


 首を振る。


(ちがうっ! あの日、戦場で合ったあの目は、わたしを探していた)


 そのとき、声が脳裏を貫いた。


『お前は自分の意思で、その力を抑え込んでいる。

 化け物なんかじゃない。すごいことだよ、ハルニア』


 星空の下で、うなじに触れた指先、低くて優しい声。


「……レオン、様……」


 額を床に押しつけ、指先に力を込める。

 のたうち回りたくなる恐怖を、無理やり止める。


(私は……自分の意思で、抑えた)


 言葉が、気力の底に細い杭のように打ち込まれる。


「……飲まれない」


 荒い息のまま、上体を起こす。

 汗が額を伝っても、紫の瞳だけは、その言葉を握るように前を見ていた。


(化け物じゃない。あなたが、そう言ってくれたから)


 息を整え、考える。

 お兄様が希望を潰しに来るのは、何かが動いたとき——。

 交代の看守が、声を潜めた。


『南の国境は膠着したままだとよ。殿下も皇都を空けられん』


 ハルニアは冷たい床に座り込んだまま、息を整えた。


(国境が、止まっている。レオン様が、そこにいる)


 土煙の向こうで交わした、一瞬の視線。

 膝の上で、指を一本ずつ折る。


(数え続けろ)


 階段。扉。曲がり角。

 記録を残すことは、もう諦めた。

 唇が、声にならない報告を動かす。


(レオン様。間もなく一巡します)


 抱き締められた温もりも、絡めた指も、唇の熱も、まだ残っている。

 彼が探していた視線だけは、誰にも渡すつもりはない。


 ◇


 国境の駐屯地。

 水汲みの列で、聞き慣れた声がした。


「――嘘だろ」


 ガイウスが、呆然とレオンを見ている。

 視線の高さが、ほぼ同じだ。


「市場で会った時は、俺より低かったよな……?」


「悪いな。追い抜くのは、最初から分かってた」


「くそっ、俺だってまだ伸びる予定だってのに……! 待て、その顔は何だ。女の扱いまでスマートとか言うなよ? 中身は純情であってくれ、立つ瀬がねぇ!」


「うるさい。水汲め」


 レオンはガイウスの額を叩いて押し返した。

 大騒ぎするにやけた顔に、回帰前、自分を庇って死んだ顔が重なる。


(軍には、入れたくなかった)


 だがガイウスの夢は、将来近衛隊長になる事だ。

 そのためには戦場での実績が近道なのだ。


「お前が前線で睨んでるせいで敵も来ねぇし、こっちは暇なんだよ!」


「知るか。仕事に戻れ」


(お前の夢を、俺が奪う権利はない)

(俺が、未来の惨劇を変えればいいだけだ)


 声を上げて笑い、苦い記憶をその下に押し込む。

 だが夜になると、焦燥が戻ってきた。

 ロシャールの手紙は、相変わらず短い。


『変わりないか。こちらも特に進展なし』


 ――まだ、見つからない。


 雪が国境の岩原を白く染める夜。

 簡易ベッドの上で、レオンは毛布にくるまっていた。

 指先には、ハルニアが残した誓いの指輪。


 冷たく小さなその輪を、親指でゆっくりと撫でる。

 彼女の指が嵌っていた感触を、思い出そうとする。


 細い指。

 温かな肌。

 指を絡めたときの、かすかな震え。


「……アン」


 指輪を顔の近くまで持ち上げる。

 夜気に晒された金属の冷たさが唇に触れ、そのまま、そっと口づける。

 胸の奥が、熱く疼いた。


 一度知ってしまったからだ。

 あの温もりを。


(くそっ、今思い出すか……?)


 会えない。触れられない。声も聞けない。

 彼女は、今も自分を想ってくれているだろうか。

 それとも。

 この想いを抱えているのは、自分だけなのだろうか。


「レオン……?」


 毛布の中で丸くなっていたプルが、眠たげに顔を覗かせる。


「……喋るな、お前は寝てろ」


 レオンはベッドから起き上がった。

 その勢いでプルがひっくり返る。


(アン……今、お前はどこで何をしてる)


 あの日、確かに目が合った。

 生きていた。

 それだけは分かった。

 だが、それ以上のことは、何一つ分からないままだった。


 その夜も、凍える天幕の外でレオンが剣を振る音が一晩中響いた。


 ◇


 満月は、何度も巡った。

 レオンは国境で剣を振り、ハルニアは戦場から戦場へ転送された。


 雪が降り、春が来て、また雪が降った。


 その間に言葉を交わせたことは、一度もない。

 それでも。


 指の指輪と、一瞬の視線だけは、消えなかった。

 世界が二人を引き離しても。



(第29話・完 ―― 第30話へつづく!)


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