第30話:俺も、全部やる
「化け物め! 喰らえッ!」
国境前線から遠く離れた北陵の砦。
反乱軍が一斉に火炎を放つ。
爆炎がハルニアを包み込んだ。
誰もが勝利を確信した、その刹那。
パキィィィン!
澄んだ破砕音が響く。
炎が晴れた中心で、ハルニアは無傷のまま立っていた。
黒い氷の防壁が、彼女を守っていた。
黒竜の爪が一閃する。
黒い氷の棘が地を突き、兵士たちを貫いた。
一瞬で、凍土の彫刻へと変わる。
「ひ、ひぃぃ! 化け物だ!」
「退け! 退却せよ!」
逃げ惑う兵を、ハルニアは無表情に見下ろしていた。
満月の夜の黒い呪詛が、精神を歪んだ正義で蝕んでいる。
だがその裏で、自己嫌悪と精神の摩耗が進行していた。
(また、人を殺した……。わたしが?)
手が、勝手に動く。魔力が膨れ上がる。
自分が、自分から締め出されていく。
(違う、わたしじゃない。誰か、止めて……!)
レオンが国境に現れて以来、ナツ皇国軍は一歩も前進できずにいた。
その事実が頭をよぎった瞬間、赤い瞳に一瞬だけ紫が戻る。
――わたしはまだ、飲まれない。
それは誰にも見えない、短い抵抗だった。
◇
「見ろ。あれこそ、生意気なレオンガルドを打ち破り、ハル国を屈服させる竜の化身だ」
水晶越しに戦場を眺めながら、ヴェルディは傍らの司祭たちへ視線を向ける。
「しかし殿下……」
白髪の老将軍が、言葉を選ぶように口を開いた。
「計画が遅れているにも関わらず、兵の一部は、『あれはもう人ではない』と。」
「黙れ!!」
ヴェルディの拳が机を叩きつけた。
優雅な仮面が剥がれ落ち、苛立ちが露わになる。
「力の定着が遅い。儀式を重ねても、器が完成しない」
誰も口を開かなかった。
ただ、沈黙だけが室内に広がっていく。
「次の儀式で終わらせる」
吐き捨てるように言う。
「祖国を守る黒竜姫。民衆がそう思えば、それが真実になる。遅れなど認めん!」
その傍らには、無言の男が立っていた。
沈黙の預言者。
深淵のような黒衣に、白銀の刺繍。豪奢な毛皮の襟。
目元を覆う白銀の仮面。
その手には、黒い革表紙の本。
男は一言も発しない。
ただ水晶の向こう、黒竜の力を振るうハルニアを見つめている。
まるで、その結末をすでに知っているかのように。
◇
数日後。
皇立黎明学術院、皇族専用の特別室。
普段は優雅な茶会や談笑に使われるその部屋で、ヤマロメは怒りに震えていた。
昼間の愛らしい笑顔はどこにもない。
「反吐が出ますわ……!」
机に叩きつけられた極秘文書。
そこに書かれていたのは、黒竜計画の全貌だった。
『ハルニアの完全竜化実験を、次の和平交渉の場──国境沿いの古代聖域にて強行する』
『制御可能な竜の化身となれば成功』
失敗した場合の予備候補。
『第二皇女 ヤマロメ』
「わたくしまで使い潰す気ですの……?」
ヤマロメは唇を噛み締めた。
ハルニアに同情しているわけではない。
「ふざけないでくださいまし。わたくしはロシャールと平穏に暮らしたいだけですのに」
隣でロシャールが静かに頷く。
書類をめくる手が、ふと止まった。
「……ヴェルディお兄様の生母の記録まで」
ヤマロメが呟く。
古い宮廷記録の写しだった。
『第三妃、その聡明さと慈愛により、崩御された今なお民に慕われる』
「違いますわね。……これは、ハルニアお姉様の母上」
チラリと見たものの、ヤマロメはすぐに書類を脇へ避けた。
「関係ありませんわね。今は竜化実験の話ですわ」
ロシャールは黙って文書をまとめると、机の引き出しから一枚の便箋を取り出した。
「レオンに知らせる」
万年筆を走らせる手は、いつもより速い。
『……たまには遊びに戻って来い。ロシャール』
一見、他愛のない近況報告。
だが行間にひそむ意味を、レオンなら読み違えないだろう。
◇
国境の陣中。
「殿下、便りが届いております」
伝令兵から手渡された封筒を、レオンは笑顔で受け取った。
「おう、ありがとな」
「学院のご友人からですかな」
「ああ、暇な奴でさ。しょっちゅう手紙をよこすんだ」
軽い調子でひらひらと振ってみせ、天幕の奥へ引っ込む。
垂れ幕が下りた瞬間。
レオンの表情から、笑みが消えた。
封を切る指先が、わずかに震える。
一読。
二読。
「……っ」
握り締めた便箋が、くしゃりと音を立てた。
「レオン……?」
膝の上で丸くなっていたプルが、耳をぴくりと立てる。
「黒竜計画の全貌が分かった、だとよ」
低い声だった。
「祭壇に捧げて、精神を壊す。それが成功でも失敗でも構わないと、あの兄は言ったらしい」
(そういうことだったのか……)
黒竜姫は、ただ目覚めたわけじゃなかった。
人為的に作られていた。
ーー俺を、倒すために。
「そんなの、酷すぎるのぉ!」
レオンの体から天星の神力が漏れ、大きく脈打つ。
天幕の布地が、びりびりと震えた。
「レオン……っ!」
「ああ、悪い」
深く息を吐き、無理やり力を逃がす。
(こんな顔、外では絶対見せられねぇ)
レオンは便箋の続きに目を落とした。
追伸として、走り書きが添えられていた。
『儀式の場は、国境沿いの古代聖域のどこかだ。
ヤマロメ嬢は、兄の計画も教会も全部叩き壊すと息巻いている。俺も手を貸す。
――お前はどうする』
答えは、聞くまでもなかった。
レオンは震える手で、返事をしたためた。
『決まってるだろ。俺も、全部やる』
短く、けれど迷いのない一文だった。
封をし、伝令兵を呼ぶ。
天幕を出た瞬間、レオンの顔には、またいつもの気さくな笑みが戻っていた。
「悪い、ちょっと友人が長ったらしい愚痴を書いてきてな」
「殿下も大変ですな」
「まったくだ。……さて、飯にするか」
何事もなかったかのように、陣中を歩き出す。
その背中に滲む焦燥に、気づく者は誰もいなかった。
決戦の舞台は、国境沿いの古代聖域。
すべてを取り戻すための決戦が、いま始まろうとしていた。
(第30話・完 ―― 第31話へつづく!)




