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第27話:お兄様の傀儡にはならない

 

「……っ」


 ――そこに、ハルニアの姿はなかった。

 残されていたのは、まだほんのり温かいベッドだけだ。


「……アン!」


 レオンは駆け寄り、シーツを掴んだ。

 壁に揺らめく黒い魔力の残り香。

 空間を捻じ曲げる魔道具の痕跡だ。


「くそ、一歩遅かった……!」


 レオンは拳を握り締める。

 その時、机の上に引き裂かれた紙切れがあることに気づいた。


 震える文字。

 ハルニアの筆跡だった。

 地下水路の略図と、護送ルートの走り書き。


『満月の三日後、警備が最も手薄になる刻限――』


 略図の余白には、小さな印が並んでいた。


(……脱出路の下見か)


『死んでも、お兄様の傀儡にはならない。』

『――もう一度、あの人に会えたなら』


 そこで文章は途切れていた。

 乱暴に引き裂かれた痕跡。連行の途中だったのだろう。

 レオンは紙を強く握り締めた。


「……馬鹿野郎」


 喉の奥から声が漏れる。


「一人で背負おうなよ、アン……!」


「ハルニアちゃん……どこなのぉ……?」


 鞄の中でプルが泣きそうに鼻をすする。


「……必ず見つける」


 レオンは紙切れを懐へ押し込み、豪雨の夜へ跳び出した。


 ◇


 それから数日。学術院の空き教室。

 ロシャールの情報網をもってしても次の足取りは掴めず、レオンは焦燥に耐えていた。


 その時――窓辺に一羽の伝書魔鳥が舞い降りた。

 脚の筒に押されていたのは、ハル国宰相府の印。


『軍部より報告あり。国境近郊にて、黒竜の力を用いるとされる騎士を確認。

 現地部隊との交戦により、甚大な被害が出ている模様。

 事態を重く見た宰相府は、殿下の一時帰還を緊急に要請する。』


「アンが……!」


 黒竜の力。指すものはひとつしかない。


「きゅぅっ! ハルニアちゃん!?」


「行くぞ、プル」


 ◇


 国境の砦に、地鳴りのような歓声が響き渡った。


「レオンガルド殿下が到着されたぞ!」


 その一声だけで、疲弊していた兵たちの顔が上がった。


「これで勝てる!」

「われらの勝利は確定だ!」


 歓声が波のように広がっていく。

 だが、一部の新兵は戸惑いを隠せなかった。


「勝てるって……?」


 なにしろ陣営に現れたのは、どう見てもまだ十代半ばの子供だ。

 隣の古参兵が鼻を鳴らす。


「クロン渓谷の戦いを知らねぇのか」


 その一言に、新兵は息を呑んだ。


 指揮官の号令で、駐屯兵たちが一斉に敬礼する。

 重苦しい空気と血の匂いが充満する陣幕の中で、レオンは短く頷き、地図の前に立った。


「状況は」


「はっ。ナツ皇国軍と思われる武装集団が、国境沿いの集落を襲撃。応戦した我が方の部隊が、正体不明の黒竜騎士に一方的に蹴散らされました」


「……被害は」


「死者多数。負傷者も後を絶ちません」


 指揮官は拳を握り締めた。


「現場に残された痕跡から見て、黒竜騎士が本気を出せば、次は駐屯地ごと飲み込まれます」


 レオンは黙って聞いていた。


(アンなのか。それとも、別の何かなのか)


 喉の奥が、ひりつく。


「それと――もう一件ございます」


 指揮官の表情が、さらに曇った。


「何だ」


「皇都で、謎の魔導攻撃があったそうです」


「それで?」


「ナツ皇国は『ハル国の尖兵による宣戦布告』と発表しました。それを口実に、国境への圧力を強めています」


 レオンの喉が、小さく鳴った。


(……それ、俺じゃん!)


 顔は動かさなかった。

 一ミリも、動かさなかった。


 足元の鞄がもぞりと揺れ、隙間からプルがジト目で顔を覗かせる。


「……レオン」


「……黙ってろ」


 唇を動かさずに返す。

 冷や汗が、背中をつうっと滑り落ちた。


「このような卑劣な口実で、民を戦に巻き込もうとは……!」


 怒りに震える指揮官に、レオンは絞り出すような声で言った。


「……ああ。全く、酷い奴がいるものだな」


(ただの陽動のつもりだったのに、宣戦布告の口実にされるとは……!)


 だが、すぐに思考を切り替える。皇都の件は後だ。


「だが、殿下がここに留まってくださるなら、兵の士気も上がります」


 指揮官が、縋るように言った。

 レオンは短く息を吐き、地図の黒点を見据える。


「つまり、黒竜騎士は、また現れる可能性が高いんだな」


「は、はい。その可能性は高いかと」


「わかった。留まろう」


 指揮官が、安堵の息を吐いた。


「ご理解いただき、感謝します」


 深々と頭を下げる指揮官の頭上で、レオンの視線は、地図の上の一点を貫いていた。


(アン――)


 その瞳に宿る執念を見て、プルはそっと目を瞑った。


「……絶対、違う理由なのぉ」


 だが、その呟きを聞く者はいなかった。


 ◇


 音が、遠い。


 悲鳴も、剣戟も、崩れる瓦礫の音も。

 まるで分厚い水の底から聞いているようだった。

 黒い爪の先に、また一人。


「ば、化け物だ……!」


 その言葉にも、何も感じない。

 ハルニアの身体は、また新しい戦場の上に立っていた。


 血に濡れた頬。焦点の合わない赤の瞳。

 ――けれど、目だけが、何かをなぞるようにときおり動いた。


「次の戦場へ向かうぞ」


 灰色のローブの司祭が、冷たく告げる。

 ハルニアの唇が、かすかに動く。

 声にはならない。


「……まだ、呪詛を呟いているのか。洗脳が進んでいる証拠だ。放っておけ」


 誰も、それ以上は気に留めなかった。

 ハルニアは、また闇の中へ消えていった。



(第27話・完 ―― 第28話へつづく!)

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