第25話:嫌いになれないタイプのバカ
――どっと、笑いが弾けた。
皇都最高峰を誇る名門、黎明学術院。
貴族が集う豪華な食堂では、いびつな笑い声が響いていた。
ハルニアが結界の中でひとり座り込んでいた、まさにその頃。
ヤマロメはさらに畳み掛けた。
「婚約者の手首一本掴めず奪い返されるなんて、男としてこれ以上の恥がありますの?」
くすりと笑う。
「わたくしなら恥ずかしくて湖へ飛び込みますわ」
取り巻きたちが、また一斉に吹き出した。
自分の噂話だ。
レオンは、頭を抱えた。
(お前がその舞台を作ったひとりだろうが)
「レオン、我慢我慢なのぉ……ぷふっ」
鞄の中から、笑いを堪えているような声が聞こえた。
レオンは奥歯を噛み、スプーンを握る手に力を込めた。
だがヤマロメの声はまだ止まらない。
それどころか、わざわざレオンの隣へ腰を下ろした。
「あら、隣国から流れてきた貧乏商人の倅さん?」
扇子の先がレオンのスープを指す。
「随分と薄汚いスープを召し上がっていらっしゃること。我が皇都の最上層区では、そんな泥水、家畜の餌にもいたしませんわ?」
「……」
「育ちもあまりよろしくないようですし。躾けてくださる方もいなかったのでしょうね」
「……こんの、クソアマ……っ!」
レオンはゆっくりとスプーンを置き、顔を上げた。
――その一瞬だけ。
灰色に染めた髪の奥から、レオンの素顔が露わになる。
『……っ』
『誰……?』
『没落家系、にしては……』
食堂の端で、女子生徒たちの視線が一点に集まった。
噂の大間抜けの話など、もう誰も口にしていない。
「躾、か」
目の前の高貴な皇女サマを、ゴミでも見るような目で見つめる。
「俺は親から、人の食事を馬鹿にするなって教わったな」
レオンはふっと小さく鼻で笑った。
「お前のところは違ったらしい」
ヤマロメの扇子を握る指先がぴくりと震えた。
取り巻きたちの表情が、一瞬で凍りつく。
そして次の瞬間。
バシィィィッ!!
「ぐへっ!?」
白い革手袋がレオンの顔面に叩きつけられた。
「そこまでにしろ。不敬者」
低い声が響く。
ヤマロメの背後に立っていた長身の生徒だった。
黒と金を基調とした制服が浅黒い肌によく似合う、どこか異国の王子のような雰囲気。
レオンは目を細める。
(……あの時の男か)
馬車の窓を閉め、自分の視線を遮った赤髪の青年。
「殿下を愚弄することは、このロシャール・アル・ヴァリードが許さない」
周囲の生徒たちが一斉に距離を取った。
「名を名乗れ。決闘を申し込む!」
「け、決闘ぉ!?」
鞄の中でプルが泡を吹く。
レオンは手袋を静かに拾い上げた。
(ヴァリード家の次期当主……! これは、大物が釣れたな)
一回り以上高い位置にある、ロシャールの視線。
鍛え上げられた肩幅と隙のない圧巻の立ち姿。
(面白い)
レオンは手袋をぐっと握り潰した。
「いいだろう、俺はレオン。受けてたつ」
歓声とどよめきが食堂を揺らす。
真っ向からぶつかり合う視線と視線の間に、鋭い火花が散った。
大勢のギャラリー、皇女ヤマロメの目、そしてヴァリード家の次期当主。
(乗るなら、ただでってわけにはいかねぇな)
「条件を決めようぜ」
レオンは煽るように口角を上げた。
「何?」
「俺が負けたら学園を去る」
レオンは一歩近づき、ロシャールにだけ届く低音で囁いた。
「俺が勝ったら、ハルニア皇女の居場所を調べろ」
「……ッ!?」
ロシャールの眉が跳ねあがる。
一瞬で目つきが変わり、鋭い眼差しでレオンを見据えた。
(こいつ……ただの没落商人じゃない!?)
だが、周囲の手前引くわけにはいかない。
ロシャールは鼻で嗤ってみせた。
「いいだろう。その条件を飲んでやる」
「決まりだな。外に出ろ」
ロシャールが踵を返す。
食堂を出る二人を、学生たちが我先にと追いかけていった。
昼のうららかな中庭の片隅。
ロシャールの微かな殺気が濃くなっている。
やがて、ゆっくりと袖をまくり上げる。
その動きに、先ほどまでの苛立ちはない。
腰を落とし、隙のない半身に構える。
(……構えは悪くない)
足運びにも無駄がない。
「レ、レオン! 実力の差ってやつを見せつけてやるのよぅ!」
鞄の中でプルがぶるぶる震えながら、隙間から顔を覗かせる。
ロシャールの目が鋭く光った。
次の瞬間。
「――ッ!」
先にロシャールが踏み込んだ。
右拳が唸りを上げ、一直線にレオンの顔面へ迫る。
(ここは適当にあしらって、今後いいように使ってやろう)
目を逸らすことなくゆっくり身構えるレオン。
ところが。
「あ!?」
避けてもいないのに。
ロシャールの拳は、レオンの頬の数センチ手前をすいーっと通過した。
「ぐあああああああっ!?」
全力を込めた拳が空を切る。
ロシャールは勢い余って噴水へと豪快にダイブしていった。
バッシャーン!!
「……お、おい」
水飛沫に、レオンは思わず一歩後ずさった。
(いったいどういうことだ……?)
「うっ……ぐっ……」
噴水から這い上がり芝生の上で呻くロシャールを、レオンは呆然と見下ろす。
「おい、大丈夫か」
「まだだ……!」
ロシャールは前髪から滴を垂らしたまま立ち上がる。
再び拳を構え、芝生に滑って転倒する。
「やめとけって。ほら、鼻から血が出て水と混ざってるぞ」
レオンはハンカチを取り出した。
「返さなくていいから」
「黙れ! 俺は、まだ立てる」
(演技か? 俺の油断を誘っているのか……?)
鞄の中で震えていたプルが、そっと様子を覗き見る。
三度目の転倒で、観客の声援は消えた。
五度目に芝生へ突っ込む姿はヤマロメすら目を逸らした。
(こいつ、まさか……!)
「きゅうぅ、バカなのぉ?」
「……」
「なぜ避ける」
「避けたつもりはねぇ!!」
「俺の拳を見切る反応。お前、何者だ」
「見切るまでもねぇ!!!」
鞄の中ではプルが息も絶え絶えにのたうち回る。
ロシャールは鼻血を拭った。
「……まあいい。今日は見逃してやる」
「負けたお前が言うのか、それ」
いつの間にか周囲は人だかり。
レオンは濡れた前髪を、鬱陶しそうにかき上げた。
その瞬間。
渡り廊下の女子が、息を飲んで立ち止まる。
『きゃあああっ!?』
『なにあの美形ふたり!?』
だが二人とも慣れているのかまるで気づいていない。
「レオン、と言ったか?」
「なんだ、ロシャール」
「放課後、礼拝堂の裏に来い」
レオンの目が輝いた。
(おおっ、もう賭けの報酬が手に入るのか!?)
ハルニアの居場所。
期待に胸が躍り、思わず全身の毛が逆立つ。
「あと、ヤマロメには近づくな。あいつは俺の……」
言い終える前にロシャールの顔がみるみる赤くなる。
「……っ、何でもない!」
踵を返し、そのまま足早に去っていった。
「本物のバカなのぉ……」
「だな」
そういうレオンの口元は少しだけ緩んでいた。
(でも、嫌いになれないタイプのバカだ)
去っていく背中が向かう先。
――渡り廊下の反対側で、扇を閉じる音がした。
ヤマロメの顔からは、一切の笑みが消えていた。
◇
その頃。
皇都最深部の『封印区画』。
ハルニアは窓辺に立ち、差し込む月光を見上げていた。
「……月が」
欠けていた月が、今夜、満ちる。
その光を浴びた瞬間、左手首の竜の爪がずくりと疼いた。
「な……に、これ……」
胸の奥で何かが目を覚まそうとしている。
やがて、重い鉄扉の向こうから足音が響いた。
「――満月だ。今宵、あの小娘に眠る黒竜の力を引きずり出す」
軋む音を立てて鉄扉が開く。
足を踏み入れたのは、黒の教会の司祭。
その陰から伸びる長い影が、ハルニアの身体を覆い隠した。
「……渡さない」
鎖が鳴る。
ハルニアは月光に染まる左手を強く握りしめた。
「力も、心も……お前たちには、絶対に渡さない……!」
満月の光を浴びたハルニアの瞳が、血のような赤に染まり始めていた――。
(第25話・完 ―― 第26話へつづく!)




