第24話:皇都最深部『封印区画』
水の杜からナツ皇国へ戻ったハルニアは、豪奢な自室ですでに数日を過ごしていた。
磨き上げられた大理石の床。
繊細な金細工が施された家具。
淡い魔導灯が、整然と並ぶ調度品を照らしている。
――この時、逃げるべきだった。
ハルニアはまだ、人質の安否を確かめられると思っていた。
それが彼女を長きにわたる地獄へと閉じこめることとなる。
連日盛大に打ち上がっていた花火も終わった。
ドアの向こうには、見張りの気配が二つ。
声をかけても応えない。
(律儀なことだ)
竜の目は開かない。
(マグ爺とプルちゃんの生存確認が先だ)
ずっと親代わりだった、厳しくも優しかった兄。兄の期待に応えようと、命懸けでハル国に潜入した。
だが、その笑顔が嘘だったと気付いてしまった。
(お兄様は、必ずわたしに会いにくる)
自分がここまで従順に振る舞ってきたのは、ただ一つ。
人質にされた二人を助けるためだ。
(確認しなくては)
翌朝ついに。
何事もなかったかのような笑顔で、ヴェルディが現れた。
「よく戻った、ハルニア。首尾は?」
「お話しすることはございません」
ハルニアは感情を押し殺し、淡々と告げた。
「それより、人質はどこなのです」
ハルニアの詰問にヴェルディは驚く様子もない。むしろ穏やかに頷いた。
「お前が心配するのも無理はない」
いつも通りの、優しい兄の顔。
だがハルニアは冷静だった。
(だからこそ、信じるに値しない)
側近の男が歩み寄り、水晶球を捧げ持つ。水晶球の中に、淡い光の粒子が集まっていく。
地下牢に繋がれたマグ爺と、その傍らで震えるプル。
「……ハルニア殿か」
映像の中のマグ爺が、力なく顔を上げる。
「キュゥ……ハルニアちゃん、助けてなのぉ……」
涙声のプル。
見た目も声も、間違いなくそのものだ。
だが。
「――プルちゃん」
ハルニアは静かに口を開いた。
「あの雨の夜、わたしと交わした約束、覚えていますか」
水晶の中のプルが、一瞬だけ止まった。
「……もちろんなのぉ。忘れるわけないのぉ」
ハルニアは目を細める。
(誤答だ)
本物なら、まず「ぶふんっ」としっぽを膨らませて焦るだろう。それから、「いつのことなのぉ?」と戸惑うはずだ。
迷わず「覚えている」と答えた。
約束などなにもしていないのに。
「……お兄様」
ハルニアの声から、完全に抑揚が消える。
「わたしが知りたいのは、本物の人質の安否です」
水晶の映像が、ふつりと途切れた。
沈黙。
ヴェルディは悲しげに眉を寄せた。
痛ましいものを見るような、いつもの目だ。
「お前は本当に、聡い子だ」
「答えてください」
「さて。どうだろうな」
「――っ!」
「大事なのはそこではないだろう、ハルニア」
心の底からそう思っているような声だった。
「お前が我々に協力する限り、人質は生かしておく」
「……!」
ヴェルディは困ったように微笑み、懐から一枚の布切れを床へ放った。
ポロリと転がり出たのは、血の滲んだ小さな『爪』。
ーープルの蒼い神獣の爪だった。
ハルニアの瞳が激しく揺れ動く。
「お前が逃げれば、一本」
ヴェルディは指を一本立てた。
「命令に逆らえば、また一本。毎日、身体を削って届けてやる」
「……やめて」
ハルニアの呼吸が荒くなる。
対するヴェルディの声は穏やかだ。
「お前が大人しくしている間だけ、あの者たちは生きていられる」
「……人質を、返しなさい!」
「お前が必要なくなったら、その時に考えよう」
その答えに、ハルニアは息を呑んだ。
返す気など、最初からない。
「……っ」
これでは従うしかない。
だが――その瞬間。
ヴェルディが靴底で、床の爪を「ぐしゃり」と踏みにじった。
ふつっ。
ハルニアの中で、何かが完全に途切れた。
「あああああっ!!」
赤く染まった瞳。
竜の爪がヴェルディへ振り下ろされる。
「クク……相変わらず、御しやすい」
床の深層呪詛術式が発動した。
無数の呪縛が四肢へ絡みつき、ハルニアは床へ叩きつけられた。
それでも――ハルニアは止まらない。
「ガぁぁぁッ!!」
呪鎖を強引に引きちぎらんばかりに跳ね起きる。支柱となる大理石を粉砕し、竜の爪をヴェルディへ叩きつけた。
だが床をえぐっただけでヴェルディには届かない。
「拘束しろ! 二度と暴れさせるな!」
重なる呪詛。
もがく妹を見下ろし、ヴェルディは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だ、ハルニア。お前が壊れる時は――私がこの手で終わらせてやる」
(……お兄……様)
荒い息の中で見上げた兄。
笑顔の奥に、一瞬だけ何かが揺れた気がした。
だが、それを確かめる前に、意識は深い闇へと沈んでいった。
ヴェルディは布の残りを、靴先で部屋の陰へ寄せた。
傍らの側近が、声を潜める。
「あれは、あの猫ではございませんが」
「知っている。何年も前に、別の個体から削いだ切れ端だ」
穏やかな声のまま、ヴェルディは笑った。
「血さえ新しければ、そう見えるものだ。証拠としては十分だろう」
◇
警備体制は一気に跳ね上がり、ハルニアは皇都最深部の『封印区画』へ移送された。
竜の瞳すら通じない、完璧な結界。
整えられたベッドと机。
最低限の家具だけが置かれた、静かな個室だった。
ハルニアはベッドの端に腰を下ろす。
映像は偽物だった。
けれど、それだけでは何も確かめたことにならない。
(本物を押さえていないから、偽物を作ったのか)
(押さえているからこそ、偽物でも脅せるのか――)
マグ爺の皺も、プルの毛並みも、声の震えまでもが精密に再現されていた。
(……ならば、背景も実在する?)
鉄扉の金具。床に埋め込まれた石。壁に刻まれた浮き彫り。
そして、ぴちょんと微かな水の音。
それがどこなのか、今のハルニアにはわからない。
左腕の皮下に残る、切れたはずの絆の残り香のような熱を辿る。
「……レオン様……っ」
その呟きは、分厚い鉄扉と暗闇の底へ消えていく。
だから彼女は知らない。
その想いが届かなくとも。
彼女を探している男は、今この瞬間も皇都のどこかで騒ぎを起こしていた。
(第24話・完 ―― 第25話へつづく!)




