第21話:説教は帰ってきてからぢゃ
朝の光が、王宮の回廊に重々しく差し込んでいた。
回廊には、生々しい血が残っている。
レオンは動かなかった。
(アン……)
指輪のリンクは、完全に途絶えた。
二人の魂を縛っていた指輪は、いまや冷たい金属でしかない。
――だが。
途切れる最後の瞬間に流れ込んできた感情が、レオンの胸を焼き尽くしていた。
裏切りじゃない。
あいつはただ一人、俺たちを守るために地獄へ戻ったんだ。
その事実が、レオンの心を激しく揺さぶった。
床で、水晶の欠片が明滅した。
パチリ。
鎖で拘束されたマグ爺と、隣で震えるプルの姿が空中に浮かび上がる。
「これは……」
その時――。
「祝いぢゃ祝いぢゃ!」
中庭の噴水の裏手から、聞き慣れた声と水音。
「あの二人、昨夜はちゃんと仲良く――」
軽快な足取りで回廊に姿を現したマグ爺が、固まった。
「……坊主?」
その頭の上で、プルも目を見開く。
「ぶ、ぶふっ!?」
床に広がる血。
切断された左手。
そして、目を閉じたままその左手を額に押し当てて座り込むレオン。
プルの尻尾が逆立つ。
「な、なにがあったのぉ……!?」
水晶が映し出す偽物の映像に気付き、マグ爺の顔から色が消える。
プルの声が震えた。
「ま、まさか……ハルニアちゃんは、プルたちを助けに?」
レオンは黙って、ハルニアの冷えた指から指輪を滑らせた。
対となるレオンの指輪は何の反応も返さない。
外れないはずの指輪が、あっけなくレオンの手に抜け落ちる。
本体から切り離された手首に、契約具の効果は残っていなかった。
(命の巡りが……途絶えたからか)
レオンは血の匂いのする銀に、唇を押し当てた。
「騙されたんだ……守れなかった」
それだけ言うと、自身のネックレスに指輪を通す。
そして白い手を、マグ爺へ差し出した。
「預かってくれ」
マグ爺はその小さな手と、レオンの顔を見比べた。
レオンの左腕からは、どす黒い魔力の残滓が立ち昇っている。
(双星の縛鎖! あの娘、暴走したのぢゃな……!)
杖を握る手が震える。
だが、すぐに奥歯を噛み締めた。
「……承知した」
杖の氷光で手首を包み、絹布へ収める。
「後で必ず、元に戻してやるのぢゃぞ」
レオンはしばらく答えなかった。
やがてゆっくり立ち上がり、ネックレスを首にかける。
「……アンは必ず連れ戻す」
その静かな声に、マグ爺の背筋が凍った。
レオンは、静かに笑っていた。
その瞳に宿るのは怒りでも悲しみでもない。
もっと暗くて、強い、何か。
「アンが奪われた。だったら力ずくで奪い返すだけだ」
そこへ、近習騎士が駆け込んできた。
「殿下! ナツ皇国より緊急発表ですっ」
「何だ」
騎士は息を整える暇もなく叫ぶ。
「ナツ皇宮にて、大規模な戦勝祈念祭典が執り行われるとのことです! クロン渓谷での作戦成功を祝し、国民の結束を高める式典だと!」
「祭典?」
レオンの脳裏を、回帰前の鮮血の記憶が駆け抜ける。
マグ爺が殺された、あの最悪の引き金。
ヴェルディ総督の言葉一つに地鳴りのような歓声を上げ、狂ったように戦争を喝采した群衆。
背筋を、嫌な冷や汗が滑り落ちた。
(まさか……また、始まるのか)
すべてを破滅させた、あの地獄が。
――前世よりも、遥かに早いスピードで。
「惨敗を隠して祝杯をあげるとは……片腹痛いわい」
「今すぐ出る。転移門を開けろ!」
「現在、転移門は閉鎖。国境も厳戒態勢に入っていますっ」
「なんだと!」
正規ルートが塞がれている。
レオンは短く笑った。
「上等だ。地図を出せ」
広げられた地図の、右下から左上へと指が伸びる。
ナツ皇国皇都。
「ここまで、直接飛ぶ」
「ぶふん?」
「行けるな、プル!」
「まかせてぇ!」
眩い光が溢れ、小さなハチワレ猫の姿が膨れ上がった。
現れたのは、白銀の毛並みと巨大な翼を持つ神獣アンナプルナ。
「乗って、レオン!」
「いくぞ、プル!」
「いや、待てぃ!」
ゴッ!
その背に飛び乗ろうとしたレオンの頭を、マグ爺が即座に杖で引っ叩いた。
「いてぇっ!?」
「無茶苦茶ぢゃ!」
マグ爺は地図を指差す。
「神獣に乗ってハル国第一王子が敵国の皇都へ突撃したら、どうなると思う!」
「知るか!」
「戦争ぢゃ!」
「とっくに始まってる!」
「ならば余計に、ぢゃ!!」
珍しく本気で怒鳴りつけるマグ爺。
だが、レオンも引かない。
「アンがいるんだ!」
「だからこそ落ち着けと言っとる! 返り討ちに遭ったら元も子もないわい!」
鋭い怒号が交錯し、部屋の空気がバチバチと張り詰める。
「きゅぅ……」
神獣プルが耳をたたみ、大きな体を小さく縮めた。
やがて――マグ爺は深く、長く息を吐いた。
「……せめて、皇都には神獣で乗り込むな。身分を隠して行け」
「分かった」
レオンは短く答える。
「生きて帰る。アンと一緒にな」
その瞳に宿る暗い炎を見て、マグ爺は力なく苦笑した。
(……まったく、昔から何も変わらん)
こうと決めたら、火の中にでも飛び込む。
立場も利害も、何の意味もなさない。
「……ワシには坊主を止められん」
マグ爺は小さく息を吐き、懐からずっしりと重い革袋を取り出した。
「急ぐ時ほど、足元を見ろ」
ぽい、と投げ渡されたそれを、レオンは反射的に受け止めた。
金貨と、身分証、髪染めの薬。
それから――黒く焦げた、カチカチの干し肉の欠片が一つ。
(……あいつ、肉ばかり焼いていると思ってたら。こんなもの作ってたのか)
肉を黒焦げにした日の、ハルニアの半泣きの顔が甦る。
「説教は、帰ってきてからぢゃ」
レオンの指にある指輪と、ネックレスに通したもう一つの指輪が、鈍く疼いていた。
激痛の残滓が、まだ骨の奥にこびりついている。
だがレオンは黒焦げ肉の入った革袋を腰にくくりつけると、強く頷いた。
「……ああ。すぐ戻る」
◇
神獣の翼は、半日で道のりの三分の二を食い尽くした。
そこでプルの魔力は底を尽き、残りの三分の一に、列車で三日。
途中の町で髪を染め、鏡の中の金髪が灰色に変わるのを、レオンは黙って見ていた。
そして――。
空を穿つ巨大な高層魔導塔。
黒煙と蒸気を吐き出しながら交錯する飛行艇。
地上を埋め尽くす人の群れ。
「――着いたか」
レオンはナツ皇国皇都の駅に降り立った。
懐の身分証を確かめる。
平凡な地方商人の倅。今の自分は、そういうことになっていた。
四方八方に投影される巨大な魔導映像。
『クロン渓谷の勝利を祝し、ハル国の侵略を打ち払った、我らが誇り――』
映像の中で、ヴェルディの声が高らかに響く。
その背後、バルコニーから手を振る人影。
艶やかな黒髪。
紫の瞳。
レオンの心臓が、大きく跳ねた。
「――いた……!」
拳を握る。
「待ってろ、アン」
その瞳に宿るのは希望ではない。
決して手放さないという、執着だった。
(第21話・完――第22話へつづく!)




