第20話:次は戦場で会いましょう
柔らかな朝の光が、王宮の部屋を満たしていた。
ハルニアは、レオンより先に目を覚ました。
隣で穏やかな寝息を立てる彼の顔を見つめる。
身体の奥に残る昨夜の甘い熱に、頬が緩む。
うなじに、鱗はない。
薬指の指輪だけが、静かに脈を打っている。
幸せだった。
こんな朝を、半年前の自分は知らなかった。
(起きたら、驚かせてあげよう)
窓を少し開け、朝食の匂いを想像する。
パンと、焼けすぎない肉。
それだけで、充分すぎる朝だった。
微笑んだまま、ベッドを抜ける。
手を伸ばせば、彼の頬に届く。
届く距離を、いったん残して回廊へ出た。
その時だった。
「――」
柱の陰だけ、朝日が届いていない。
最初からそこにいたように、男が立っていた。
白銀の仮面。
黒衣。
古びた黒革の書。
「あの時のっ!?」
和平会議の日にヴェルディ総督の傍らに控えていた男。
本の頁がめくれる。
めくれるたび周りの光が歪み、不気味な暗影が回廊を覆っていく。
ハルニアが反射的に腰の剣へ手を伸ばす。
「予言書、十五頁。黒竜姫」
「何の話です?」
男は答えず、代わりにゆっくりと水晶を掲げる。
映し出されたのは、ナツ皇国皇都。
その地下の不気味な監獄の光景。
鎖に縛られ、血を流すマグ爺。
そのすぐ横では、プルがガクガクと震えている。
「マグ爺……! プルちゃん!」
ハルニアの心臓が早鐘を打つ。
自分のせいで友人たちが死ぬ。
冷たい汗が背中を流れる。
ようやく手に入れたあたたかい居場所。
ハルニアは奥歯を噛み締め拳を握った。
「何をすればいいのですか」
衣装箱が足元に置かれる。
漆黒と真紅。ナツ皇女の正装。
「ナツ皇国へ」
男は懐から小さな術式核を取り出すと、宙に円を描いた。
バリバリと飛び散る黒い火花。
回廊の空間に裂け目が開く。
男はその裂け目の中へと消えた。
ベッドでは、レオンがまだ静かに寝息を立てていた。
伸ばせば届く距離。
もう二度と、この距離には戻れない。
ハルニアはそっと屈み込み、彼の頬に触れた。
(ごめんなさい)
漆黒と真紅の衣を纏った彼女は、もうナツ皇国の皇女だった。
その時、左指の指輪が応えるように鼓動する。
彼女の中で渦巻く、愛と裏切りの矛盾。
その歪みが、指輪を通してもう一方の指輪へ流れ込む。
次の瞬間。
ベッドでまどろむレオンの左腕に、突如、燃えるような激痛が走った。
「がっ……!?」
膨大な力が身体の奥へねじ込まれる。
まだあどけなさの残る身体。
そこへ無理やり注ぎ込まれる、竜の魔力の奔流。
「グウァァァァァアアア!!!」
腕を押さえ、レオンはベッドから転がり落ちるようにして床へ崩れ落ちた。
視界が明滅する。
血管という血管が、今にも千切れそうなほど膨れ上がっていた。
(な、んだ……これ……っ)
指輪を通じて何かが起きている。
それだけは、朦朧とする意識の中でも分かった。
そこに衝立の陰から、静かに人影が歩み出る。
「アン……!? おい、何があった――」
レオンの言葉が、途中で凍りついた。
目の前に立つハルニア。
それは昨夜の愛しい顔ではなかった。
氷のように、一切の感情を排した敵の目。
「遅いお目覚めですね、レオンガルド殿下」
「は? お前、その格好……」
「おめでたい方ですね。本当に、わたしが心を開いたとでも?」
幼い頃から叩き込まれた潜入訓練。
心を隠すことだけは得意だった。
「すべては、お芝居です。ハル国の油断を誘うため、少し、利用させていただきました――」
一瞬だけ声が震える。
だが、次の瞬間には消えている。
ハルニアは偽りの笑みを浮かべた。
「嘘だっ!!」
レオンが手を伸ばす。
しかし、ハルニアはその手を振り払った。
同時に指輪が激しく火花を散らす。
「ぐっ……!? あ、ああああああっ!!」
腕から全身へ駆け抜ける激痛に、レオンは歯を食いしばる。
流れ落ちる冷や汗がボタボタと床を打つ。
ハルニアの指先に走る異様な感触。
(まさか……私のせいで?)
温かな脈動ではない。
まるで、二つの命を繋ぐ鎖が軋んでいるようだった。
『双星の縛鎖』。
一方の暴走を、もう一方が引き受ける契約。
このままではレオンが死ぬ。
けれど止まれば、マグ爺とプルが死ぬ。
その板挟みが、抑えていた竜の力を揺り動かしている。
視界に映るのは、床に倒れ込むレオンの姿。
とっさに右手で左手の指輪を掴み、力任せに引き抜こうとした。
だが皮膚の一部みたいに、びくりともしない。
(――抜けない!?)
「アン……! 落ち着け! こっちに来い!!」
レオンが叫び、彼女を救おうと立ち上がる。
だが、ハルニアは血の気の引いた顔で、彼を制した。
「来るな!」
一瞬だけ、脳裏をよぎったのは、街で交わした祝福の声、木彫りの猫、消えないはずの祈り火。
それら全部を握りつぶすように、ハルニアは奥歯を噛んだ。
ハルニアは剣を抜いた。
そして。
昨夜、レオンと指を絡めた左手。
その手首へ。
躊躇なく剣を振り下ろす。
ザシュッ!!
鮮血が宙を舞った。
床に転がる左手。
薬指には、指輪が嵌まったまま。
「アンーーーーッッ!!!!!!」
獣の慟哭にも似たレオンの絶叫。
しかし、ハルニアは声一つ上げなかった。
直後。
切断面から漆黒の霧が噴き出す。
骨が軋み、肉が蠢く。
人ならざる再生。
だが、それはもう、人間の腕ではなかった。
禍々しい、黒い鱗に覆われた、竜の爪。
「これで、あなたとの安っぽい呪縛も終わりです」
完全なる怪物。
だがレオンには分かった。
指輪が切れる最後の瞬間。
伝わってきたのは、張り裂けそうなほどの愛だった。
「アン、お前!」
恐ろしかった。
彼女が自分のために、身体を切り捨てた事実が。
「さようなら、殿下。次は、戦場で会いましょう」
ハルニアは、自分の左手を一瞥もせず、踵を返した。
(自分の未来は、自分で決める)
涙をこらえ無機質な目を向けると、部屋を飛び出した。
「アンっ! 待て―ッ!!」
激痛に軋む身体を無理やり引きずり、レオンは後を追う。
回廊には開いたままの、不気味に黒く光る裂け目。
ハルニアはその中へ、迷いなく身を投げた。
バァン!!!
「アン……っ!!」
レオンの声が、虚空に響く。
裂け目は、何の余韻も残さずに閉じ、消え去った。
石の床には指輪の嵌ったままの左手。
指輪はまだそこに、淡く、弱々しく脈動を続けている。
(嘘だ)
指輪を通して伝わってくる波動は、裏切りのものではない。
誰かを守るために自分を殺した、引き裂かれた魂の叫びだった。
(――思えば、あの時も)
レオンはハルニアの左手を額に押し当て、瞳を固く閉じた。
脳裏に蘇るのは、回帰前。
すべてが滅びゆく戦場で、彼女に心臓を貫かれた最期の瞬間。
真紅の瞳は、全く感情を映していなかった。
けれど。
あの時も、ハルニアは涙を流すことなく泣いていたのだ。
だからこそ、もう二度と、あの時と同じ顔で彼女を泣かせはしない。
(あの瞬間。俺はもう、お前に惚れていたんだな)
自分を殺した怪物に、魂ごと狂わされていた。
まだ温もりの残る左手。
「必ず、お前を取り戻す」
声は震えていた。
それでも、その奥底にある決意だけは、揺るがなかった。
窓の外では、王宮がまだ昨夜からの熱狂に沸いている。
救国の英雄を讃える歓声が、風に乗って遠く聞こえてきた。
その栄光の真下で。
英雄と呼ばれた少年が、声を殺して泣いていることを誰も知らない。
「――待ってろ」
世界を敵に回しても、取りに行く。
囁きは誰に届くでもなく、朝の光の中へ溶けて消えていった。
(第20話・完 ―― 第1章・水の杜編――完!)
(第2章・奪還編へ!)
本日の更新で、第一章「水の杜編」が完結しました!
ここまでお付き合いいただいた皆さま、本当にありがとうございました!
そして次回からは――
第二章「奪還編」です。
連載再開は10月を予定しています。
第一章以上に熱くて、激しくて、レオンとハルニアを容赦なく振り回す展開が待っていますので、楽しみにしていただけたら嬉しいです!
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感想やコメントも大歓迎です!
好きなキャラや好きなシーンなど、気軽に教えていただけると嬉しいです。
それでは、10月の第二章でまたお会いしましょう!




