第19話:ずっとそばに
レオンは彼女の手を引いたまま、そっと自室の扉を開けた。
天蓋付きの大きなベッド。
バルコニーへ続く窓。
棚に並ぶ紋章の盾と、古い剣と、無造作に積まれた本。
第一王子の部屋でありながら、そこには一人の少年としての気配がある。
(スパイだったわたしが、足を踏み入れていい場所じゃない)
そう思う端から、レオンに手を引かれ、部屋の奥へ進む。
レオンはバルコニーの入り口に、小さな硝子瓶を置いた。
瞬くように光の粒子が舞っている。
「祈り火、ですか?」
「うん。街でもらった、これだけは持ってきた」
レオンが、少し照れたように瓶へ目をやる。
「翌朝までこの火が消えなければ、二人は永遠に結ばれる……っていう、恋人たちの占いなんだ」
「消えたらどうなるのです?」
「消えないように作ってあるんだよ」
レオンは苦笑し、肩をすくめた。
ふと、机の端に置かれた木彫りの猫が目に入った。
「これは?」
「子供の頃に削ったやつ。下手だろ」
不格好な白黒の猫は、今にも転びそうな形をしていた。
けれど捨てられずに残されている。
猫の欠けた耳を、指で一度だけ撫でる。
ハルニアは小さく笑った。
完璧な王子だと思っていた。
でも違う。
失敗した物も、傷ついた物も、そのまま抱えている。
だから、この部屋は温かいのだ。
夜風が白いカーテンを揺らし、星明かりが床まで落ちていた。
「綺麗、ですね」
バルコニーに立つハルニアの声は、かすかに震えている。
今日一日の熱気が、まだ胸にある。
恐怖、期待、不安。
そして……言葉にならない甘い熱。
レオンは「ああ」とだけ返した。
しかし彼が見ているのは夜空ではない。
夜風が二人を優しく撫でる。
遠くに、夜市の賑わいが聞こえる。
やがて、レオンの手が、そっとハルニアの手に重なった。
ハルニアの肩が小さく跳ねたが、手は引かなかった。
指を絡め、握り返す。
「今日一日、ずっとアンの手を握っていたかった」
少し照れくさそうな笑顔。
いつも余裕たっぷりの彼とは少し違っていた。
見た目相応の少年のように、緊張しているように見えた。
(この顔を見られるのは、世界で自分だけ)
それだけで、ハルニアは泣きそうになる。
レオンは薬指の指輪を見た。
熱い息を吹きかけるように、そこに一度だけ口づける。
銀が、小さく光った。
「顔が近いです」
「見てくるからだろ」
「わたしのせいですか」
「半分は。半分は俺のせいだ」
小さく笑ったレオンは耳まで赤い。
視線を逸らして、また戻す。
その沈黙は、心地よい緊張に満ちていた。
ハルニアは、意を決し自分のうなじへ手を当てた。
指先が、微かに冷たい。
「レオン様。一つ、知っていてほしいことがあります」
「何?」
「まだ、隠しているものがあります。感情が乱れると、ここに黒い鱗が浮かびます。……ずっと怖かった」
声が震える。
これを口にするだけで、何年分もの勇気を使い切った気がした。
「誰にも見せていません。でも、隠したまま先に進むのは、嫌です」
拒まれたら、どうなるか。
その先を、想像しかけて、やめた。
――いつから、この手の温もりに救われてしまっていたのだろう。
隠していたのは鱗だけじゃない。
この人に向ける、自分の恋心そのものだ。
でも、もう隠さない。
見せる、と決めたから。
レオンは何も言わず、手を伸ばした。
「触っても、いいか」
小さく頷く。
指先が触れるまでの、数センチが、やけに長い。
ドクン、ドクン。
早鐘を打つ心臓の音が部屋中に響いているのではないかと不安になる。
――触れた。
指先が、うなじに触れる。
鱗の気配は、熱に溶けて、そこにない。
「ないな」
「え」
「今日一日、ものすごく心が揺れたはずなのに、一つもない。お前が自分の意志で抑えている。すごいよ、アン」
褒め言葉ではなかった。
見て、確認して、受け取った声だった。
涙が溢れてきた。
誰にも見せられなかった部分。
そのすべてを見せて、それでも拒まれなかった。
それでも、この人になら知られてもいいと初めて思えた。
指は、すぐには離れない。
首の裏に残る熱だけが、鱗の代わりに脈を打つ。
息を吸うと、レオンの指の位置が分かる。
「アン」
「……はい」
ハルニアの返事は、騎士でも皇女でもない。
何者でもない、素のままの自分の声だった。
レオンが両手で顔を包み込む。
薬指の銀が、一度だけ温かな熱を返す。
ゆっくりと顔を近づけ、深く、優しく唇を重ねる。
レオンの指が頬から首筋へ、確かめるように辿っていく。
その触れ方は、まるで祈りのようだった。
「レオン、様」
キスは深いのに、急がない。
同じ場所に、二度触れる。
一度目は勇気、二度目は確認。
ハルニアの指が、レオンの指と強く絡み合う。
絡み合った指の間から伝わるお互いの温かな鼓動。
「アン……」
愛しい。
言葉の先が掠れて出てこない。
長い、胸の奥が溶けるような、愛おしいキス。
それから二人は額を合わせた。
「ずっと、そばにいてほしい」
「ずっと、そばにいます。わたしが、そうしたいから……!」
視線が絡み合い、逃げ場をなくす。
レオンの瞳の奥にある熱に当てられて、頭の芯が痺れた。
ベッドへ導かれる動きは、優しさに満ちている。
シーツに沈み込む体と、重なる影。
上から重なる体温も、吐息も、もう敵ではない。
目を閉じる。
星だけが、二人を祝福するように瞬いていた。
◇
一方バルコニーの隅、硝子瓶の中では。
舞っていた光の粒は、夜明けを待たず音も無く消えていた。
(第19話・完 ―― 第20話へつづく!)




