第17話:俺だけのアン
——回帰前。
レオン十六歳の夜。
鉄の匂いが鼻を刺す。
湯気の立つスープの傍らに転がる眼球。
首を失ったマグ爺の亡骸。
ガイウスの絶命。
狂った聖獣の咆哮。
炎に呑まれる王都。
世界が崩壊していく、あの最悪の終焉——。
——ガタンッ!!
馬車が大きく跳ね、レオンの意識が急速に浮上する。
「……っ、う……!」
頬に触れる指先の柔らかさ。
後頭部を支える膝の温もり。
荒い息とともに瞼を開けると、見慣れた馬車の天井があった。
全身の節々が、まるで鉛を流し込まれたかのように重い。
クロン渓谷で地脈と天候をねじ伏せた大技の代償だ。
「……あ」
すぐ至近距離に、ハルニアの顔があった。
レオンの頭は、彼女の膝の上に預けられていた。
「お目覚めですか、殿下」
言いながらも、頬に添えた手は離れない。
「アン? 俺、どれくらい——」
ハルニアは、すぐには答えなかった。
ただ、確かめるようにレオンの頬へ手のひらを重ねる。
「七日です。熱が引いたあとも目が覚めなくて」
その声には、隠しきれない焦燥と安堵が滲んでいた。
「あまりにもうなされているので、本当に生きた心地がしませんでした」
「カッコ悪いな、俺……」
身体を起こそうとして力が入らず、軽く呻く。
「そんなことありません!」
ハルニアが真っ直ぐにレオンを見つめる。
「誰も殺さず、誰も傷つけずに、あの大軍を止めたのですから」
誇らしげな声ではない。
殺さなくて済んだことを、自分にも言い聞かせている声だった。
起き上がれない肩を、ハルニアが支える。
顔と顔が、驚くほど近い距離ですれ違う。
「英雄の凱旋だ。シャキッとした顔を見せないとな」
馬車の窓の外には、見慣れた国境標識。
遮るもののない圧倒的な青空
果てしなく広がる風に揺れる黄金の麦畑。
かつて焼き尽くされ、黒い死体で埋め尽くされていたあの場所だ。
(守れたんだ。俺の力で……!)
目の奥が熱くなる。
その時——。
「ぶ、ぶふぇええええええん!! お空と麦畑が綺麗すぎて、涙が止まらないのぉぉぉ!」
プルがボロボロと大粒の涙を流し、クッションの上で転がり回った。
「おいおい」
レオンは思わず吹き出した。
おかげでこみ上げていた重い感情が、すんでのところで押し止まった。
レオンはプルの頭を乱暴に撫で、穏やかに目を細める。
街道の農民が馬車の紋章に気付き、帽子を振る。
「レオンガルド殿下だ!」
「レオン様、お帰りなさいませ!」
屈託のない笑顔と歓声。
ハルニアは驚いたようにその光景を見つめていた。
ナツ皇国では、皇族が民と直接言葉を交わすなどあり得なかった。
「皆さん、本当に嬉しそうですね」
「豊作の年だからな。それに戦争も防げた」
レオンが笑って窓の外へ視線を向ける。
「守りたかったのは、この景色だ」
やがて丘を越えると、白漆喰の壁とオレンジ瓦が美しく映えるハル王城が姿を現した。
自然と調和した素朴で温かな佇まい。
ハルニアの胸の中もふんわりと温まる。
「本当に、絵画のように美しい国ですね、レオン殿下」
「だろ? 俺の自慢の故郷だ。これからは、お前の故郷にもなる」
「え?」
レオンが悪戯っぽく笑う。
聞き返す間もなく、馬車が王都の城門を潜り抜けた。
世界が変わった。
ワーッッッ!!
地響きのような大歓声。
空を埋め尽くす色鮮やかな紙吹雪。
「ぶふんっ。プルはもう、ハル国の国民的英雄猫と言っても過言ではないのよねぇ」
クロン渓谷の「無血の大勝利」。
王都の民衆は二人の若き英雄を熱狂的に迎えていた。
◇
白金の正装に身を包んだレオン。
その隣には、淡い藤色のドレスを纏ったハルニアが立っていた。
大謁見の間を万雷の拍手が満たす。
「よくぞ戻った、レオンガルド。そして……ハル国を救った若き騎士、ハルニア・ナツ・カンチェンジュンガ」
王の言葉に、貴族たちがざわめいた。
魔導映像で空から宣戦布告したハルニア皇女。
その顔と、今レオンの隣に立つ少女の顔は同じだった。
王宮はすでに『宣戦布告した皇女は偽物』と発表している。
では本物のナツ皇国の皇女をどう扱うのか。
全員が固唾を呑む中、レオンが一歩前へ出た。
「たしかに彼女はナツ皇国第一皇女だ。だが過去と向き合い、クロン渓谷で俺と共に戦った」
レオンはハルニアの手を引き寄せ、参列者全員へ示してみせた。
「彼女は敵ではない。俺と未来を歩む、かけがえのないパートナーだ」
一瞬の静寂の後、レオンは力強く宣言した。
「今ここに、ハルニアを正式な婚約者として迎えることを宣言する!」
その言葉に、大謁見の間は一瞬の静寂に包まれた。
だが次の瞬間――どっと湧き上がる大歓声!
親ナツ派の貴族たちも、この圧倒的な民意と実績の前では拍手を送るしかなかった。
王妃エレノアが歩み寄る。
ハルニアの肩に、そっと手が置かれた。
「ようこそハルニア。貴方を歓迎します」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
祖国では使い捨ての駒だった自分を、この国は温かく受け入れてくれる。
涙を堪えながら、ハルニアは背筋を伸ばした。
「ありがとうございます……! わたしはこの命に代えても、ハル国と、レオンガルド殿下をお守りいたします!」
その誓いの言葉に、再び割れんばかりの拍手が巻き起こった。
エレノアは微笑み、静かに頷いた。
「その覚悟は、確かに受け取りました」
一拍。
「詳しい話は、あとで聞かせてください。あなたのことも。竜の力のことも」
「……え?」
穏やかな声音。
けれど、その瞳は母ではなく王妃としてのままだった。
◇
回廊は、急に静かだった。
「これから人前では、ハルニアと呼ぶ。婚約者だからな」
「はい、レオン様」
腰を引き寄せられ、抗う間もなく距離が消える。
鼻先が触れそうな近さで、レオンは声だけ落とした。
「だけど」
耳元に落ちる、低く熱い吐息。
「二人きりの時は、『アン』って呼ばせて」
「……え?」
「ハルニアは皇女だ。これからはみんなに名前を呼ばれる」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「でもアンだけは違う。その名前を呼べるのは、俺だけでいいだろ?」
ハルニアの胸がドクンと跳ね上がる。
耳の先まで、熱が上る。
「……ふふ。はい。それは、レオン様だけの特権です」
『アン』——その一音だけで、身体の奥がとろけるように熱くなる。
この名前は、もう誰のものでもない。
レオンだけの、彼女への呼び方だった。
扉の向こうで、侍女が待つ。
「殿下。国王陛下と王妃陛下が、別室でお待ちです」
レオンは彼女の手を握り直した。
「行くぞ。約束を守る」
「約束……?」
「戦争が終わったら、家族に紹介するって言っただろ」
レオンはやわらかく微笑んだ。
ハルニアの顔が、わずかに引き締まる。
歓声はまだ、外で鳴っていた。
誰も知らない。
この勝利の裏で、今もなお黒い牙が研がれていることを。
(第17話・完 ―― 第18話へつづく!)




