第16話:クロン渓谷の決戦
「全軍、突撃ィィ! ハル国の防衛線を数で押し潰せ!」
国境の断崖、クロン渓谷。
谷底を埋め尽くす皇国の赤い軍旗。
鉄の靴音が、岩肌を震わせていた。
後方の馬車から、死の商人ザハルは下卑た笑みを浮かべている。
「戦争は長いほど、旨い」
ナツ皇国へ売った魔導装甲兵が、ゆっくりと谷を埋めていく。
「生まれながらに祝福された王子様には、私のような薄汚れた仕事の味は分かりますまいなぁ……」
しかし、その笑みはすぐに凍りつくことになる。
◇
ハル国軍の最前線。
夜通し進軍し、ついに合流した。
崖の上に立つレオンの青い瞳が、黄金色に染まっていた。
「――3、2、1。そこだ」
レオンが小さく呟いた瞬間、地面が沈んだ。
偽装の土が崩れ、先行部隊が縦穴へ呑まれる。
「な、何が起きた!? 足元が……っ!」
「うわああああ!!」
悲鳴と土埃。
後続の足が、内側から鈍った。
「な、何だ、これは……っ! なぜ、こんな場所に……!?」
「慌てるな! 構わず進め!」
指揮官の声は大きい。
だが、兵士たちの足は、明らかに鈍っていた。
(見える。あの時は、ただ押し込まれただけだった)
回帰前、この戦場にいたことはある。
だが少年だったレオンが最前線に立つことはなかった。
戦場全体など見えていない。
今なら分かる。
敵が通る道。
補給が通る道。
装甲兵が動けなくなる地点。
(殺せば、早い)
その選択肢が頭をよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
(あいつは今、あの旗の下に同胞を見ている)
まだ剣を抜けずにいるハルニアの横顔が過ぎる。
これ以上、あの目に映すものを増やしたくない。
(殺さず、止める。短く、終わらせる)
レオンは剣を抜き、天へ掲げた。
「エルブルースの御名の下に、天盤の星宿を回せ」
光が剣へ集まり、地脈へ沈む。
ドォォォォン……ッ!!!
凄まじい地響きが渓谷を揺らした。
「地脈の咆哮」
一瞬にして、土砂と巨岩の奔流が山肌を崩れ落ちた。
それはまるで大地そのものが牙を剥いたかのようだった。
「うわあああ! 土砂崩れだ!」
「逃げろ! 隊列を――」
土砂と巨岩が、軍の中央だけを正確に断つ。
指揮官たちの怒号が飛び交う。
だが、一度乱れた大軍はそう簡単には動けない。
その光景を前に、ハルニアの身体は小さく震えていた。
崖下で悲鳴をあげているのは、兄ではない。
つい数ヶ月前まで、自分が守ると信じていた祖国の民だ。
彼らは何も知らない。
上層部の野心も、自分が捨て駒にされたことも。
ただ「ハル国は悪だ」と教えられて、ここへ来ただけだった。
(わたしは、彼らを救うために動いていたはずなのに)
谷底の赤い旗が、風に叩かれていた。
顔は見えない。
それでも、かつての訓練場の声や、同じ食事を分けた背中が、旗の下に重なる。
剣を抜けば、終わる。
それが一番早いことも、分かっていた。
なのに、指が動かない。
「わたしは、何と戦っているのですか」
自分でも分からない問いが、喉の奥で溶ける。
足元から、小さな白黒の猫が一歩前へ出る。
「レオンは分かってるのぉ。兵士を潰す気なんて、最初からないのぉ」
「プル……」
小さな身体から、銀の光が溢れた。
神獣アンナプルナ。
美しい銀毛と輝く翼。
渓谷の風を割り、その本来の姿が顕現した。
「乗ってぇ! ハルニアちゃん」
ハルニアは光の背へ飛び乗った。
土煙を突き抜け、空へ上がる。
上から見下ろして、ようやく分かる。
崩されたのは人ではない。
道と兵器と補給だった。
(レオンは、殺す勝ち方を選ばなかったのだ)
胸の奥が熱い。
それなら、自分にもできることがある。
ハルニアは大きく息を吸った。
銀の翼を纏った神獣の背で、黒髪が風に舞う。
朝焼けを背に負ったその姿は、神話の一場面のようだ。
「――ナツ皇国の兵士たちよ! 聞きなさい!」
谷が、一瞬だけ静まる。
顔を上げた兵士の何人かが、束の間、目の前の光景に見入っていた。
「わたしはナツ皇国第一皇女、ハルニア・ナツ・カンチェンジュンガです!」
長い髪が風に乗る。
神獣の上で、彼女は同胞の顔を見下ろした。
「これ以上の進軍は無意味です! ハル国は世界を独占などしていません!」
「わたしたちは、ザハルと黒の教会に騙されているのです!」
「武器を捨てて、今すぐ退きなさい!」
声は震えていた。
それでも、逃げなかった。
「わたしは祖国を見捨てない! 敵はハル国ではない!」
沈黙が落ちる。
一人、また一人と、顔を見合わせる兵士が増える。
迷いが見える。
それだけで、胸が熱くなる。
だが将軍の怒号が、その揺れを踏み潰した。
「黙れ、裏切り者の皇女め! 神獣ごと撃ち落とせ!」
魔導砲が空へ向く。
それを見た瞬間。
崖上のレオンが再び剣を振り下ろした。
クロン渓谷の気圧が激変する。
「星海の嵐」
猛烈な吹雪が砲列を囲み、金属が白い音を立てて凍る。
「動けなっ……!」
数千を誇ったナツ皇国軍が。
剣を交えることも、
血を流すこともなく――。
ただ、白い静寂の檻に、完全に呑み込まれていった。
「レオンガルド殿下万歳!」
「ハル国の勝利だ!」
ハル国軍の歓声が、遅れて上がる。
歓声の中心で、レオンだけが冷や汗を流していた。
(――あ、あぶねぇ。やっば!! これは究極の筋肉痛かも!!!)
未完成の身体で、地形と天候を一度に動かした代償だ。
反動は凄まじい。
全身の細胞が悲鳴を上げ、視界がぐらりと揺れる。
納刀しようとする指先まで、小刻みに震えていた。
(くそっ、アンが降りてくる! こんな弱みは見せられねぇ!)
深呼吸し、震えを気合いで押さえ込む。
そして何事もなかったようにいつもの軽い笑みを浮かべた。
上空からハルニアが降り立つ。
「怪我はないか、アン」
「はい。戦いを終わらせてくださり、ありがとうございます」
ハルニアがレオンに抱き止められる。
力強い鼓動と温もりに安心したかった。
それなのに、背中へ回した腕の奥で、小さな震えが伝わってくる。
勝った人の腕じゃない。
無理をして、立っている人の腕だった。
(言ってはいけない。今、指摘したら、この人は崩れる)
だからハルニアは、何も言わずにその背中へそっと手を回した。
(平気な顔をして。本当に不器用な男ね)
吹雪のあと。
白い檻の中で、旗だけが動けずに立っている。
刃は交わらず、血も流れていない。
ハル国軍の誰もが勝利に歓喜した。
鮮やかすぎる、無血の勝利だった。
◇
「なんだ、あの力は……!」
後方で、ザハルの算盤が止まった。
(このままではナツが負ける。売掛が回収できん)
ハル国につくか。
別の道を探すか。
「旦那、客人でございます」
刺青の小男が、声を潜める。
「追い返せ。今は忙しい」
「それが……大きな商談のようで」
馬車の影から現れたのは、漆黒の法衣に白銀の仮面の男だった。
胸元には、歪んだ瞳の紋章。
「貴様は……和平会議の時の?」
男は答えない。
ただ一枚の書状を差し出した。
(第16話・完 ―― 第17話へつづく!)




