第壱ノ巻
「上様、 お目覚めのお時間です」
明け六つ頃、 将軍の住まう大坂城・奥御殿に人の影があった。
名を神宮寺凛。 宵闇のような黒髪を高い位置で結い上げた女である。
「入れ」
しばらくして、 入室の許可が出る。
「失礼致します」
からりと襖を開けると、 十四代将軍ーー徳川家茂が褥に横たわっていた。
時は慶応二年(一八六六)。
徳川幕府の御代も終わりを告げる刻が迫っている。
凛は家茂が病に倒れた、 という噂を聞きつけ急ぎ大坂城に参上した。
ほとんど年の変わらぬ主君の変わり様に、 凛は胸が締め付けられる。
「お加減はいかがでしょう。 何か変わったことはございませんか」
そんな家茂を抱き起こしながら問いかける。
「凛」
病に伏しても、 家茂の眼光は鈍っていない。
凛が何かを隠していても、 このお方にはすべてお見通しなのだ、 と改めて実感させられる。
「はい」
「私の世話は小姓にやらせる故、 お前はもう下がって良い。 折角の非番なのだ、 ゆるりと過ごすが良い」
にこりと笑って、 家茂は遠ざけようとするのだ。 女である凛をーー
「いえ、 私は……」
「凛」
(ああーー)
家茂の目が言っている。『もう迷惑はかけられぬ』と。 『これは命令だ』とーー
「……承知致しました」
凛は後ろ髪引かれる思いで、 家茂の部屋を去ったーー
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元和九年(一八六三)に三代将軍・徳川家光が上洛する。 将軍宣下を受けるためである。
だが約二五〇年後、 十四代将軍・家茂が二度の上洛を果たした。
一度目は朝廷より位をいただき、二度目は攘夷実施の求めに応じるためである。




