第三話
屋敷での怪事から一夜が明けた。時告げ酉の一番鳴きを合図に世界が慌ただしく動き出す。
清らかな朝日が朝靄と共に江戸市中を染め上げる清々しく希望に満ち溢れた朝、しかし八丁堀の桐野邸は清廉な朝日を受けてもなお暗く陰鬱とした空気に満ち溢れていた。
深夜、柱に打ち付けられた三つの藁人形、割れた腹部から長い髪をおどろおどろしく垂れ下げた藁人形は、志狼の手によって風呂敷包みに纏められ、桐野の自室へ運ばれる。
主の部屋にそんな気味の悪いモノを持ち込むなど、最初はそう思った志狼であったが、怪事を証明する大切な証拠を失っては大事だ、と自ら桐野が申し出た事と、あまりに不気味な一件に怯え戦く海華がいる自室にはとても置いておけないなどあり、桐野の部屋に置かせてもらう事にしたのだ。
以前の藁人形は翌日には跡形もなくその姿を消してしまっていたが、今度ばかりは朝、桐野が風呂敷を開けると三体の人形は垂れた髪もそのままに大人しく重なり合い、横たわっていたのだ。
朝飯の支度などどうでもよい、すぐに朱王を呼んで来い、そう桐野に命じられた志狼は身支度も早々に海華を桐野に託して屋敷を飛び出す。
朝の喧騒を突き切り、息を切らせて走りに走り、辿り着いた中西長屋は朝餉の支度をする女たちで、まるで酉小屋のように喧しく賑やかだった。
当の朱王はまだ眠っているのだろうか、そんな事を思いつつ部屋の戸を些か強めに叩けば、すぐに眠気を多分に含んだ声色で返事がし、がたつく戸口が緩慢に開く。
寝癖の髪で端整な顔の周りを飾り付け、乱れた寝巻もそのままの朱王が眠気眼を擦る擦り姿を現した。
皺の寄った寝巻の胸元、そこから覗く胸元の白さと華奢な鎖骨に一瞬目を奪われながらも、志狼は呼吸を整えるよう一度大きく息を吐いた。
「なんだ、志狼さん……今日はずいぶん早いな?」
てっきり飯の支度にきたと思ったのだろう、なんとも呑気な朱王を前に志狼は『違うんだ』とこぼしつつ首を思い切り横に振る。
「夕べ、ウチに藁人形が……とにかく一緒に来てくれ」
「なに? お屋敷に藁人形が? また裏木戸の外にでも?」
「いいや、今度ぁ屋敷ン中だ。しかも今度は三つで……あぁ、ここじゃぁナンだから、屋敷まで来てくれよ」
表にいる女らの目を気にしているのか、志狼は早く早くと朱王を急かして身支度をさせ、そのまま屋敷へ取って返す。
何が何やら、よく状況が呑み込めていない朱王が屋敷に到着したとき、玄関で彼を出迎えたのはいやに顔色の悪い海華だった。
体調を崩して臥せっていたと聞いていたが、目の前にいる彼女はきちんと身支度を整えている。
朱王には見覚えのない水浅葱に桜の模様があしらわれた着物は、きっと志狼にでも買ってもらったのだろう。
爽やかな色味と可憐な図柄に反比例するように海華の表情は硬く強張り、その小さな背中には暗く冷たい闇が渦巻くようだった。
「海華! 起きてて平気なのか?」
彼女の姿を認めた志狼は酷く慌てて履物を土間で脱ぎ散らし、上がり框に飛び上がる。
『大丈夫』そう消え入りそうな声で返しながら、海華は顔にかかる髪を耳に掛け、朱王へ視線を向けた。
「あたしなら、大丈夫。兄様、面倒掛けてごめんなさい」
「なに、いいんだ。お前、夕べはなんともなかったのか?」
「うん……。その事で、旦那様からお話があるの。兄様も志狼さんも、旦那様がお部屋でお待ちよ」
彼女にしては珍しく、打ち沈んだ声色でそう言いながら、海華は二人を連れて桐野の自室へと向かう。どうもいつもとは違う彼女の様子に内心小首を傾げながらも、朱王はそのまま桐野の部屋へ入り、改めて桐野から夕べ屋敷で何があったのかを聞かされ、投げ込まれていたと言う藁人形もこの目で確認した。
腹から黒髪を垂らす人形は眩い朝日の中で見ても不気味であり、さすがの桐野も渋い面持のまま口数少なく目の前に並べられた藁人形を眺めて、始終腕組みしたままだ。
狐狸妖怪の類が金槌や釘を使い人形を打ち付けるはずがない、必ず外から何者かが忍び込んでいるはずだ、これから屋敷に都筑らを呼び、人形が打ちつけられていた場所を入念に調べさせる、海華の事はこちらで責任を持って守るから心配するな。そう桐野に告げられ、ひとまず朱王は長屋に帰る事にした。
が、その前にもう一度海華の様子を見ていきたい、そんな朱王の申し出を快く引き受けてくれた桐野は志狼に彼を離れまで案内するように言い付ける。
志狼に連れられ渡り廊下を行く志狼は、閉じ切られた襖の前で一度足を止めて朱王の方を振り向いた。
「朱王さん、俺は外してるから、二人でゆっくり話してくれ」
襖から歩く身体を引き、そう言った志狼へ朱王は軽く小首を傾げてみせた。
「いいのか?」
「あぁ、あいつもその方がいいだろう。勝手にいるから、帰る時に声かけてくれ」
軽く唇を綻ばせ、志狼は足早に台所へと下がってしまう。そんな彼の背中を見送ってから、朱王は襖へ向かい『入るぞ』と一声かけて襖へ手を添えた。
なるべく静かに、音を立てずに引き開けた襖、その奥にいるのは、押入れに凭れ掛かるようにして座り、クスクスと鼻を啜る海華の姿が目に飛び込んできた。
「兄様……」
「どうした? お前、泣いてるのか?」
僅かに赤くなった目元を擦る彼女を前に、朱王は珍しく驚愕の表情を見せて後ろ手に襖を閉める。
急いで彼女の前に腰を下ろし、俯いてしまった顔を覗き込むと、海華は一度大きく深呼吸をしてまっすぐに朱王を見詰めた。
「兄様……あたし、死んじゃうかもしれない……」
弱弱しく掠れた声色で告げられた台詞に、朱王の目が大きく見開かれる。
「死んじゃうって、何のことだ? 夕べの事なら、あまり深刻になるなよ。桐野様だって志狼さんだってお前の事はしっかり守ると……」
「違うの! そうじゃなくて……さっきね、塀の外で人が話をしているのが聞えたのよ。両国にある長屋に毎晩藁人形が放り込まれて、そこの奥さんが寝付いてあっという間に死んじゃったって」
硬直していた顔がみるみる蒼ざめていく。『あっという間に死んじゃった』そう再度呟いて、海華は両手で顔を覆ってしまう。死を呼ぶ藁人形、きっと自分もそうなってしまうのではないか。押し潰されそうな不安と恐怖が、次々と海華の目尻から透明な雫となってこぼれ落ちていく。咄嗟に、朱王は彼女の方に腕を廻し己の方に抱き寄せた。
「そんな噂を真に受けるな。海華、大丈夫。大丈夫だ、お前が死んだりするもんか。お前には志狼さんも桐野様もついているんだ」
ヒクヒクしゃくり上げる海華の背中をさすりつつ、何とか彼女を宥めた朱王は赤く染まる耳元に顔を近付け、そっと耳打ちをする。
「両国で本当にそんな事があったのか、俺が確かめてやる。だから安心しろ。念のためにお前、屋敷の中でもあまり独りになるんじゃないぞ」
『志狼さんにも頼んでおく』そう言い置いた朱王は海華を伴い、志狼がいるであろう台所へ向かう。
海華が不安がっているから、なるべく一緒にいてやってくれ、そう頼んで屋敷を出た朱王は、そのまま真っ直ぐ両国へと向かう。
両国で死んだ女の事は志狼に伝えなかった、そして海華にも、その話はするなと固く口止めした。
なぜなら志狼が過剰に心配し、これ以上話が大きくなるのを恐れたからだ。噂はあくまでも噂、まずは自身がしっかり確認しよう。そう思いつつ屋敷を出た朱王が、ちょうど八丁堀から大通りを結ぶ辻に差し掛かった時だった。
「ちょいと、ちょいとお兄さん。……そう、そこの髪の長いお兄さん、アンタだよ」
自身の左側から聞こえるしゃがれた声に、朱王は怪訝な面持ちで歩みを止める。行きかう人もまばらな道の辻、ちょうど商家と商家に挟まれる小道の前に、独りポツンと座る老婆の姿があった。折り畳み式の小さな台の前に背中を丸めて座る老婆は、頭からすっぽりと薄紫色の頭巾をかぶった女は招き猫の様にちょいちょいと朱王を手招いた。
頭巾をかぶり、薄紫色の法衣のようなもので手の先までをすっぽり覆った女に突然呼び止められた朱王は怪訝を通り越して胡散臭げな眼差しを向ける。
傍から見れば紫の塊、声からして年老いた女のようだが、顔も身体つきもよくわからぬためか本当に年寄なのか、女なのかもよくわからない。
そんな女は……女だろう人物は朱王を更に手招きし、ヒヒヒ、と薄気味悪い笑い声を上げる。
「お兄さん、アンタ随分悪い気を運んでいるねぇ。こっちにおいで、アタシが見てやろう」
頭巾の向こうから聞こえるくぐもった声、どうやら八卦見か占い婆のようだ。
「悪いが、俺は占いだなんだのの類は信じない性格なんだ。他を当たって……」
「そうツレなくするんじゃないよ。どれ……おやおや、お兄さんアンタ、兄弟がいるね。弟……いや、『妹だ。ふん、いいところにお嫁にいったんだねぇ」
台の上に手を置き、身体を前後に揺らしながらそう口にする女。彼女の台詞に、一瞬で朱王の目が驚きに見開かれる。
「どうしてそれを……」
「アタシはなんでもわかるんだよ。お兄さん、手のひらを見せてごらんな。アンタについてる悪い気が、どんなモノなのか、ちゃぁんと見てあげるよ」
ヒヒヒ、とまたしても気味悪い薄笑いを浮かべて女が身体を揺らす。怪訝な面持ちを崩さないまま、朱王は彼女へ一歩、また一歩と歩み寄って行った。
陽光に輝く薄紫、自分の後ろを行く人の視線を時おり背中に受けながら朱王は台の上に己の左手を差し出し手のひらを上に向ける。女は細く開いた頭巾の隙間からジッと朱王の手のひらを見詰め、ウン、と一度頷いて見せる。
「アンタ、物を作る仕事をしているだろう? 金を稼げる手相だが……何でだろうねぇ、未だに貧乏暮らしだろ?」
八割方当たっている、確かに貧乏所帯に変わりはない。心中で苦笑しながらそう思う朱王、その手のひらを眺めている女は、次に彼の手のひらから視線を外して頭の天辺から爪先までをジロリと睨め付ける。
「ふん、わかったよ。アンタの持ってる悪い気の正体が。原因は妹だねぇ。妹に悪いモノが憑いてるよ」
しわがれ声に妙な重さが混ざり合う。その台詞に、朱王の表情も一気に険しい物に変わった。
「妹が原因? 馬鹿を言うな。悪いモノって、一体何だっていうんだ?」
「人の念だよ。恨みつらみってヤツさ。お兄さん、人ってもんはね、自分で気が付いていなくても誰かに恨まれてるなんて事もあるんだよ。きっと、妹に憑いているのはそんな念さ。こりゃ厄介ねぇ……放っておくと、妹もアンタも、周りにいる人間も危ないよ」
女の口から語られる『占いの結果』に、思わず朱王は言葉を失う。海華に悪い念が憑いている、俄かには信じられない内容だが、全てが出鱈目な話しとも思えなかった。
なぜなら、あの藁人形の一件があるからだ。捨てても捨てても戻ってくる藁人形、そして屋敷の別々の場所ほぼ同時に打ち込まれた藁人形……。それは、見も知らぬ人間から送られた邪念が込められたもの、いや、藁人形自体が邪念の塊なのではないか。
もしそうだとしたら、海華はこれからどうなってしまうのか。真っ先に頭の中によぎった思い、それを見透かしたように女はゴホンと咳払いをする。
「厄介なモノに憑かれちまったね、けど、大丈夫だよ。どうやら、アンタ達は神様に守られているみたいだ。いいかいお兄さん、これからアタシの言う事をよく聞くんだよ」
口を閉ざしてしまった朱王を横目に女は更に口を動かす。
「明日の朝、一番に妹の所へ行くんだ。そうして、玄関先に立っておいで。そこで初めて会った人間が、アンタの妹を助けてくれるはずだ。いいかい、その人の言う事をよく聞くんだ。絶対に逆らっちゃいけないよ。でなけりゃ、妹の命は無いものだと思いな」
低い声で告げた女は『お代はいらないよ』そう言ったきり口を閉じてしまう。あまりに唐突な、そして衝撃的な内容の話しに朱王も言葉を失ったまま、足元をふらつかせつつその場を後にする。
明日の朝、桐野の屋敷の前で出会った人間が今の状況を改善してくれる、ひいては海華を救ってくれる。八卦見の占い婆に言われたことを真に受けるなど、どうかしているだろう。頭の片隅でそう思いつつ、足取りも重く歩を進める朱王はそのまま当初の目的地である両国を目指す。
単なる噂話の真相を確かめに行った朱王、その翌日、彼の姿は桐野邸の表門にあったのだ。




