第四話
頭上を埋める分厚い雲が風の流れに乗り緩慢に蠢く。まるで自分の心の内を現すような鈍色の雲を見上げる朱王の耳に届く雀のお喋りも今日ばかりはただの騒音にしか聞こえない。彼の頭の中を絶えず駆け巡るのは、昨日聞いた辻占いの老婆の声だ。
朝一番、桐野邸の門で逢った人物が海華の命を救ってくれる。普段ならば真に受けないだろう占い婆の言葉だが、朱王の眼差しは今、真剣そのものである。
それは、朱王が昨日両国で聞いた『ある話』のせいだ。
『連日、藁人形を投げ込まれた家の奥方が死んだ』
海華が小耳に挟んだ噂、それは真実だった。
事の起こりは、ひと月ほど前。両国にある質屋に藁人形が投げ込まれるようになった。最初は性質の悪い悪戯だろうと、家の者も使用人達もさほど気にしてはいなかったようだ。しかし、一日一日と経つうちに、奥方の体調が崩れ始め、ついには一日中床に臥せるようになってしまったのだ。
医者にも診せ、病に効くと言われる々なか薬も飲ませてみたのだが一向に改善せず、とうとう草木が枯れるように衰弱死してしまった。きっと藁人形の鈍いのせいだと、近所や使用人らは噂しあったという。そして、奥方が死んでからと言うもの、藁人形が投げ込まれる事は無くなったのだ。
妙な噂といい、昨日出会った占い婆といい、最近は気味の悪いことが多すぎる。たった一つ心配なのは、海華の身体のこと。この頃体調が優れないのは、本当に藁人形と関係があるのか……?
そんなこんなを考える朱王の目が、これから訪れるであろう誰かを睨み付けるように細められる。その時、道の遥か遠くから米粒のような点がいくつか動いているのに気がつく。
それはだんだんと大きくなり、三つの人影に変わった。
よくよく目を凝らしてみれば、それは一人の男と二人の女。眠たげな光が女の緋袴に反射し網膜に染み込んでいく。朱王の表情がみるみるうちに驚きのそれへと変化する。あれは、確か捨吉の所で会った賢正とか言う神主ではないか?朱王の心の声が聞えたのか、狩衣を纏っている中央の男の顔がこちらを向く。
「朱王先生? あぁ、やはり朱王先生だ」
よく通る爽やかな声が届く。狩衣姿の男は、やはり賢正と名乗った神主であり、巫女二人も長屋で会った二人に間違いなかった。
「先日は失礼いたしました、朱王先生、こんな早くにどうしてここに?」
「えぇ、その……ちょっとした所用がありまして。貴方こそ、どうしてここへ?」
ニコニコと柔らかな笑みを浮かべて小さく会釈してくる賢正に、朱王は正反対の戸惑いがちな面持ちを見せる。まだ朝も早い、神主である彼がどうして武家屋敷になぞ用があるのか、朱王の問いに賢正は左右にひかえる巫女達に一度目くばせをし、どこか言いにくそうに俯いてしまう。が、すぐに真っ直ぐに朱王を見上げて形の良い唇を開いた。
「実は、数日前からこの周辺で酷く『悪い気』を感じていたのです。以前、捨吉さんの所で感じた悪気と同じ……いえ、それ以上にもっともっと強く邪悪なものです」
真剣な眼差しでそう話す賢正、彼の横に立つ巫女二人は、どこか忙しない視線を朱王へ、いや、朱王の背後にある桐野の邸宅へ投げている。『捨吉の所で感じた悪い気』その一言に、朱王の心臓がドキリと一つ波打った。
「悪い気……それは、もしや命に?」
「はい、残念ですが。これは、かなり強い邪気、邪念の類です。念を受けた方は身体に不調がある、捨吉さんの御嬢さんのように気の病に罹っているでしょう。一刻も早く念を祓わねば命に関わる。朱王先生、もしやこのお屋敷にお知り合いがいらっしゃるのですか?」
「え、えぇ……ここの使用人に、妹が嫁ぎまして」
賢正の話に少なからず衝撃を受けた朱王は、つい妹の事を口走ってしまう。その途端、賢正の顔に微かな喜びの色が浮かんだ。
「そうでしたか、こちらに妹さんが。ならば朱王先生、このお屋敷の方に、私どもを紹介願えませんか? 見ず知らずの神主が、突然やってきて邪念だ何度と言ったところで、門前払いを食らうだけです。すぐに手を打てば死人が出ずに済みます、だからお願いします、どうか力をお貸しください」
『お願いします』そう言いながら深々と頭を下げる賢正と二人の巫女を前に、朱王は固い表情のまま返事を返せないでいる。確かに、彼の言う事は最もだろう。
一、二回会っただけ、素性のわからぬ神主を桐野へ紹介してもよいのだろうか、一瞬頭をよぎった思い。しかし、今は海華の事が第一だった。
「わかり、ました……。今、妹の亭主に訳を話してきますので、しばしここでお待ちください」
ぎくしゃくとした動きで一礼し、朱王はそのまま屋敷の玄関へと向かう。いつもなら裏口から入るのだが、今はそんな事を考えている暇はない。
いささか乱暴に戸口を引き開け、『ごめんください』と大声で叫べば、すぐに奥から紺の着物を纏った志狼が姿を現す。
「朱王さん……どうしたんでぇ、こんな早くから」
普段なら、朱王はまだ布団に潜り込んでいる頃だろう。
そんな彼の突然の訪問に、最初は驚きの表情を隠さなかった志狼だが、すぐにニヤリと悪戯っぽい笑みを見せた。
「もしかして、腹が減って俺が来るまで待てなかったか? すまねぇな、今日は色々と……」
「違う、飯なんかどうでもいいんだ。海華……あいつはどうしてる?」
志狼の話を遮り、若干の苛立ちを見せる朱王、そんな彼の様子に志狼は何度か目を瞬かせ、屋敷の奥を指差す。
「奥にいるぜ。だいぶ調子もよくなったって、旦那様のお支度をしてる。―― 朱王さん、何かあったのか?」
「あぁ、実は……。志狼さん、すまないが桐野様にも少しお時間を頂けるか聞いてくれないか? 海華の事で、会って頂きたい方がいるんだ」
「旦那様に会って欲しい方? 誰なんだ? まずは俺に訳を話してくれ。それからじゃねぇと旦那様にはお繋ぎできねぇ」
確かに志狼の言う通り。玄関先での立ち話だが、今はそんな事を構っている暇はない。彼と額を付き合わせるようにして、賢正からの話を聞かせると、志狼はみるみる表情を強張らせ、生唾を飲み下す。
「おい、そりゃ本当か? 確かに、海華は身体の調子が今一つだが……大体よ、その両国で死んだ女ってぇのも出任せかもしれねぇ……」
「いや、それは本当だ。昨日、俺が調べてきた。志狼さんには知らせるなと、あいつに口止めしたのも俺だ。すまない、また心配かけさせたらと思うと……」
『おかしな気遣いするんじゃねぇ!』そう低く怒鳴って鋭い目付きで睨み付けてくる志狼は、同様を隠せない様子で左腕の肘へきつく爪を立てる。
「それで、今外に賢正とやらが来てんだな? 朱王さん、あんな胡散臭せぇ野郎の言う事信じてんのか?」
「頭っから信じきっている訳じゃない。ただ、万が一と言う事がある。海華の具合が良くならないのか、なにかがわかるかもしれないじゃないか」
海華を案じる気持ちは朱王とて同じ、 藁にもすがる思いだ。眉根を寄せ、腕組しつつ考え込む志狼の視線が、自身の足元辺りを世話しなく飛ぶ。暫しの静寂、それがとてつもなく長い時間に朱王には感じた。
「わかった。今、旦那様に訳をお話ししてくる。朱王さんは、その神主連れてここで待っていてくれ」
表情は相変わらず厳しいまま、そう残した志狼は、足早に屋敷の中へと消えていく。それを見送る間もなく、朱王は賢正を呼びに表へと走った。やがて、『旦那様の許可を得た』と再び志狼が玄関先に姿を現し、朱王と賢正、そして巫女二人は客間へと通される。
磨き上げられた廊下に反射する目映い日の光。突き刺さる眩しさに思わず顔をしかめた朱王、そのぼやけた視界の向こうに、ひどく不安げな面持ちで佇む海華の姿があった。
「兄様……」
朱王らを迎える支度でもしていたのだろう、客間から姿を見せた海華は朱王の姿を認めるなり、消え入りそうな声を出す。日光の加減なのだろうか、彼女の顔色はいつもより白く、胸の前できつく握られる手は小刻みに震えているようだ。彼女は朱王の後ろにいる賢正、巫女へと目をやるなり硬く唇を噛み締めたまま、無言となってしまう。
「あぁ、貴女が朱王先生の妹様ですね?」
不穏な空気を動かしたのは、朱王の横から顔を出した賢正の一言だ。彼はにこやかな笑みで一礼する彼に戸惑いながら頭を下げる海華は、一度唇を開いた後、半ば無理矢理な笑顔を作る。
「こちらへどうぞ。すぐに、旦那様がいらっしゃいます」
賢正と巫女を客間へ通す、しかし朱王は廊下に立ったまま中へ入ろうとはしなかった。そんな彼を促す訳でもなく、海華は静かに障子を閉める。 初めて、兄妹の視線が交わった。
「志狼さんから話は?」
「聞いたわ。両国の人の事も……。兄様、あたし……」
「大丈夫だ。とにかく、桐野様をお呼びしろ」
ここで下手な慰めをしても、かえって海華を不安にさせるだけだ。いささか冷たいが、今はこれが一番いい方法だろうと朱王は思った。海華は堅い表情をそのままに桐野を呼びに彼の部屋へと向かう。彼女の背中を見送った後、朱王は客間へと姿を消した。
屋敷の主である桐野が客間へ姿を現した時、賢正と御付きの巫女二人は畳に額を擦り付けんばかりに深く一礼した。
出勤前の慌ただしい頃合い、本来ならば来客は断っているのだろうが、志狼から既に賢正の事を聞いていたのだろう桐野は、特段不機嫌な様子もなく上座につく。
だが、その表情は朱王や志狼、そして海華と同じく堅いままだった。
「―― 志狼から一通りの事は聞いている。そなた……賢正殿と言ったな? この屋敷から悪い念とやらが出ている、というのは本当か?」
「恐れながら、真実でございます。私の見立てによりますと……邪念を向けられているのはそちらにおります海華さんかと。ここ最近お屋敷に何かいつもと違う変わった出来事はありませんでしたか?」
畳に手をついたまま、上目遣いで賢正が問う。
一瞬口をつぐんだ桐野だったが、やがて顎の下を指で擦りつつ『あった』と一言答える。そして、志狼に命じて件の藁人形を持ってこさせ、賢正の目の前に並べたのである。
「そうですか、これが……。私が感じた邪念は、間違いありません、これから放たれているものです。そしてその矛先は……」
藁人形の一つを手にして、ゆっくり身を起こした賢正、そして巫女二人の目は迷うことなく志狼の隣に座る海華へと向けられた。
「海華さん、貴女へ向いています。このままでは貴女の身体が……いや、命までもが危ない」
真剣な面持ちで自分を見詰めてくる賢正は、紙を短く切り揃えた巫女……どこか狐を思わせる目付きの女へと振り返る。すると巫女は、懐から薄い紫がかった紙を一枚取り出して彼へと差し出した。
「これは、神社の境内に湧く泉の水で梳いた紙……いえ、霊験あらたかなお札です。これを、今夜お休みになられますときに海華さんの胸元へ。夜着の中の、胸へ直に当たりますよう身に付けてください」
「胸に当てて休む……か。そうすると、これがどうなるのだ?」
「『悪意』がどのくらい強く向けられているのか、これではっきりわかるでしょう。明日、お札を確かめにまた伺わせて頂きます」
念のためお屋敷を清めさせて頂きます。そう言って屋敷のあちこち、母屋から離れまでまんべんなく清めの塩を振り撒いた後、賢正は巫女二人を従え帰っていった。三人の背中を見送って早々、海華は箒を手に廊下や部屋にばらまかれた白くべたつく結晶を憮然とした表情で掃除し始める。
「お部屋の中こんなに汚すなんて、本当勘弁してほしいわ!」
ざふざふと畳を掃く音で腹立たしさを現す彼女の後ろ姿を見る朱王は、どこか困惑した様子でガリガリ頭を掻き、彼女を呼び止める。『なぁに?』と間延びした返事と共に海華は身体ごと朱王の方へと振り向いた。
「いや、その……平気なのか、あんな事言われて」
海華の事だ、内心は不安でも平静を装っているのではないか。そんな思いから生まれた朱王の台詞に、海華は少々困り顔で小首を傾げる。
「そうね、不安は不安だけど、鬱ぎ込んでいたって仕方ないかな、って思っちゃったの。……大丈夫よ。きっと……きっと大丈夫」
自分自身に言い聞かせているのだろう海華の手が、指の関節が白くなるほど強く箒の柄を握り締める。無意識に、本当に無意識に朱王は彼女へ歩み寄ると、その身体を抱き寄せていた。背中に廻される朱王の手のひら、そこから伝わる体温が心の内に宿る恐れと不安の冷たい塊を溶かしてくれているようだ。
朱王の胸に顔を埋めたまま、海華は何も言わない。彼女の背中を撫で続ける朱王も、口を開くことはない。言葉を交わすよりも、伝わってくる温もりが互いの気持ちを繋いでいた。と、玄関の方からパタパタと軽い足音が聞え、廊下に長い人影が浮かぶ。桐野を見送りに出かけていた志狼が帰ってきたのだ、そう思った海華は朱王から身を離し目元を手の甲で軽く拭った。
「あ……旦那様は?」
「あぁ、今出掛けられた。お前、大丈夫か?」
いつもより静かな、嫌意気消沈気味の海華を気遣っているだろう志狼の表情も曇りがち。そんな彼へ静かな微笑みを送って、『大丈夫』と一言反した海華の手が再び箒を操りだした。
「あたしなら大丈夫よ。明日には、いろいろわかってるはずだから。それより志狼さん、今夜、また何かあったら……その時はよろしくね」
「あぁ。任せておけ。俺も、旦那様もついてる。朱王さん、海華の事は俺に任せてくれ」
硬い表情はそのままながら、彼は朱王の目を真っ直ぐに見詰めてハッキリと言い切る。彼にならば安心して海華を任せられる、常々そう思っている朱王は一も二もなく頷き応えた。明日、海華の様子を見に来ると告げて、朱王は屋敷を後にした。
まんじりともせず朝を迎えた朱王は、日が昇るとほぼ同時に八丁堀の桐野邸へ向かう。ヒヤリと冷たく清々しい朝の空気が全身を包み、全身の毛穴が締まる感覚に身震いしながら道を行く朱王の気持ちは急きに急き、寝起きのまだ霞がかった意識とは正反対に足の進みはいつもより速い。普段なら裏口から出入りするのだが、今日ばかりはそんな事にかまってはいられなかった。
『ごめんください』そう玄関から何度か声を掛けるも返事はない、もしや海華の身に何かあったのだろうか、一抹の不安が朱王の胸をよぎったその時だった。屋敷の奥から慌ただしい足音が聞え、癖のある前髪を汗で額に張り付かせた志狼が些か慌てた様子で飛び出して来た。
「あ……朱王さん、!」
「志狼さ、ん? 海華は……どうしてる? もう起きているんだろう?」
一杯に目を見開き、その場に釘付けとなったように立ち尽くす志狼を前に、朧気だった不安が胸中で急激に成長していく。そんな彼を前に、志狼は一度自身の背後に視線を向けてから、再び朱王へ向き直った。
「海華は、起きてる。でも……あぁ、直接見てもらった方が早ぇえ。上がってくれ」
来た時と同じくらいバタバタと賑やかな足音を立てて離れへ向かう志狼の後を追った朱王、渡り廊下と室内を隔てる襖の前で一度木森を整えるように息を吐く。先に室内へ消えた志狼の後から中へ入った朱王、必要最低限の家財道具しか置いていない簡素な部屋の真ん中には一組の布団が敷かれ、そこに横たわる海華の姿と、彼女の横に座する桐野の姿があった。
「海華!」
「あ、兄様!」
「朱王! きていたか」
桐野と海華、二人の顔がほぼ同時に朱王へ向けられる。起き上がろうと身動ぎする海華は昨日とあまり変わらない様子で、どこか具合が悪い訳でも怪我をしているわけでもなさそうだった。
「早くに申し訳ありません」
「何を水臭い。海華の一大事だ、朝も夜中もなかろう。さ、早くここへ」
些か急かすように朱王を手招き自らの横へ座らせる桐野。
海華を挟んで、彼の前には顰めっ面をした志狼が座している。なぜ、彼の表情がこんなにも険しいのか。
それより先に朱王が疑問に思ったのは、なぜ海華が床に臥しているのか、という事だ。
「海華、夕べはどうだった?札、付けて寝たんだろう?」
「うん、付けたわ。そうしたら、これ……」
布団に横たわったまま、上掛けを腹の辺りまで捲り上げた海華は、寝巻きの胸元に手を掛ける。チラ、と彼女の視線が志狼へと向けられ、何かを問いたげに唇が開きかけた。
「いいから、見せてやれ」
どこかぶっきら棒にも感じる声色で答える志狼に無言のままで頷いて、海華は寝巻きの合わせ目を軽く開く。朝の白い光に満たされた室内で、普段は日にも当たらぬ胸元がほんのりと輝く。
彼女の行動に一瞬戸惑い、隣にいる桐野へ視線をやれば、彼は気を遣ってだろう僅かに顔を背けている。徐々に露となっていく胸元、乳房が見えぬようやや強めに横へと開かれたそこ、ちょうど心の臓があるであろう辺りを目にした途端、朱王の目が驚きに大きく見開かれた。
普段なら白く滑らかであるはずの薄い皮膚は、縦長の長方形に赤く爛れ、虫刺されのように丸い丘疹があちこちにできている。寝巻きが擦れて痛いのか、それとも痒いのこ分からぬが、海華は軽く顔をしかめてその丘疹の一つを指先でつついた。
「あまり触るな。お前、これは……」
「夕べ、ここに御札を置いて寝たの。そうしたら、夜中に凄く痒くて熱くて……我慢できなくて剥がしたら、こんなになっちゃって」
「夕べよりも腫れが広がってんだ。一応冷やしたりなんだりしたが、治まらねぇ」
苦虫を噛み潰した、との表現がしっくり来るだろう表情で呟いた志狼は、腿の上に置いていた両手をきつく握り締めた。




