恋かもしれない…恋愛偏差値ゼロ 第3部 56
熱海出張を命じられたのは、それから、まもなくだった…
「…エッ? 熱海出張ですか?…」
偶然というか…
話が、できすぎていると、思った…
つい、先日、好子さんから、
「…ぜひ、熱海に行って、父に会ってみて…」
と、言われたばかりだったからだ…
だから、これは、もしかしたら、水野良平の差し金かなとも、思った…
米倉平造の盟友、水野良平の差し金かなとも、思った…
なにしろ、いま、私の勤める会社は、水野グループで、水野良平の紹介で、入社したからだ…
が、
さすがに、それは。考え過ぎというか…
平造に騙された良平が、いまだに、平造と付き合いがあるとは、思えなかった…
そして、それは、あの好子さんも、同じ…
同じだった…
あの好子さんは、水野良平を子供の頃から知っていると、言った…
しかしながら、米倉と水野の合併が、解消になってから、水野良平と好子さんが、付き合いがあるとは、思えなかった…
付き合いがあれば、好子さんが、良平に頼んで、私に熱海行きを命じることが、可能かも、しれないが、さすがに、付き合いがあるとは、思えない…
なにしろ、米倉と水野の合併の解消は、事実上、けんか別れのようなものだったからだ…
だから、会社同士が、けんか別れした後で、事実上の両社のトップ同士が、いまだに、関係があるとは、考えづらいからだ…
だから、好子さんが、良平に、この熱海行を頼んだとは、思えなかった…
営業所長の前沢が、
「…で、熱海の行くメンバーだが…」
と、私に行った…
「…あの米沢さんと、行ってくれないか?…」
と、前沢が、言った…
実に、言いにくそうに、言った…
私と米沢さんの関係がわかっているからだ…
私と米沢さんが、バチバチの関係であることが、わかっているからだ…
だから、
「…なぜ、彼女と、いっしょに?…」
とか、
「…どうして、彼女と、いっしょに?…」
とか、言いたかったが、その前に、前沢が、
「…二人とも、この営業所に入って、まもない…だから、研修の意味もあって…」
と、言った…
そして、そう言われると、なんと言っていいか、わからなかった…
私は、まだ、この会社に入社して、一か月弱…
かの米沢さんも、また、私が、入社する、ちょっと前…
たしか、三か月か、そこら前に、この会社に入社したばかりだと、言った…
だから、二人とも、新人…
この営業所では、新人だ…
それゆえ、
「…研修…」
と、言われると、行かざるを得ない…
断ることなど、できない…
まして、私も、米沢さんも、まだ、新人だから、この営業所に、馴染んでいるとは、お世辞にも、いえない…
なにより、戦力になっているかと、問われれば、
…微妙…
実に、微妙だからだ(苦笑)…
まだ、入社して、まもないから、ひとに、教わることが、多い…
だから、とてもではないが、戦力とは、呼べない…
会社もまだ、入社まもないから、そんなものかと、大目に見ている…
そんな状況で、とてもではないが、前沢の要求を断ることなど、できない…
だから、私は、
「…それって、新人研修ですか?…」
と、だけ、聞いた…
断ることなど、とてもできないから、ただ、研修の中身を知りたかったからだ…
私の質問に、前沢が、
「…うん…まあ、そんなものだ…」
と、曖昧に、言葉を濁した…
そして、それ以上は、言わなかった…
それは、私もまた、同じ…
同じく、それ以上は、聞かなかった…
おそらく、聞いても、前沢は、答えないだろう…
なにを言っても、答えないだろう…
私が、これ以上、聞けば、押し問答になりかねないからだ…
だから、なにも、言わなかった…
これ以上、なにも、言わなかった…
ただ、
「…米沢さんは、どうなんですか?…」
と、だけ、聞いた…
「…どうと、言うと?…」
「…彼女も、行くんですか? 承知しているんですか?…」
「…それは、会社の命令だから…」
前沢が、言う…
「…言われれば、断る選択肢は、ないだろう…」
当たり前のことを、言った…
そして、そう言われると、私も頷かざるを得なかった…
まさか、三十路を過ぎた女が、堂々と、
「…嫌です…」
なんて、言えるはずが、ないからだ…
二十歳やそこらの女じゃ、ないんだ…
すでに、社会人として、十数年、会社員をやっていた…
金崎実業で、大学を卒業以来、33歳まで、働いていた…
それゆえ、会社は、違うが、会社員のルールといえば、大げさだが、しきたりというか…
上が、すでに、決定していることに、抗っても、どうにも、ならないことが、わかっているからだ…
それゆえ、文句を言っても、仕方がないことが、わかっているからだ…
そして、それは、彼女も、同じだろう…
彼女、米沢京子も、また、同じだろう…
彼女、米沢京子もまた、私と同じぐらいの年齢…
すでに、三十歳を超えている…
だから、社会のルールというか…
会社のルールが、わかっている…
それゆえ、逆らっても、仕方がないことが、わかっているからだ…
私は、ただ、
「…わかりました…」
と、だけ、言った…
これ以上の言葉は、無用…
無用だからだ…
「…それで、研修の日時は?…」
「…早速だが、来週早々に頼む…」
「…来週ですか?…」
「…そうだ…」
内心、早いとは、思ったが、口に出せなかった…
会社の命令なら、口を出せなかった…
そして、つくづく、自分は、平凡な社会人だと、思った…
なぜ、思ったのか?
それは、あの好子さんや、水野透たちと知りあったから…
いまどきの言葉で、言えば、上級国問の彼ら、彼女らと、知り合ったからだ…
彼ら、彼女らは、命じる側…
私たちに、アレコレと、命じる側の人間…
そして、私は、命じられる側の人間だからだ…
私は、思った…
私は、考えた…
そして、それを、思えば、怖いのは、私も、命じる側の人間だと、自分を錯覚することだ…
私が、あの好子さんや、透と、いった、命じる側の人間と、知り合ったことで、いつのまにか、自分自身を、誤解して、自分もまた、命じる側の人間になったと、錯覚してしまうことだ…
私自身、平凡で、なんの取り柄もないにも、かかわらず、自分自身もまた、上級国民と錯覚してしまうことだ…
上級国民の好子さんや、透と、知り合ったことで、自分自身もまた、上級国民になったかのように、錯覚してしまうことだ…
私は、今、営業所長の前沢に、熱海の研修を命じられたが、それが、嫌なら、透に、連絡して、熱海行きを取り消して、もらいたいと、連絡する…
透は、水野グループの御曹司…
同じ水野グループの子会社、あるいは、孫会社に過ぎない、この会社の人事をひっくり返すなど、造作もないことだろう…
もしかしたら、そんな、連絡をしてしまうかも、しれない…
いや、
そんな連絡をして、しまいかねない…
それほど、調子に乗りかねない…
そんな自分が、一方にいる…
そして、そんな自分を叱る、もうひとりの自分が、いる…
それゆえ、まだ、そんな自分を叱る、もうひとりの自分が、いるうちは、いい…
が、
やがて、もっと調子に乗り、自分を叱る、もう一人の自分が、いなくなってしまう…
それが、怖い…
怖いと思った…
いつのまにか、自分も、上級国民の仲間入りをしてしまう…
自分自身が、まったくの平凡な人間にも、かかわらず、上級国民の好子さんや、透と知り合っただけで、自分もまた上級国民になったかのように、誤解してしまう…
それが、怖い…
怖いのだ…
人間は、平等では、ない…
生まれつき、違う…
顔も、身長も、頭の中身も、違う…
さらに、いえば、生まれも違う…
最初から、お金持ちの家に生まれるか?
あるいは、
普通の家に生まれるか?
差がある…
つまりは、平等ではないということだ…
それが、まるで、すべての人間に、違いがないように、教える…
それは、戦後民主主義の教育の間違いだと、誰かが、言ったことを、聞いたことが、ある…
言われてみれば、たしかに、そうかも、しれない…
たしかに、その通りかも、しれない…
そもそも、お金持ちと、普通に生まれた人間とは、歩むべき人生が違うからだ…
私のような平凡人と、好子さんや、透のような金持ちとは、歩むべき人生が、違うからだ…
私が、近い将来、結婚して、会社を辞め、専業主婦になり、子供を産む…
そして、子供の、手がかからなくなったら、近所のスーパーにパートに出て、家計を助ける…
それが、私の生きる道…
私の歩む人生だ…
しかしながら、好子さんは、そんな人生を歩むまい…
私と、好子さんは、外見が、姉妹レベルで、似ているが、さりとて、大金持ちの好子さんが、結婚して、スーパーにパートに出るなんて、ことは、ありえないからだ…
だから、誤解しちゃ、ダメ…
調子に乗っては、ダメだと、肝に銘じた…
自分自身に、固く命じた…
自分自身に、強く命じた…
人間は、平等ではない…
私は、上級国民ではない…
いかに、上級国民と知り合っても、私自身は、上級国民ではないし、自分が、将来、上級国民の仲間入りするわけでもない…
そう、強く、自分自身に言い聞かせた…
なにより、学生時代の友人たちではないが、いずれは、私も、好子さんや、透とは、会うこともなくなるだろう…
今は、偶然、知り合って、連絡を取り合う仲だが、そんなことは、今だけ…
今だけのことに、過ぎない…
おそらくは、2年も経たないうちに、連絡を取り合うこともなくなるだろう…
そもそも、彼ら、彼女らとは、私が、住む世界が、違うのだから、当然のことだ…
私は、思った…
私は、考えた…
だから、調子に乗っては、いけない…
だから、誤解しては、いけないと、思った…
考えた…
そして、そんなことを、考えながら、自分の席に戻った…
今、私が勤めるM商会の営業所の自分の席に戻った…
…来週は、熱海に行かなくてはならない…
そう、強く、心の中で、思った…
米沢さんと、いっしょに行かなければ、ならないと、思った…
それから、米沢さんは、どうしたんだろ?
と、思って、営業所内の彼女の席を見た…
いなかった…
彼女の姿を探して、見ると、さっきまで、私のいた席にいた…
所長の前沢の前にいた…
私同様、研修のことを、話しているのだろう…
彼女が、神妙な表情で、聞いていた…
私は、それを、見て、不安を覚えた…
いや、
不安を覚えないわけはない…
なにしろ、彼女は、私を目の敵にしている…
なぜか、わからないが、目の敵にしている…
そんな人間と二人で、熱海に行くのだ…
不安を覚えないわけはなかった…
当たり前だった…




