第三十九話「君の隣」
春から夏にかけての大会の季節。それは優海にとって少しばかり憂鬱になる期間だった。というのも、この時ばかりはゆるく部活動に参加している志真も本格的に練習に参加するためあまり会えなくなるのだ――もちろん、それだけが理由ではないのだが。
部活動へと向かう志真の背中を横目に眺めながら、ゆっくりと廊下を歩く。今年もクラスは違う為どちらかが意図的に教室へ向かわない限り偶然に会う確率は低い。隣で携帯を眺めながら歩いている廉也からはクラスを一緒にするために何かするのかと思った、などと言われもしたがそもそも文理でクラス分けされるこの学校では二年生の時に違うクラスであればほとんど三年生でも同じになることはない。
ごくまれに文理変更を行う生徒もいるが、優海はそれをしなかった。なぜならそれをしたとしても志真が喜ぶ想像が出来ないからだ。真面目な志真はそもそも私的な理由で進路を変更したなどと知れば距離を置いて接しかねない。いや、むしろ距離を置かれたまま離れていく可能性すらある。それだけは絶対に避けなければならなかった。
「あれ、榊先生じゃん。お前知ってる?新しいバスケ部の顧問」
「あーそういえば、志真が言っていた新任の先生だね。二年の現代文担当だって――は?」
校門へ向かう途中、廉也が体育館を見ながら新しい教師の話題を出す。どうやら部活動へ向かう途中のようで体育館へと入っていく背中が見えた、と思ったところで中から出てきた志真と親し気に話し始めた。
思わずその場に立ち止まって食い入るように二人を見つめる優海の目は明らかに獲物を捕らえる肉食獣のごとき光を宿している。
しばらくすると話を終えたのかそのまま外で基礎練習をしている一年生に合流しようとした志真の頭を撫で、笑っていた。対する志真は煩わしそうにその手を弾くと何やら小言を言ってから外へ走って行ったものの、その表情はまんざらでもないようで僅かに緩んでいる。
今のは一体何なんだ、優海の脳内に疑問が沸き上がると同時に激しい感情の波が海の心を埋め尽くす。確かにこれまでにも志真の周囲の人間に嫉妬やそれこそ志真に対する独占欲を抱いている自覚はあった。しかしそれはあくまで対等な立場に居る同級生や後輩という枠組みの中の存在に対してであり、教師がそこに入ってくるとはまったくもって思っていなかった。
「なんか、仲良さそうだな。頼れる年上ポジションの先生って感じ――うわっ!優海、お前マジで顔顔!!見せられねー顔になってるって!!」
「え?そう?」
廉也が慌てて優海の顔を隠そうと手を振る。学内で王子と呼ばれている普段の穏やかな表情からは想像もできないような鋭い視線で眉間に皺が寄り、敵を睨みつけるような目で榊を捉えていた。
言われるまで気が付かなかったのか、廉也の指摘で慌てて顔を隠すもその表情は険しいままだった。
それからというもの、自ら志真と距離を置いているのにも関わらず志真の周囲に榊の姿が見えるだけで明らかに優海の機嫌は悪くなっていった。当然、志真や他の生徒からは分からないように取り繕っているものの、普段から近くに居る廉也にしてみればあからさまに不機嫌になる為、むしろ不機嫌になったタイミングであたりを見渡せばすぐに榊と志真の姿を見つけることが出来るほどだ。
志真に会う頻度が減っているとはいえ全く会っていないわけではないのだが、どうしてもぎこちなくなってしまうのは季節のせいなのか榊との関係を気にしてなのかは優海ですらも分からない。
「最近、なんか元気ないか?」
昼休み、志真と一緒にご飯を食べているとふと疑問を投げかけられた。その表情は本当に心配をしている不安げな表情であり、そんな表情をさせてしまったことに優海の心が痛んだ。
まさか、新しく入った部活動の顧問に対して嫉妬しているなどとは口が裂けても言えない。
「えっ、そ、そう……かな?僕は普通に元気なつもりだったんだけど……」
「それなら良いんだけど。去年とかも、この時期あんまり元気なさそうだったし、俺は部活に集中しててあんまり優海のこと見てなくて……とか言うのはちょっと変だけど。何か、心配……で」
どうやら理由こそ知らないものの、この時期になると優海の態度が普段と変わることには気が付いていたらしい。上手く取り繕えていると思っていたが、志真の目は欺けなかったようだ。
本当のことを伝えようか、顧問の話は一旦置いておくとして、部活動の大会へ力を入れる志真を見るとどうしてもあの時のことを思い出してしまうのであれば、いっそのこと伝えてしまった方が良いのではないだろうか。今の関係性ならばきっと受け入れてくれるような気もして少しだけ口を開いては閉じるを繰り返す。
「別に、言いたくないなら無理にとか思わないから。でも、俺もたまには優海の力になりたいっていうか、悩みがあるなら相談に乗りたいし」
「そ、そんなっ!言いたくない……とかじゃなくて、もしかしたら志真にとってはあんまり思い出したくないことかもしれないと思って、その、部活の大会とか……」
どこまで話すべきか悩んだものの、志真の心配そうに揺れる瞳を見ると少しだけでも話した方が誠実なのではないか、と思考が傾く。そして何より、いつかはこの話をしなければならないのだから、いっそのこと志真から聞いてくれた今のタイミングで話すべきなのではないだろうか。
「あ、あぁ。中学の頃の話ってそういえばあんまりしてないよな」
僅かに驚いた顔をしながらも暗くなる様子は無い。少しずつでも前に踏み出せているということなのだろう。それならばと優海も意を決して今まで抱えていた過去の記憶を紐解く。
「実は僕、中学三年の時に志真の大会見に行ってたんだ」
その一言に志真の目が見開かれる。顔色までは変わらないものの想像していた方向とは違う話が出たことによる驚きと捉えていいだろう。ここで過去のことを思い出し表情が暗くなるようであれば話を止める所だが、どうやらその段階は既に乗り越えたらしく静かに話しの続きを待っている。
志真の表情の変化に優海の心臓が跳ねそうになるが、この沈黙は肯定的にとらえても大丈夫だろう。
「その頃には少しずつ動けるようになってたから、その……志真に会いに行きたいなって思って。大会見て、すごいなっておめでとうって言いたくて……試合終わった後の志真のところに行こうとしたら。お父さんと話してるところ聞こえちゃったんだ」
静かに、ただ事実だけを語る優海の言葉は柔らかいが、あの出来事を聞かれていたという衝撃に思わず手を握り締める。落ち着かせようと左手首に右手が伸びたところで、隣に座っていた優海の手がそっと重ねられた。重ねられたその手も僅かに震えており、優海にとってもこの話は簡単なものではないことに気が付く。
「僕、何も言えなくて……出ていくことすら出来なかった。その時の僕は今ほど健康でもないし、自信もって大丈夫って言えるような状態でも無くて、だから……一番辛いのは志真だって分かってたのに僕は逃げたんだ。本当はあの時に大丈夫って言いたかったんだ。志真はすごいって他の誰でもなく僕が一番、志真に救われてたから。だから、逃げちゃったことが本当に情けなくて、申し訳なくて……そんなことをこの時期になると思い出して。勝手に志真の近くに居るのが申し訳なくなって――」
一度口を開いたら止まらなくなってしまう。そんな濁流のように言葉と感情が流れ、決壊寸前のところで重ねていた手が握り返される。その手は暖かくて、力強い。
「ありがとう」
ただ、それだけの言葉が。どうしようもなく涙に濡れる視界の中でひたすらに輝いて聞こえた。




