第三十六話「春の訪れ」
志真の怪我から時が経ち、季節は再び春を迎えた。
結局、優海があの日何をしたのかについて志真から問われることはなかった。翌日顔を合わせた際に何か言いたげに視線を彷徨わせた気がしたがそれすらも一瞬のことでいつものように変わらない表情のままただ挨拶を交わした。
お互いに抱えていた思いを吐き出したことにより今まで以上に物理的な距離だけでなく心の距離も近付いたのは周りの反応からも明らかだった。ある時はあまりに親密な空気感を感じ取ったのか廉也から「とうとう付き合い始めたのか?」と聞かれたが、そんなことはなく――ただ親友の一人に数えられた、今はただそれだけでいいのだ。
春。それは出会いの季節である。
四月一日、生徒はまだ春休み中だが教師にとっては新しい赴任先が始まる日であり、新生活の幕開けだ。
新任としてこの学校にやってきた榊 晴臣は一通りの案内を受けた後、校内を見て回ってくるようにと指示を受け一人で屋上へとやって来ていた。話によれば屋上への立ち入りは特に禁止されていない学校ではあるが、風が強く休める場所も特にないことから用事が無ければ来る生徒は滅多にいないという。
屋上へ繋がる扉を開けると確かに風が強く、扉を閉める手に力が入った。フェンスに囲まれ特に代わり映えのない校舎の屋根が広がるいたって普通の屋上だ。特に見回るという場所でもないがぐるりと見渡すと人影が視界に入った。在校生だろうか。
授業は無いはずだが校内にはちらほらと生徒の姿もあった為、屋上に居ても可笑しくはないのだがどうにもその生徒から目が離せない。
風に煽られた男子生徒にしては少し長めの黒い髪が顔を隠しどんな表情をしているのかは分からないがどこか寂し気な雰囲気を漂わせる横顔に声を掛けるべきか悩む。だが新任の教師というのは生徒からすれば全く知らない大人であり、いきなり声を掛けるというのもどうかと校舎内へ戻ろうとしたところで生徒がフェンスに手を掛けたのが目に入った。
「なにして……!」
――体が動くのは一瞬だった。男子生徒の左腕と体を背後から掴みフェンスから引きはがす。背の高い榊より頭一つ分は小さいであろう体は想像よりもしっかりとしていたが、成人男性であり体格的にも勝っている榊からすればその体を抱え込むことは容易かった。
驚いたように見上げた男子生徒の深紅の瞳が榊を捉え、僅かに揺れる。
「危ないだろ!何考えてんだ……!」
「えっ……あの……?」
焦りと走った勢いで乱れた呼吸のまま声を張り上げるが腕の中の男子生徒は何が起きたのか分からず戸惑いの表情を浮かべている。その表情を見て慌てていた脳内が一瞬で冷静になる。もしかしたらとんでもない勘違いをしたのかもしれないと。
「ん?……お前、今飛び降りようと――」
「してないですよ」
淡々とした声で男子生徒が告げる。先ほどまでの戸惑っていた表情も消え真顔に戻った男子生徒が抱き寄せられた腕の中から離れようと榊の胸を押す。体が離れたことではっきりと顔が見えるようになったがそのまま去っていきそうな雰囲気を感じて掴んだままの左腕を再び強く握りこむ。
「痛ッ……あの、腕離してもらっても……」
腕を引かれたことで僅かに制服の袖が上がり、手首が露出する。しまった、と明らかに不愉快そうな表情をする男子生徒を見て慌てて手を離す。しかしその一瞬でも榊の目には手首についた赤い痕が映っていた。痛みが出るほど握ったつもりは無かったがどうやら赤い痕に触れてしまったらしい。
袖を戻しながらもその場には留まってくれている彼に今度は正面から声を掛ける。
「悪い。その……いじめ……とか嫌がらせとかされてるのか?」
「別にされてませんよ。てか、誰っすか?この時期に居るってことは新しい先生ですか?」
微妙に合わない目線のまま訊ねてくる様子からして榊が教師であり新しく赴任してきたというところまで分かっているのだろう。部活動の服装でもないところから入学式の準備をしに来た在校生というところだろうが屋上に居た辺り集団で行動するタイプにも見えない。
「あぁ。俺は今日から新任で来た榊です。よろしく」
「新任……あぁじゃあバスケ部の顧問になる予定の先生ですか?」
「そ、そうだけどよく分かったな」
少し自己紹介をしただけで合点がいったようでまだ発表されていないはずの部活動まで当てられ驚く。先ほどまでの不審がる様子は消えたが同時に表情も消えたため彼が何を考えているのかよく分からない。前髪から覗く紅い瞳が榊を見上げて品定めするようにゆっくりと上下に動く。その動きがどこか外敵を警戒する小動物のようにも見えて不思議と不快な気持ちにはならない。
「じゃあこれから仲良くしないとですね」
「どういう……?」
「バスケ部三年の夢渡志真です。顧問の先生から新任の先生がうちの部に来るって聞いてたんですよ。よろしくお願いします、榊せんせー」
僅かに細められた目とゆるく上がった口角が微笑んでいるように見えるが瞳の奥は何を考えているのか分からないままの志真に何故か緊張感が走るが、挨拶自体は好意的な言葉だ。
三年ということは授業を担当することはないが部活動で関わりを持つのだとすれば仲良くした方が良いだろう。もちろん生徒なのだからそれなりの距離感というのは良くも悪くもあるが。
自己紹介が終わったところで再び手首の傷について思い返し、志真へ問いかけようとしたところで屋上の扉が開き大柄な生徒が志真を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい!!こっちの仕事も終わったから帰るぞー!!」
「おっけー、今行く!……それじゃあまた。あ、コレのことは他の人には言わないでくださいね」
扉の近くで待つ生徒へ返事をすると、榊を振り返り忘れていたと言わんばかりに釘をさす。その声色は先ほどの挨拶と違い明らかに固い。いじめや嫌がらせではないと言っていたがどうやら友人に知られたくはないらしい。それならば、と踏み込みすぎている自覚はあるがその場を離れようとした志真の肩を掴み一言だけと呼び止める。
「俺は言わない。けど、こんな事は止めろ」
「――。……まぁ、いいっすよ。止めなきゃとは思ってたんで」
以外にも前向きな回答が返ってきたことに驚いている間に志真は屋上から去っていた。
今日会ったばかりの他人のそれも新任の教師に何を、と思われたかもしれないがどうしても言わなければいけないと気が付いたら口から言葉が出ていた。一瞬ではあったが治りかけの傷や真新しい傷も見えたことを思い出し息が詰まる。
気が付かなかったのであればここまで心配に思うこともなかっただろう。だが、気が付いてしまった。あの一瞬、フェンスを握る手がもしかしたらその外側へと彼を連れていこうとしていたのかもしれないと、本人は否定していたが榊にはどうしても違うようには見えなかった。いや、確かに飛び降りたりするつもりは無かったのかもしれないが、その可能性を少しでも感じたのであれば何度でも同じように止めに行っただろう。
これからの学校生活がどうか平穏に過ぎるようにと初日から願う榊だった。
「なあ志真、さっきの誰?」
「新任の先生だって。バスケ部の顧問らしい」
迎えに来た斗馬と話しながら荷物を置いていた教室へと向かう。ただ校庭を眺めていただけだったのだがあらぬ誤解を受けてしまったと冗談交じりに話せば斗馬も笑った。
だがあの一瞬、志真を止めに来た榊と目が合った瞬間に見せた表情はただ止めに来たというよりも切実な――まるで間に合わなかったことがあるかのような――追いつめられた表情をしていたことだけが気掛かりだった。




