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第三十二話「執着」

 結局その日は特に何事もなく、ただいつもより少しだけゆっくりと歩いて帰った。いつもこんな風にゆっくり過ごせたら嬉しいのにと思う気持ちもあったが、外でゆっくり過ごせるということは志真が家に帰りたくないと思っていることに他ならない。であればあまり歓迎できる状況でもないだろう。

 少しでも志真にとって過ごしやすい家になるようにと祈ることしかできない自身に腹が立ちながらも自分だけはいつでも志真の味方であろうと改めて優海は決意を強く固めた。


 だが、そんな考えをひっくり返すような出来事がそのすぐ後に起こった。

 ある日、志真が学校を休んだ。それ自体は時折まだ続いていた為、体調を心配する連絡を入れつつ学校終わりに家まで様子を見に行こうとしたところで志真から思いがけない返信が来た。


『体調は問題ないけど、会える状態じゃないから今日は来ないでほしい』


 今までそんな返信が来ることは無く、文面自体もどことなく冷たい雰囲気が漂っている。嫌な考えが脳裏を過ぎったが、流石に嫌われたわけではないだろうと少しばかり希望を持ちつつあくまで心配をしている旨だけを伝える。

 しかし、学校が終わる時間になってもその後返信が来ることは無かった。

 少しばかり不安に思いつい志真の家の近くまで来てしまったものの、来るなと言われているのに訪ねるわけにもいかず離れた場所で志真の部屋がある場所を眺めてみたが、カーテンが閉め切られており姿を見ることは叶わなかった。

 仕方なく帰ろうと踵を返したところで見知った顔を視界の端に捉えた。志真の兄だ。


 このままやり過ごしても良いが、特別自宅から遠いわけでも無い場所で隠れる必要もないと判断しそのまま隣を通り過ぎるが、向こうもこちらに気が付いたようで足を止める。


「おい、お前……弟に会いに来たのか?」

「……えぇ、ただ今日は会えないみたいなのでまた日を改めます」


 志真とよく似た赤い瞳が優海を見上げる。志真と再会した後に兄である光輝とこうして直接会うことは無かったが、どうやら向こうもこちらを認識しているらしい。

 相変わらず志真とよく似た顔をしているが、その目は志真よりも鋭くどこか不機嫌そうな印象を受ける。だが、恐らくこれは身内判定の相手だからこそだろう。こんな傍若無人な態度をしてはいるが、対外的に人当たりは良いと言われているのだから人の話は当てにならない。

 昔から、光輝のことが苦手だ。そのことを志真に伝えたことは無いし、志真自身が光輝のことを避けていたこともあり恐らく気が付いてはいないだろう。何故苦手なのか、小さい頃に考えたことがある。優海自身が光輝から何かをされたり危害を加えられたことは一切ない。それどころかいじめっ子を散らすために協力してくれた時もあったと記憶している。

 それでも苦手な理由は簡単だ。志真のことを大切にしないからである。


 その昔、志真と一緒に遊んでいたこともあるが、基本的に光輝は志真のことを邪険に扱った。遊びに入れないなんてことはよくあったし、複数人で遊ぶ際に志真だけを置いてどこかへ行ってしまったこともある。それでも志真は兄のことを苦手とすれども嫌うことはなかった。むしろ兄のようになりたいとまで言っていた。

 優海にはそれが理解できなかった。なぜ志真のことを大切にしない人間を大事に思うのかと、だが皮肉にも志真の心が壊れてしまったことで真意を理解することが出来た。

 志真は兄のようになりたいと言っていたが、兄自身になりたいわけではなかったのだ。兄のように周囲に認められたいと思っていただけだった。そして特に父親に認められたかった。

 その夢は叶うことなく引き裂かれ、志真という存在を地面にたたきつけたガラスのごとく粉々に砕いてしまったのだが。それでも今もなお、他人を助けようとする気持ちや咄嗟に動いてしまう体が志真がただ承認欲求だけで行動していたのではないと証明している。

 本人は過去の行いや他人を助ける行動をヒーローじみた偽善的行為だと恥じているが、そんなことは無い。助けられた側からしてみればどんな思惑があったとしても助けられたという事実だけが本物なのだ。

 それをいつか志真に気が付いて欲しいと思っているがどうだろうか、気が付いたとしても表には出さないのだろうとも思う。


 ともかく、だ。目の前に立つ光輝が今の志真にとって最も害となる存在であることは間違いない。それならば今ここで排除するべきか、とも考えるが相手の情報が少なすぎる。排除をしようにも物理的な対応が不可能なうえに正直ここで排除をしたところで志真にとって何か進展が起きるわけでも無いというのが正直な感想だ。さらに言えば今の志真は少しずつ回復している状態なのだから外部から手を出すのは得策とは言えないだろう。

 だが、志真の状態を確認するくらいは大丈夫だろうと光輝に声を掛ける。


「ところで、志真の状態ってそんなに悪いんですか?気になってしまって」

「状態?別に……ちょっと傷が目立つだけだ」


 傷――その言葉に心臓の鼓動が速くなる。もしかしてまた腕に傷を作ったのかと、嫌な汗が背中を伝う。最近は少しずつ減っているように思えていたからこそ傷を増やすような出来事があったのではないかと視界が揺れる。


「その、傷っていうのは……?」


 喉が渇き、少し掠れた声が出るが光輝は特に気にしていないのか表情を変えることなく優海の質問に口を開いたが、その答えは優海の求めるものではなかった。


「あーー、まぁ知らなくていい。お前に言ってないってことは知られたくねーんだろ」


 志真よりも少しだけ低い声で志真とよく似た顔から出てくる言葉に思わず二人の影が重なり、まるで志真に直接知られたくないのだと言われたかのような衝撃にぐらりと一瞬体が傾くのを感じる。

 すぐさまどういうことなのか聞こうと顔を上げるが、既に話は終わりだと言わんばかりに光輝は家に向かって歩き始めていた。


「ちょ、まっ――ッ!!」


 慌てて声を上げたところで自宅から出てきたらしい志真が目の前に現れる。向こうもまさか優海が来ているとは思わなかったのか目を見開いた状態で固まっていた。

 弁明しようと声を上げかけたところで志真の顔を見て思わず息を呑んだ。


「志真、その顔……どうしたの?」


 優海の目に映る志真の右頬は赤く腫れ湿布が張られていた。唇も僅かに切れているように見えるが遠目からでは詳細までははっきりと見えない。立っている姿からしてどうやら体自体は健康なようだが遠目から見ても分かる痛々しい顔の腫れに息が詰まる。

 咄嗟に駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、弾かれるように志真が家へと戻っていく。追いかける間もなく扉が閉ざされ、気が付けば光輝も消えていた。


 やるせない気持ちで帰宅した後も、志真からのメッセージを無視して来たことに罪悪感を感じながら、どうしても痛ましい様子の志真の顔が頭から離れなかった。

 何故教えてくれないのか、一体どこで怪我を負ったのか、考えても答えは出ない。

 志真へ謝罪と共にメッセージを送ってみたものの既読すら付かず一人部屋で頭を抱える。少しずつ距離が縮まっていると思っていた。だからこそ判断を誤って踏み込みすぎた。後悔ばかりが巡るが過去はもう変えられない。

 おそらくこのままでは志真の口から直接話を聞くことは出来ないだろう。であれば調べるしかないとこれまでも情報を集めるために使っていた者たちへ連絡を入れる。

 すぐさま帰ってきた反応に少しばかり安堵しながらも、いつかは志真本人の口から聞けるだろうかと不安な気持ちが胸を埋め尽くす。


 結局、その日一日志真から連絡が帰ってくることは無かった。

 

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