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第三十三話「結論」

 優海に顔を見られた。

 慌てて家に駆けこんだ後、こんな姿を見られたら幻滅されるかもしれないという気持ちのまま自身の部屋へと駆けあがる。音を立てて階段を上ったことにより母親からなにやら注意の声が飛んできたように思えたがそれすらも耳に入らないほどに余裕を無くしていた。


 赤く腫れた頬はまだ熱を持っており、冷たい湿布が少し温く感じる。なんてことはない、いつもの正義感が暴走した結果がこれだ。

 一人の帰り道、少し遠回りをしようと普段は通らない道を歩いていた時のことだ。

 そう、喧嘩をしている――というよりは一方的な暴力を受けている人を見つけてしまった。気付けば勝手に体が動いていた。当然ながら腕っぷしに自信がないと言えば嘘になるが、体格的な部分もあり喧嘩に自ら飛び込んでいくことなどできればしたくないのが本音だ。だが、体が動いてしまうというのはどうしようも無かった。間に割って入り、殴っている人物の右の拳を止めたところまでは問題なかった。だが興奮状態の人間というのはそう簡単に止まるものではなく、倒れている人物に視線を向けたタイミングで相手の左拳が顔面に直撃した。

 すぐさま姿勢を変え、相手を抑えることに成功したものの一方的に殴りつけていただけあって重たい拳に口の中が切れ血の味が広がった。周囲に居た人達も暴力を振るっていた人物が倒れたからか、駆け寄って殴られていた人を介抱したり警察へ通報をしてくれていた。

 そして警察が来たタイミングで、丁度塾から帰宅してきたらしい兄の光輝が通りかかった。家に居るものだと思っていたがそういえば塾にも通っているのだったと思い返したところで、久しぶりに兄の表情が驚きに染まるのを見た気がする。


 家に帰った時に真っ先に飛んできたのは怒声だった。光輝が既に家族に連絡していたようで、玄関には父親が待っており、母親もその後ろで待機していた。

 要約すると兄の大事な時期に喧嘩に巻き込まれるなんて何を考えている、対して強くもないのだから下手なことはせずに黙っていろ――ということらしい。

 感謝の言葉を送ってきたのは助けた――と言っていいのか分からないが――あの時殴られていた少年だけだ。警察ですら危険なことはするなと――ある程度よくやったという賛辞も入ってはいたが――注意がほとんどだった。

 だが、家族ですら褒めるどころか心配の声一つ掛けないのかと分かってはいたがやはり実際に目の当たりにすると心に重くのしかかる。

 母親に手当されながら、その目に少しだけ涙が浮かんでいるように思えたのは見間違いだろうか。いや、そもそもあまり暴力的なことを好まない人物であるからショックを受けた可能性は高いと少しばかり申し訳なさを覚えた。だが、それくらいだ。表立って心配の声を掛けるでもなくただ傷の手当てをされて、明日は念のため一日学校を休みなさいと言われただけだ。


 手当を終えてからも父親の機嫌は悪いままで、それにつられてか兄の機嫌も決していいとは言えなかった。あまつさえ「雑魚がカッコつけるからそんな風になるんだよ、これに懲りたら余計なことすんな。」などと吐き捨てて自室へと戻って行ってしまった。

 踏んだり蹴ったりとはこのことだと思いながらもふと鏡に映った自分の顔をみて、なるほど、これは確かに”そんな風”と言われても仕方がない顔だと笑いが込み上げる。

 頑丈な体が幸いして口の中が切れただけで数日もすれば腫れも収まるだろうというのは母親の見解だが、昔から体の見立てを間違えたことはないのだから恐らくそうなのだろう。

 少しずつ昔の自分に戻れたのかもしれないと思っていたが、やはりそれはただの勘違いで結局は自身の成したことなど親にとっても兄にとっても所詮はその程度で価値など無いのだと突きつけられた気分だ。

 いや、実際価値など無いのだろう。父親にとっては兄が立派に大学を出て一流の企業に就職して自分と同じ道のりを、それこそ”エリート街道”を進むことが大切で、その為には学生時代の経歴に傷などつけられてはたまらないのだ。


 一人で物事を成し、経歴に傷が付くような出来事には関与しない。それこそが父親の求める息子像なのだから、その正反対を進んでいく志真の存在は無価値に等しい。レールなど敷かれなくとも理想通りに成長した兄と、親の敷いたレールの上すらまともに走れない弟では優先する順位も変わるだろうと今更ながら当たり前の事実に打ちのめされる。

 人当たりが良く誰に対しても優しい、というのは兄である光輝の対外的なイメージであるが実際は別に大して優しくないし身内に対しては正直傍若無人だが、それもまた父親と似ている部分なのだろう。

 そして昔から何をするにも兄の方が上を行った。というよりは兄が立てた記録を弟である志真が破れなかっただけのことだ。もちろん同じくらいの成績や能力であった自覚はある。だが、兄と同じでは評価に値しないのだ。

 兄が出来ることは弟も出来て当たり前で、だからこそ認められるために何でもしてきた。昔は人を助ければ周囲から褒められた。周囲から褒められている子どもを親が褒めないわけにはいかなかったのだろう。それを親に認められるための行動だと幼い頃の自分は勘違いしてしまった。

 だからこそ団体競技に進み、チームに貢献して実力をつけて、そして――潰れた。


 今までして来たことが足元から崩れる感覚は今でも鮮明に思い出せる。あの時もそう、父親は志真自身に何の期待もしていなかったのだ。団体競技に進んだ時点で評価の対象から外れていたのだから。

 あの時にもう親には何も期待しないと思っていた、期待すること自体が無駄なのだと分かっていた。それでもやはり心の何処かでは自分のことを少しでも心配なり気遣ってほしいと思っていたのだろう。

 ここまで頑張ったのだから、他人を助けたのだから、きっと褒めてもらえるはずだとそう思ってしまった。


 あの時、優海はどんな表情をしていただろうか。傷を見られれば心配されると思い、来ないでほしいとメッセージを送ったが、優海のことだから様子を見に来る可能性も考慮できたはずだ。

 優海はどう思っただろうか。やはり無謀なことをしたと言われるだろうか。心配は――してくれるだろうな。褒めては、くれるだろうか。

 分からない。優海からも危険なことをするなと責められてしまうかもしれない。そうだとしたら今の自分を保っていられるだろうか。いや、優海からならば危険なことをするなと言われても受け入れられるかもしれないと少しだけ考える。


 きっと優海ならば受け入れてくれる――そう考えたところでふと怖くなった。

 もし、受け入れてくれなかったら?

 父親と同じように優海からの愛情もすべて勘違いしているだけで全く違う感情だったら、どうすればいいのだろう。そんなことは無い。そんなことはあるはずがないと思いながらも、携帯に届いている優海からのメッセージを見るのが途端に怖くなった。

 優海がいたからこそ、昔の自分に少しだけ戻ったように感じた。それは優海が今の志真も変わらずに同じ目で見てくれているからであり、ずっと志真は志真だと言い続けてきてくれたからだ。

 だからこそ、そんな優海からの愛情が志真の勘違いだったらもう立ち直れないかもしれない。無意識のうちに握り締めていたカッターナイフの刃を肌へと滑らせる前に、静かに仕舞う。

 大丈夫。大丈夫と言い聞かせ、ベッドにもぐりこみ布団を頭まで被る。

 

 次に会う時までにはいつも通りの志真でいられるようにと、またあの悪夢を見ながら眠りについた。

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